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新聞を片手に持った老執事に何事かを耳打ちされ、シェラフィリアの形の良い唇がほんの一瞬だけ愉悦に歪んだ。
「――そう。亡くなったのね」
紡がれる言葉の意味とは裏腹に、母の声には無邪気さすら感じられた。
喪服に身を包んだシェラフィリアは妖艶なまでに美しく、男を食い散らかしては悦楽に浸る黒い毒蜘蛛のようだった。
そう、誰が最初に言い出したのか定かではなく、どこまでの意図が含まれているかも分からないが、気がつけばシェラフィリアの社交界での呼び名になっている百合の花には毒性があるではないか。
華奢な全身を漆黒のベールで覆った姿こそ、シェラフィリアの本質と呼ぶに相応しい気がした。
「お母様、どちらへ?」
すっかり社交場からは身を引き、友人の伯爵夫人たちをたまに家へ呼んでお茶会をする程度だったシェラフィリアが出掛けようとしている姿を見るのは久し振りだ。
表情を隠すようにミニハットから下がるチュールレース越しにティエラディアナを捉え、シェラフィリアはどこか気怠げに微笑んでみせる。凄絶なまでの色香に、娘のティエラディアナでさえ魅了されてしまいそうだった。
「旧知の友人が不慮の事故で亡くなったらしいのよ。ティーナ、貴女のお父様にも連絡が取れれば良かったのだけれど……本当に残念ね」
本当に連絡を取ろうとしたのだろうか。
ティエラディアナは母に対して訝しむ目線を向けたが、そこにいるのは伏し目がちに弱々しく佇む女性だけだ。
だが、友人の死を悼む姿すら完璧なまでに演じているのではないか。ティエラディアナは実の母にあるはずの良心さえ、もう信じられなくなっていた。
今日の葬儀は数日前に執事のエバンスに聞かされた、不慮の事故で亡くなったという旧知の友人を見送る為のものだろう。
――そう。亡くなったのね。
あの時の母の表情が。
声が。
ティエラディアナは忘れられなかった。
家にいると気が滅入ってしまいそうで、ティエラディアナは久し振りに街へ出た。
年頃の少女らしく衣服やアクセサリーを眺め、はしたないと思いつつもアイスクリームを買って食べながら歩く。それだけのことが楽しかった。
だから普段であれば喧噪が好きになれず近寄らないでいた、大通りの中央の広場へ向かっていた。
休日だからか大勢の人が行き交っている。予想以上に賑やかで騒がしく、けれど彼らの話し声は薄い膜で遮られているように遠い物だった。何かの音がただ流れる中を、あてもないまま通り抜ける。
広場に近づくにつれて、どこからともなく悲し気な旋律の音色が聴こえて来ていることに気がついた。
バイオリンの音だろうか。人々にとってはその音が薄い膜で遮られているのか特に耳を傾ける様子もなく、無関心に通り過ぎて行くだけだ。
そんな人々の合間を縫い、ティエラディアナは音の出どころを探した。耳を澄まし、花の蜜に引き寄せられる蝶のように音が聞こえる方向へと足を進める。
広場の片隅にその人物はいた。古いが良く磨かれて飴色の艶を放つバイオリンを構え、同じ曲を奏でている。
「貴族のお嬢さん、俺のバイオリンの音色はどうでした?」
音色に聞き惚れて立ちすくんでいると当の本人から声をかけられた。自分に向けられたものだとは思わずに瞬きをすると、深い緑色をした目が楽しそうに細められる。
年は一つか二つしか変わらないように見えるが軽くあしらわれたようで、ティエラディアナの貴族の令嬢としてのプライドがほんの少し刺激された。それが逆に子供っぽい反応であることには気づかずに、淑女らしく悠然と微笑んで見せる。
「私は、とても良いと思うわ。好きよ」
「ありがとう」
褒め言葉に屈託のない笑顔で返されて戸惑ってしまった。
良い音色だと思ったのは嘘じゃない。
好きな音色だと思ったのも嘘じゃない。
だけど「好き」という言葉をそのまま受け止められ、なおかつそれが喜ばれているらしいことに胸の奥がギュッと締めつけられる。
もう何年も、何かを「好き」だと言ったことがないのに気がついた。
――人も、物も。
新しく好きになることがなかったから、それを声に出して伝えることもなかった。
それなのに彼のバイオリンの音は好きだと思ったし、何の躊躇いもなく言葉にできた。
何故だろう。
理由を考えて、ここまで辿り着いたその原因に思い至る。
「でも、とても悲しい音色だった」
だから、惹かれた。
「一週間前に、身内を馬車の事故で亡くしてね」
「あっ……ごめんなさい、詮索するつもりはなかったのだけど」
一週間前に亡くなった人を想って悲しげな旋律の曲を弾くということは、まだ傷が癒えてはいないのだろう。
