6.書庫番の後悔
翌日、いつものように着替えて職場に向かうと、騒然とした空気があった。
なんだろう、と気にはなったが、目当ての人物を探す。
「あ、ルーン!」
その人物は、まるでルーンを探していたかのように声をかける。
「ミラ! ちょうどよかった。今日のランチのとき時間空いてる? 相談したいことが」
「ねぇ、それよりも。落ち着いて聞いて。あのね、あのね、殿下が――」
昨夜フェルナンドが交通事故に遭って重傷である――。
運転手が急な心臓発作で意識を失い、暴走した車が王子の乗る車に真横から猛スピードで激突した。王子の乗る車は原型をとどめないほどにひしゃげ、王子は救急病院に搬送されたという。
「ねぇ、ルーン、聞いてる? 大丈夫?」
言っている自分こそ大丈夫じゃないように顔面蒼白にしたミラが、ルーンの肩を揺する。
「……病院ってどこ?」
「あ、たぶん王立の大学附属病院だと思う。あの、大通りに面したとこの」
「わかった。ごめん、館長には今日休みって伝えといて!」
ミラの返事を待たずに、ルーンは駆け出していた。
◇ ◇ ◇
「はぁ、はぁ」
滅多に運動しないので、体は重く、息も切れ切れだ。
王立大学附属病院。
最新機器や最新技術を持った医師が揃う、この国で最高水準の病院である。
曇天の下で、いくつもの白い壁の棟が立ち並び、その重厚な存在感で見る者を圧倒していた。
その門の前には、わかりやすく多くの新聞記者たちが集まっており、物々しさだけでなく不穏で落ち着きのない様子を醸し出していた。
どうしようか、ルーンは考える。
ここにフェルナンドがいることは間違いない。ミラの話を聞いたときにはとにかく病院に来ることしか考えていなかったが、こんな一般人が来たって追い返されるのは少しでも考えればわかる。
記者たちの塊を抜けて院内に入れたとしても、治療室に近づくことはできないだろう。
小一時間、病院の前でうろうろしていただろうか。
「あの」
ルーンの肩を叩く者がいた。
◇ ◇ ◇
「こちらです」
ルーンの肩を叩いた人物は、リベルトと名乗った。フェルナンドの側近と言っていたが、鍛え抜かれた長身に、眼光は鋭く、かなりの切れ者だとわかる。しかし、その顔や手には包帯が巻かれ、彼自身も痛々しく見えた。
簡潔な説明を受けながら、足早に病院を移動する。
フェルナンドの治療は先ほど一旦終了し、病室に移動したところだそうだ。
フェルナンドに付き添ったリベルトが、病院の窓からルーンの姿を見つけたという。
ルーンは知らなかったが、フェルナンドが図書館に来る際にリベルトも来ていて、ルーンのことを前から見知っていたそうだ。
良く見えましたね、と褒めると、視力が4.0なので、と簡潔な返答があった。本の読みすぎで、極度の近視になっているルーンには信じられない数字である。
命に別条がないということで一安心だが、十時間に及ぶ大手術だったということで気持ちが急ぐ。
早く会いたい、フェルナンドの様子を一目見たい。
エレベーターに乗っているたった数分間がひたすらに長く感じる。
フェルナンドの病室がある階に着いて、エレベーターのドアが開くのですらもどかしい。
早く、早く。
「こちらの部屋です」
案内されたのは、フロアの奥にある一室。
通常の一般病室とは明らかに違う、入り口の警備の固さに、さすが王子だと今更ながら感心する。
いつも図書館で会って、気安く話しかけてくれ、穏やかなまなざしで見つめてもらえるものだから、つい忘れてしまいがちだけれど、フェルナンドは王子なのだ。
通常であれば、会う機会も仲良くなることもない。
けれど、不思議な縁で知り合うことになり、こうやって告白されて、悩む対象になったのだ。
本当に、小説のような、不思議な展開だ。
自分は読む専門であって、主人公になるはずない。ずっとそう思ってきたけれど、まさかの展開が待っていた。
そうして距離を置こうとしたけれど、やっぱりフェルナンドを忘れられなくて、こうやってここまで来てしまった。
『あんたの気持ちはあんたにしかわからないんだから』
厳しいこともはっきり言ってくれる唯一の友人の顔を思い出し、深呼吸する。
そう、これは小説ではない。読者がいて、神のような視点ですべてを俯瞰して見られるものではない。
ルーンの気持ちは、ルーンにしかわからない。
ここでフェルナンドに会ったら、もう戻れない気がする。せっかく距離を置こうとしたのに。
しかし、会わない、という選択肢はない。
意を決して、病室に足を踏み入れた。
ありがとうございました。