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ひとしきり泣きはらしたティエラディアナが落ち着きを取り戻すと、ゆっくりと地面に降ろされた。
離れてしまうことが寂しかったが、それまでずっと横抱きにしていたことを思えば仕方ないのだろう。でも頭では分かっていても、寂しいものは寂しい。
「危ないから今日からは家まで送って行くよ。ティーナ、家はどこ?」
そんなティエラディアナの目線に込められた思いに気がついているのか、ジークハルトは細い肩を優しく抱いた。
だが帰ることを促されても、ティエラディアナは踏み止まったままで俯く。
「どうしたのティーナ」
怪訝そうに尋ね、ジークハルトが顔をのぞきこんで来る。どんな反応をされるのか想像もできないのが怖くて、微妙に目を背けながらティエラディアナは途切れがちに呟いた。
「家には、もう帰らない……帰りたく、ない、から」
ジークハルトの家に置いて欲しいとまでは言えなかった。
何も持たずに飛び出て来たティエラディアナは財布すら持っていない。その状態で身を寄せられるような場所もあるはずがなかった。
「……家を出て来たの」
沈黙が重く、痛い。
家に帰るよう言われるだろうか。いやきっと言われるのだろう。そうしたら、お金も行く充てもないティエラディアナは帰るしかない。
家出ごっこもできない自分が何だかおかしくて、諦めておとなしく帰ると言いかけた時、ティエラディアナの頭にそっと手が置かれた。プラチナブロンドの髪を撫でながら、ジークハルトが先に言葉を紡ぐ。
「俺の家は君の実家と違って名ばかりの伯爵家だし、今は実家を出てる俺といても優雅な暮らしはできないよ?」
「え……」
ティエラディアナは驚きで目を見開いた。
家に帰らなくてもいいと、ジークハルトの家に来たらいいという意味だと思っていいのだろうか。
――いや、それよりも、だ。
これまで家の話は互いにしたことがなかったから、ジークハルトが伯爵家の子息だとは全く知らなかった。
社交界にほとんど顔を出さず、出したとしてもごく親しい友人と他愛のない話をしているだけのティエラディアナは他の貴族の名に明るくはない。それは決して褒められたことではなかったが、ジークハルトは少し困ったように笑うだけだった。
「本当に知らなかったのかい」
「ええ。……ごめんなさい」
「いや……ティーナが何も知らないなら知らないで、それでいいんだ」
それでも奥に何かを含んでいるような言い方だ。気にならないはずがなかったが、どうしてかそこに触れるのはひどく躊躇われた。
そしてその判断は、今この場においてはおそらく正解なのだろう。
「優雅な暮らしなんて私、どうだっていいの。……ジークが傍にいてくれるなら、それで」
ジークハルトが伯爵家の嫡男だなんて知らなくても、好きになった。
バイオリンを奏でる細くしなやかな指先。
笑った時だけ少し垂れ目がちになる緑色の涼し気な瞳。
「ティーナ」と呼ぶ低めの声。
そのままのティエラディアナを受け入れてくれる、たった一人の存在。
仕草の端々から、育ちが良いことは窺い知れていた。でもティエラディアナがジークハルトを好きだと感じる要素のどれを取っても、身分を理由にした部分などない。
ジークハルトの家に向かう途中、着替え用の服を何着か買ってもらった後で、ティエラディアナは同じ通りにある露店に並んでいたネックレスにはめられた緑色の石に見惚れてしまった。すぐに視線を外したつもりがジークハルトは見ていたようで、あろうことかその場で買ってプレゼントしてくれた。
ジークハルトの瞳の色と同じ緑色が、自分の手が届く場所で揺らめいている。無意識にねだってしまったことが気恥ずかしくて申し訳なかったが、ティエラディアナの心は幸福感に包まれた。
一方でジークハルトとの新しい生活はティエラディアナに、自分はラドグリス家の後ろ盾がなければ何もできない、何も知らない存在なのだという現実を改めてまざまざと思い知らしめる。
家事などやったことがなかったし、やるように求められたことすらない。
だから少なくともティエラディアナにとってはできなくても普通のことなのだが、ジークハルトと共にいるのは侯爵家令嬢であるティエラディアナ・ラドグリスではないのだ。ただの"ティーナ"として、ジークハルトの役に立ちたくて必死だった。
