堤防の弓兵
四方八方から、寄せては返す潮騒が聞こえる。
月明かりすらも乏しく、夜の海がかろうじて判別できるだけ。
目を瞑れば、海に溶けてしまいそうなほど物音はなく、ただただ海が奏でる音色と、下弦の月が織り成すかすかな光だけがこの場を支配している。
少年はテトラポッドの上に座って、見るともなしにその光景に感じ入っていた。
ゆらゆらと、波の音にあわせて上体をゆする少年の顔立ちは、闇にまぎれて判別がつかない。それほどまでに黒色は強く、光はない。
世界を構成する要素から音と光の大部分が抜け落ち、静寂と静謐が代わりに当てはまったよう。
けれど、それもひと時のこと。細く長く闇夜を切り裂く一筋の光と、清冽な音がしじまの世界を乱す。
誘われるように、少年は立ち上がり、どっしりと積み重ねられたテトラポッドから飛び降りる。衝撃は柔らかい砂地に吸収され、波の音が少し近くなった。
再度、心地よい旋律が響く。
反対側、海ではない方角から聞こえてくるのに、振り向き仰ぎ見る。
津波対策のために高く築かれた堤防の上に、スカートを風になびかせた少女が弓に矢を番えて立っていた。少女の背の丈ほどある弓に、引き絞られた淡く光る弦だけが闇夜をほのかに照らしだしていた。
少女の顔を浮かび上がらせるほどの光量には足りえず、ただ白い肌があるように見える。
それでも、目だけが異様なまでに研ぎ澄まされているのがわかる。
見据える先は漆黒の海。途切れることなく続く潮騒に耳を傾けている――などという甘い言葉は似つかわしくない瞳で、冷徹に闇を見据えている。
矢が射られる。
高く弦をはじく音がすると同時に、放たれた矢は海の闇へと消えていく。
一時の沈静はすぐに何物かの断末魔へと変わり、ついで低く奇妙な物音が断続的に海の向こうから響きわたる。潮騒の音にかぶるようにして、鳴動する何かが近づいてくる。
気づいているのか、いないのか。少女は慌てることなく次の矢を番え、射る。二発、三発。時間をおくごとに速度が速くなっていき、番えると同時に放たれている。
それらすべてを目で負うことなどできるはずもなく、またその余裕も少年にはなく、目線は海に固定される。
海の彼方、光がさしこまない海の底から奇妙な光源か競りあがってくる。それを言葉で表すとするならば、有象無象というのがしっくりくる。液体の一部分を切り取っても液体以外の言葉で言い表す単語がないように、どの部分を切り取ってもそれらとしか言いようがない固体の集合体。
子どもが粘土をこねて作り上げたような、大きく全体的にひび割れのした発光する怪物。緑色に鈍く輝く継ぎはぎだらけの肉体を持った巨体が、漆黒の海を押しわけるようにして海面から姿を現していく。
少女の手元から放たれた矢はすべて、この奇妙な生物に吸い込まれるように、当たったところから肉を穿ち貫いていく。しかし、それも一瞬。穿かれた穴は周囲から肉片が押し寄せて塞いでいき、見た目には何の欠損ももたらさない。
当然、歩行の妨げなどにはならず、悠々たる動きで砂浜を目指すのをとめることはできそうにない。
それがわかっているのか、少女の連射が止まり、弓に矢を番え怪物を標的に抑えたまま鏃を下げる。
海を掻き分ける音が少年のいるところまで聞こえる。
少年は思い出したように呼吸をし、喉を鳴らす。
海洋からやってくるものに人は原始的な恐怖を感じる。古くから海には魔物が住んでいると伝えられ、人々は想像たくましく思い描き恐怖してきた。海の彼方がどこに繋がっているのか知らず、すぐ近くの浜や沖までしか生活圏とすることもできなかった人々にとって、海は未知であり神や魔物の領域であったがために。
この怪物も、人の世に訪れてきたまれびとであるかのように、人と同一のものであるとは思えない。ただしく異境の住人である。
ならば、それに対峙する少女はいかなる身上であろうか。単身で怪物の行く手をさえぎる弓兵。開けた視界に緑色の発光体は、闇という環境において目立つことこの上なく、巨体でもあるため的を外すということは考えられにくい。
