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「あの男はやめなさい、わたくしの可愛いティーナ」


 ジークハルトと出会ってからというもの、反比例するように母との会話は減った。

 元々、会話と言っても一方的に母が、父とその愛人を詰る様を聞かされているだけだ。薄情かもしれないが、それを聞く機会が減ったことはティエラディアナには喜ばしいことではある。


 しかし数日振りに口を利いた母がいきなり何を言い出すのか、ティエラディアナには理解できなかった。


「あの男って、誰のことを仰っているの?」

「ダメよ、ティーナ。あの男だけは絶対にダメ。どうかお母様の言うことを聞いてちょうだい」


 まるで名前を口にすることすら厭うように、母は頑なに首を振る。

 話しかけて来たのは母なのに会話は成立しておらず、ティエラディアナは微妙な歯がゆさを覚えた。


「……ジークのこと?」


 最近、ティエラディアナが親しくなった異性は彼しかいない。まさかと思って尋ねれば、母は悲鳴にも似た鋭い声をあげた。


「やめて! その忌まわしくて汚らわしい名をわたくしに聞かせないで!」


 頭を抱え、幼女のように癇癪を起こす母に言葉を失う。

 いや、それよりもティエラディアナに衝撃を与えたものがあった。


 ジークハルトの名が「忌まわしくて汚らわしい」とはどういうことなのか。この様子では、母は彼を知っているということになる。


「どういうことなのお母様。事情を聞かせて」

「ティーナ、結婚相手はお母様が見つけてあげるわ。容姿も性格も家柄も血筋も、お母様の可愛い娘の貴女にこそ相応しい、最高の殿方を選んであげる。だから、あんな男のことは早く忘れておしまいなさい。ねえ、わたくしの可愛いティーナ、貴女はお母さまの言うことをちゃんと聞いてくれるわよね?」


 母はやはりティエラディアナの話を聞こうとはしてくれない。ただ、自分の気持ちを押しつけようとするだけだ。

 せめて事情くらい聞かせてくれたら、ティエラディアナの受け取り方だって違って来るのに。


「ティーナ、それでいいわね?」


 両肩を掴まれ、一方的に母の気持ちの肯定だけをせがまれた瞬間、ティエラディアナの中に恐怖にも似た感情が広がった。


「さわらないで!」


 母の手を反射的に振り払い、全身で大きく息をつく。

 掴まれていた場所からどんどん体温が奪われて、そのまま氷の彫像にでもなってしまうのではないかと思った。震える身体を叱咤しながらジークハルトの姿を想い描き、その温もりを留めることに必死になって自分の手で強く抱きしめる。

 涙で視界がぼやけ、嗚咽で息が止まりそうな状況で、目の前にいるはずの母へ口を開いた。


「私は……私もお父様も、お母様の為に用意された人形じゃない! 心が、あるの!」


 父まで引き合いに出すつもりはなかった。

 けれど、それがたとえ無意識のものであっても――無意識であったからこそ余計に――口をついて出てしまったものは今さら取り返しがつかなくて、ティエラディアナは母の顔を一度も見ることなく家を飛び出した。


 ジークハルトに会いたい。

 今のティエラディアナが頼れるのはジークハルトしかいなかった。


 ティエラディアナの足は、自然と広場へと向かう。

 不幸中の幸いと言うべきか、今日は晴れていた。もしかしたらジークハルトがいるかもしれない。いつまで経ってもバイオリンの音が聞こえてこないことに一縷の不安を抱きながら、わずかな期待に縋っていつもの場所へと急いで行く。


「どこ行くの、可愛いお嬢さん」


 いつから、目をつけられていたのだろう。

 気がついた時には、軽薄そうな見た目をした二人の若い男に道を塞がれていた。短髪と長髪という違いはあるが、おそらくは兄弟なのかどことなく雰囲気の似ている男たちは値踏みするかのようにティエラディアナの全身を眺め回した後、少しずつ距離を詰めて来る。

 遠慮なく伸ばされた武骨な手をかろうじて躱し、喉奥に張りつく声を振り絞った。


「や……やめて、下さい……」

「小動物みたいに震えちゃって、かーわいいねえ」

「さっきから泣いててどうしたの? お兄さんたちが、たっぷりと慰めてあげるから一緒においでよ」


 男たちは怯えるティエラディアナを取り囲み、その顔にますます下卑た笑みを貼りつける。

 ティエラディアナは完全に足がすくんでしまって動けなかった。


 周囲の人々は誰も助けてくれない。

 目が合っても、気まずそうな顔でそらされるばかりだ。

 庶民である彼らはラドグリス家の名を知っていても、ティエラディアナの顔は知らないのだろう。ラドグリス家の威光がなければ所詮ティエラディアナとて、一人の非力な少女に過ぎないのだと嫌でも思い知らされる。