慣れないことばかりで大変だが、ジークハルトとの生活は楽しい。毎日が喜びと幸せで満ち溢れていた。
街の人々は大きな贅沢をしなくても、それ以上に大きな幸せを得ているのだと初めて知った。
笑いながら食卓を囲み、その日あったことや他愛のないことを話すティエラディアナとジークハルトの姿も、外から見たら幸せそうな家族に見えるのだろうか。
食後の紅茶を飲みながらジークハルトが奏でるバイオリンの音色に聴き入り、今度はあの曲が聴きたいと無邪気にリクエストする穏やかな時間は、ティエラディアナがずっと想いを馳せて夢見ていた幸せな家族の姿そのものだった。
ただ漠然とティエラディアナを包んでいたものが、日に日に確かな形と名前を得て行く。
暖かくて優しくて強くて、他に代わりなど決してない。
この感情こそが”愛”と呼べるものなのだろう。
十七年間、両親すら与えてくれなかったそれをティエラディアナは求めていた。
もちろん与えてくれるなら誰でもいいなんて思ってはいない。だからこそ互いに求め合い、与え合っていると自覚した一週間目の夜、二人の関係はより深い繋がりへと変化した。
それだって、恋を覚えた少女ならごく普通のことだと思う。
何度も聞かれたが、最後まで気持ちは変わらなかった。後悔は全くしていないし、あくまでもティエラディアナが望み、決めたことだ。責任を取って欲しいとは微塵も思っていない。
ただ、好きな男の腕に抱かれる、それだけのことでこれ以上ないほどに心が暖かな感情で満たされた。そして他ならぬ自分の母親に、そのささやかで何物にも代え難い幸せすら奪われた女性がいることに胸が強く軋む。
他人から幸せを奪った女の娘が幸せになってもいいのだろうか。
もっともらしく自問を投げてみたところで同じだ。
触れ合うほどに自らのいちばん奥深い場所から愛おしさが溢れて来る温もりが欲しくて、ティエラディアナは縋りつく手を緩められはしなかった。
他人から浅ましいと蔑まれ、罵倒されようと構わない。火傷しそうなほどに熱を帯びた腕が強く抱き締め返してくれるのに、他に何を求めるものがあると言うのだろうか。
自らの熱情だけで身を焦がす自分はやはり、シェラフィリア・ラドグリスの娘なのだろうと思った。
ジークハルトが留守にしている間、ティエラディアナは少しずつ要領を覚えはじめた家の掃除に精を出していた。さほど広くはない――それはあくまでも伯爵家の所有する別邸にしてはという意味であり、近隣の家々と比べたら十分に広いのだが――一階の掃除をほとんど終えて、二階に上がる階段に向かう途中でふと足を止める。
通路のいちばん奥に位置する部屋に何気なく視線を向けた。
確かジークハルトは物置代わりに使っている部屋だと言っていたように思う。だから普段は掃除をしなくてもいいと言っていた。
どうしてだろう、あの部屋を見ると胸がざわつく。
誘われるまま部屋の前に行き、ドアノブに手をかけた。
かちりと小さな音を立てドアが開く。鍵がかかってはいなかった。
心臓が高鳴る。
ティエラディアナは得体の知れない覚悟を決め、部屋の中へと身を滑り込ませた。
窓がないらしく昼でも薄暗い部屋に明かりを灯し、中を見渡す。
本当に物置部屋として使われているようで、色々な物が所狭しと置かれていた。
ここを掃除するのは大変そうだ。そんなことを自然と考え、唇を綻ばせたティエラディアナの視線がいちばん奥に吸い寄せられた。
壁に何か立てかけられている。
近寄って良くみれば裏向きに置かれた額縁のようだ。
ティエラディアナの肩幅より少し大きいくらいのそれに手をかけると、見た目ほどの重さはないようでたやすく持ちあがった。角をぶつけないように慎重に裏返し、本来見えているはずの面を上へと向ける。
儚げな笑みを浮かべる、美しい女性の肖像画だった。どことなく雰囲気がジークハルトに似ている気がする。馬車の事故で先日亡くなったという彼の母親の肖像画だろうか。
後でジークハルトに聞こうと思い、額縁を元の位置に戻そうとして手が止まった。
それなりの年月を経た間に擦れてできた傷かと思ったが違うようだ。額縁の右下に、その大半がずいぶんと削れ、浅くなってしまったらしい何かの模様が刻まれている。
うっすらと積もった埃を指先で拭い、形を確かめるようになぞれば妙な既視感を覚えた。
ティエラディアナは、この模様を知っている。