逆に言えば弓兵と怪物の間を隔てるのは距離とテトラポッドしかない。全長は未だ海の中だが、足のところまでしかないことが見て取れ、到底遮蔽物足り得ないことがわかる。
怪物が上陸する前に水際で叩けば勝利。上陸されれば敗北。
背水の陣ともいえるが、そもそも単体でことを成し遂げようとするならばある程度の無茶は必要。ましてや、距離を開ければあけるほど精密度が落ちるのが弓兵の性。この距離が弓兵にとっての射程範囲。一方的に攻撃することができる距離だと判断するのが妥当。
怪物に致命打を与えることができない弓兵にはなす術が残されていないかに思える。怪物の歩みは一定であり、狙撃されている事態を前にしても乱れがない。
停滞した状況下では、弓兵のほうが圧倒的に不利かと思われたが、弓兵もまたいささかも動揺を表していない。むしろ、暗闇の中で少年には判別しづらかったが、かすかな笑みを浮かべたように思えた。
絶対なる自信か。打破しうる切り札を有しているのか、その笑みを裏付ける何かを見極めようとした少年は、未だ番えたままの矢が大きくなっていることに気づいた。
最初のときから一回りも、二回りも大きさが違っていた。あまりにも太い矢に、まともに飛ぶわけがないという危惧を抱いたのもつかの間、澄んだ音が静かに流れていた空気を盛大にかき回した。
重さが増した分は速度に現れるのか、今度は目で追うことができた。それでも一瞬という言葉には違いない速さであり、軌跡を追おうとするのは閃光と爆発音によってさえぎられた。
闇夜に慣れた目に強烈な光は一瞬とはいえ、視界を奪い去るには十分だった。灰色に近い黒の世界がまぶたを閉じても続いているよう。
何かが羽ばたく音はするが、あけようにも焼かれた眼はその光景を写そうともせず、いたずらに耳だけが過敏になる。
弦がはじかれる音。羽ばたく音。断末魔。潮騒。
聞き取れる範囲内の音は少なく、そのどれもが独立していて不協和音を奏でている。
頭上、真横、真下。認識こそされているが、障害物としか見られていないのか、羽ばたく何かに襲い掛かられることもなく、ただ素通りされていく感触。
ようやく目を開けることができるようになった少年の目に飛び込んできたのは、緑色に輝く蝙蝠の姿をした発光体だった。
怪物の巨体な姿はどこにもなく、その代わりであるかのように蝙蝠が大量に発生していて、矢継ぎ早に繰り出される速射性重視の矢が一体ずつ、あるいは複数を動じに貫いている。先ほどの怪物のように修復か、回復する機能は備わっていないらしく、着実にその数を減らしている。
海面に緑色の発光体が無数に浮かんで、ちょっとした明かりにすらなっている。矢で貫かれた蝙蝠はその存在ごとなくなっているというのに、水面を漂うそれは消滅していない。
あの巨体は緑色に発光する蝙蝠が、無数に寄り集まってできた群体だと何とはなしに思った。つぎはぎだらけの体も、単一の素材で成り立っていないことからすれば当たり前のことだ。
分離する肝心な場面を見ていなかったがために、確証こそもてなかったが、それに違いないのだと直感が告げる。
次々に落ちていく蝙蝠だったが、一体多数という劣勢を覆せる道理こそないのかもしれない。射撃の網をすり抜けた蝙蝠が、少女の肌を食いちぎろうと牙をむき出しにして襲い掛かる。
初めて少女弓を引く動作以外のことをした。
テトラポッドの上を跳躍し、未だ無数とも言える数の蝙蝠がいる真只中へと飛び込んでいく。その最中、空中を飛んでいく少女と目があったような気がした。それは一秒にも満たない空白のスポット。すぐに蝙蝠がだす不快な声によって遮られる。
逆方向。ある程度の速度を持って飛んでいた蝙蝠たちは急に向きを変えることができずに、少女が素通りしていくのを許してしまう。しかし、数においては蝙蝠のほうが上、隙間はあるが人一人分のスペースが開いているわけでもない。体ごと蝙蝠にぶつかり、牙を尽きたてられ、衣服がはげ浅い傷がつけられていき、鏃にぶつかった蝙蝠だけが消滅させられていく。
砂浜へと着地した少女は振り向きざまに、先ほどの怪物を射ったのよりも小さいが、連射していたときのよりも大きな矢が解き放たれる。