 だが、自分の身を護る為であっても家名を出すわけにはいかなかった。

 両親を、過去の自分を、それにまつわる全てを捨てるつもりで家を飛び出したのだ。都合の良い時だけ家名を出すことはできない。それに、本家を守る伯父には余計な迷惑をかけたくもなかった。


「たす、けて……ジーク……」


 今にも力が抜けてへたり込みそうになるのを堪え、来るはずのない名前を呼ぶ。

 それだけでティエラディアナは踏み止まれた。

 時間を稼いで騒ぎがもっと大きくなれば状況だって変わるかもしれない。誰も助けてくれなくても、隙を突いて逃げ出すことくらいならティエラディアナにだってできるはずだ。


「ジーク?」


 ティエラディアナの声を聞き咎め、男たちは顔を見合わせた。それから長髪の男が馴れ馴れしい仕草でティエラディアナの肩に手を置き、耳元に囁いて来る。


「ああ、そいつなら俺たちのダチだよ。会いたいなら連れてってやろうか?」


 見え透いた嘘にも疑いを持たずのこのことついて行くほど、ティエラディアナも世間知らずではないつもりだ。

 あまりにもバカにした扱いが悔しくて涙が潤む。そこにジークハルトの名が利用されたことも不愉快だった。


 けれど、と思う。

 彼らが本当にジークハルトと顔見知りなのかどうかという真偽はさておき、もっと早くに彼の名を出されていたのならティエラディアナは疑うこともせず、ついて行っていただろう。

 だから余計に悔しいのだ。


「せっかくの美人さんがそんな怖い顔するなって。ホラ、行こうぜ」


 しかし、もう時間稼ぎに付き合ってはもらえないらしい。短髪の男がティエラディアナの手首を掴むと、半ば引き摺るように強引に連れて行こうとする。

 ティエラディアナもそこまでが限界だった。


「離して……っ!」


 掴まれた手を必死に振りほどこうとしてティエラディアナが暴れると、男は髪だけでなく気も短いらしく舌打ちをした。


「こいつ、下手に出てればつけあがりやがって……!」

「バカやめろ!」


 多少の冷静さはあるらしい長髪の男の静止も聞かず、男の右手が上がった。


 ――殴られる。


 当然だがティエラディアナはこれまで誰かに殴られたことも、叩かれたこともない。しかし一度だけ、夜会中のトラブルで人が人を叩いたところを見たことがある。

 とても痛そうだった。打たれた頬も、心も。

 きつく目を閉じて衝撃に耐えようとする。だがいつまで経っても、来るはずの痛みは来なかった。

 ティエラディアナはゆっくりと目を開ける。彼女に向かって振り上げられた男の腕が、その背後から違う誰かの手に強く掴まれていた。


「汚い手で、その子に触るな」


 本当に助けに来てくれるとは思っていなかった。

 ずっと聞きたかった声と、ずっと見たかった顔に安堵したティエラディアナは、その場にくず折れそうになる。ティエラディアナの手を掴む男を押しのけるようにして距離を取らせ、ジークハルトは力を失った身体を抱き上げた。


「お前に会いたがってたから、案内してやろうとしただけだって! なあ!」


 どうやら顔見知りというのは事実らしい。

 しかもジークハルトとの間にそれなりの力関係が存在しているようで、つい数刻前までの威勢はどこへ行ったのやら、一転してティエラディアナの機嫌を窺いながら同意を求めて来る。

 何と言って返事をして良いのか分からずにティエラディアナが無言でいると、これ以上風向きが悪くなることを恐れたのか男たちはおとなしく去って行った。


「ティーナ、怪我したりは……」

「ジーク、怖かった、ジーク……っ!」


 完全に緊張の糸が切れてしまい、ティエラディアナは人目を憚ることも忘れてジークハルトの首に縋りついて泣きじゃくった。

 背中を撫でてくれる手が心地良い。こんな些細なことでも、どうしようもなく愛しいと思った。


「俺がいなかったせいで、怖い思いをさせたね」


 ジークハルトが謝らなければいけないことなんて何もない。

 泣きながら家を飛び出したティエラディアナが、警戒心もなく無防備に歩いていたせいだ。だからジークハルトは悪くないと、ひたすら首を振った。



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