もちろんわざとではないが、気安く入り込んではいけない部分に入り込もうとしてしまったことが申し訳なくて謝罪を口にすると、青年は驚いたような顔をした。
「貴族のお嬢さんでも謝ることなんてあるんだな」
「失礼ね。私だって、自分が悪いと思えば謝ることくらいできるわ」
「……そうだな。俺の方こそ、すまない」
違うことで謝り合って、ふと正面から視線が重なればどちらともなく笑みがこぼれる。
人と話すことがこんなにも楽しいだなんて、最後に思ったのはいつだろう。
もっと、たくさん話してみたい。
そう思った時には唇から次の言葉が紡がれていた。
「いつも、ここでバイオリンを弾いているの?」
「良く晴れた日に気分が向いたらね」
「……そうなの」
ティエラディアナは少しがっかりしてしまった。
「気が向いたら」なら、天気が良いからと言ってここに来ても会えないこともあるということだ。
もっと確実に会うにはどうしたらいいのだろうか。
必死に考えを巡らせていると、今日はもう弾く気がなくなったのか、バイオリンをケースにしまいながら青年が名乗った。
「俺はジークハルト・フェルドラータ。君は?」
「ティーナ。……ティエラディアナ・ラドグリスよ」
ラドグリスの名に、ジークハルトの目がわずかに見開かれた。やはり正直に名乗るべきではなかった。もし次の機会があったら、その時は適当な偽名を名乗ろうと思う。
けれど、どうしてかジークハルトには自分の名を、ティエラディアナのあるがままの名を知って欲しいと思ったのだ。
「……驚いた。貴族のお嬢さんどころか、とんでもない名家のご令嬢じゃないか」
「権力があるのは私じゃなくて伯父様だし、私はただの小娘にしか過ぎないわ。だから気にしないで」
気にするなと言われても無理なのは分かる。
ここでラドグリス家の機嫌を損ねては生きてはいけない。
だから――アインザック家はミハエルという生贄を差し出してまで家を、一族を守ろうとしたのだ。
でも今はそんなことは本当にどうでも良かった。ティエラディアナは遠慮がちに、名前を知ったばかりの青年を見上げる。
「私、また貴方のバイオリン聴いてみたい。……その、お金なら、いくらでも出すから」
「別に金なんかいらないよ」
険しい声で突っぱねられ、ティエラディアナは無自覚な失言に気がついて身をすくませた。
確かに、お金で解決してやろうなんて初対面で失礼な言い方をしてしまった。ましてやそれは、ティエラディアナが自分の力で稼いだものでも何でもない。これだから貴族の令嬢は……と呆れられてしまっただろうか。
「できるだけ晴れた日は弾きに来るから、君も来れるようならいつだって来たらいい」
ティエラディアナが謝る為に口を開こうとする前に、ジークハルトは何もなかったように告げた。
「また、聴きに来てもいいの?」
それを受けたティエラディアナの声が自然と弾む。
さっきは「気が向いたら弾きに来る」と言っていた。それが「できるだけ弾きに来る」に変わった。
ジークハルトも、またティエラディアナに会いたいと思ってくれたのだろうか。
本当にそうなのだとしたら、嬉しい。
「俺のバイオリンの音を気に入ってくれたんだろう?」
「嬉しい、ありがとう!」
心からの笑顔を浮かべてお礼の言葉を口にしたのも、いつが最後だっただろう。
それを咄嗟に思い出せない自分の現状に泣きたくなったが、必死で気がつかない振りをした。
それからティエラディアナとジークハルトは、急激に親しさを増して行った。
家では紅茶を飲みながら本を読んで過ごすことが多いティエラディアナも、ジークハルトには良く喋り、そして笑って見せた。時には怒ったり、意見が合わなくて衝突することもあったが、その度に互いの理解を深める結果になった。
最初は晴れた日に気まぐれだけで重ねられていた逢瀬も、六回目からは日時を決めた約束へと自然な流れで変化していた。
とは言え、ティエラディアナは雨が降っている日は一人で外出できない。結局は晴れた日だけの逢瀬であることには変わりなかったが、互いに会いたいと思っている気持ちが見える分、ティエラディアナを安心させた。
ジークハルトはぽっかりと空いた隙間に過不足なく収まって、乾き切った場所を過不足なく潤してくれる。
それがいわゆる相性と呼ばれるものなのだろう。けれどティエラディアナにとっては、思い込みから発生した大袈裟な表現と笑われようと運命と言うべきものに思えた。
他人に対して、こんな感情を持つのは初めてだった。
満たされる喜びと、満たしているかもしれない喜びが全身に溢れている。
愛人にのめり込んで行った時、父もこんな気持ちだったのだろうか。
無理やり結婚させられた妻と義務で作った娘のいる、愛情の欠片もない家庭に嫌気が差した状態で出会った愛人に、安らぎを見出していたのかもしれない。
今のティエラディアナがそうであるように。