今度は何が起こっていたのかを知り、小さな閃光を目でつぶってやり過ごす。小さい矢は穿つことに特化していたようだが、大きいのは爆弾のようなものだった。
対象と衝突した大型の矢は、貫くのではなく当たった瞬間に爆ぜていた。爆風が周辺にいた蝙蝠を地面に叩きつけ、急旋回して舞い戻ろうとした一群をも巻き込んで大部分を撃墜する結果となった。
後はもう少女の独壇場だった。矢を番え放つ。その動作を延々と繰り返して、散発的に襲ってくる蝙蝠を撃退し続ける。
ただそれだけの光景がしばらく続いて、埒が明かないと遅すぎる判断を下して蝙蝠が撤退していく。漆黒の夜空に、緑色の光源が明滅するかのように飛んでいって、やがて見えなくなった。
潮騒の静けさだけが戻った。
終わってみれば弓兵の圧勝。怪物は無数の蝙蝠になって、散り散りに敗走した。
勝者であるはずの少女は、勝ち誇った表情を見せることもなく、淡々としていた。
気づいているのか、いないのか。弓を携えたまま少女はそこを動かない。少年もまた少女を見つめたまま動くことができずにいる。
海の彼方から来るものを警戒しているのか、弓には矢が番えられたままで、いつでもいる段階に持っていけるのだと主張している。
不意に少女が飛んだ。
テトラポッドを乗り越え、少年がいる砂浜の近くへと着地する。
最低でも三歩は踏み込まないと届かなくて、矢を番え放つまでの時間を得ることができる距離。
少年は口を開こうとして、心の奥底まで暴きたてようとする視線に萎縮して空気が漏れる。
有害か無害か。友好的とは言いがたく、探るような目で見られる。
海の彼方からやってきた化け物のように、有無を言わさずに葬り去られるわけでもないが、警戒されていることだけは確かのよう。
沈黙が場を制す。
二人の間に会話はないが、闇に慣れた目が少女の視線が変わっていることに気づかせた。
懐かしむような、憎むような、いぶかしむような、冷徹で敵を見逃さない鷹のような目つきが和らいでいた。
その目に少年は心を揺さぶられ、いくつかの過去の残滓が浮かび上がってきた。
二人の少女と少年が遊んでいる。活発な笑顔を浮かべる黒髪でショートヘアの女の子が、ほほえましい笑みを浮かべている黒髪で長い髪の女の子の手を引いて走っている。
脳裏で泡がはじけていく感じがするたびに、三人が遊ぶ光景が展開されては消えていく。
しかし、それも長くは続かなかった。心馴染む光景が一転して闇に覆われた。
満月が明るく照らす夜の海を三人で泳いでいた。誰にも邪魔されることのない空間で思う存分に遊びふける。
遊びつかれたのか、三人は水面に浮かんで夜空を眺めていた。言葉すくなに海の上で寄り添っていたのだが、急に水面が乱れ長髪の少女が沈んだ。
不自然な沈みに、残された二人が慌てて水面で立ち上がると、海面の下をうごめく緑色の発光体に囚われた少女の長髪が海草のように漂っていた。
そこで少年の記憶は途絶えた。
過去の追憶から少年が戻ってきたのは、時間がほんの少しだけ流れてからだった。少女もまた思い出しているのか、優しいまなざしをしている。
少年は笑みを浮かべる。
少女もまた笑みを浮かべて、矢を番え放つ。
矢は狙いを外すことなく少年の胸に突き刺さる。鮮血はほとばしらず、代わりに緑色の発光体が空へと羽ばたこうとする。
黙って逃亡されるまねを弓兵が許すはずがなく、背後へと向かって跳躍すると同時に突き刺さった矢が爆発する。
爆風は緑色の蝙蝠をなぎ払い、少年だったものを粉々にした。少年だったものは、溶けていくように消えていき、波が緑色の残骸を押し流していく。
少女は少年が座っていたテトラポッドに腰掛けて、波の音に耳を傾ける。潮騒の響きだけがいつまでも響き渡っていた。
会話のない物語です。長編の幕間として書いていたものですが、あまりにも描写がくどくなりすぎた感じがしてお蔵入りを検討した一品。けれど、それももったいないのでアップしてみました。
描写がくどいかどうかだけ教えてくだされば幸いです。