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夏蝶ひとつ

作者: 梅木蒲生

 よしゑは京都の水瀬に映る街燈のもとで二度くしゃみをした。凍てる冬は彼女を足元から酔っ払いが絡むが如く冷え冷えとさせた。


「寒いかァ、これでも着るかァ、ねえちゃん」


 靴音が路地に好く響く寒空だった。零時を回って幾ら洛中といえど人通りは疎らになり、人相も危ない足取りと顔色の粋狂しか残らなくなる。彼女は白い息を吐き吐きしながら目散に家を目指した。飲み過ぎて少しきつうなった身体の節々、関節がぎしぎしと痛い。帰ったら早よ歯磨いて眠ろうと思った。二日酔いは明日の講義に障る。

だが路地に入り、家の灯りが見えてくると軒先に男がひとり突っ立っていて、此方をみるとひょいと踵を返して立ち去ろうとする。自分の息遣いと男の足音が混じって、路地は樹木が鬱蒼と生える密林のように光りが水水しく煌々としていた。目が眩むほどだ。


「ちょっと、」


 よしゑは思わず声を掛けた。男の足が止まる。

男の影姿が微かに笑ったような気がした。

女は白い息をまた少し吐く。


「汚ァ、背中。ちゃんと洗ってるんの、その衣物?」

「・・・」

「家入りィな、さむいし風邪ひくで」


 大丈夫やて、もっと寒いところからきてるし、男はぶつぶつと蟹が泡ふくみたいに呟いていたが、よしゑの部屋に入って敷いてある蒲団見つけたらそのまま厚かましいことにざぶんと飛び込んで寝てしまった。

 揺すれど少し大きな声を耳元で出せど、男が起きる様子はなかった。女はへなへなと部屋の隅に長い脚を卸し、炬燵の掛け布どけて裸の卓の上にすやすやと突っ伏す。いっそ男の身ぐるみ剥いで中の財布だけちょろまかそうと思ったが、其処までこの男の遊びに付き合うのも馬鹿馬鹿しい。

男は、まるで野良猫のように現れ、そのまま気持ちよさそうに深く眠る。

 どあつかましィ・・・。


 その日もまだ昼のお陽さんがざわざわと布団を揺らしてる頃である。熟れた布団の合間をゆらりふらりとふらめく蝶は、ふとその布団の折れ目にぴたと吸い寄せられるばかりに止まると、またふらりゆらりとひとりの男の元へと吸い寄せられるように近づいてゆく。男は隣との閾壁に坐って目のまえの部屋のなかで布団敷いてぐっすり昼寝するひとりの少女をじっとみつめながら自分は昼間から酒を一杯二杯と繋いでいるのだ。


「しぃ。しぃ。あっち行けや、阿呆。夏蝶の阿呆」


 男は乱暴に腕を振った。蝶は容姿こそ美しいものの、動きは夏の蝿や蚊と違いもせず、この男を花とでも見間違ったのか、昼間の酒臭い匂いが気に入ったのか、その蜜を吸おうと男の顔や胴体の辺りを付きまとう。男の振りは乱暴だった。だがそれも蝶には当たらない。手に持っていた酒は波のようにざぶざぶと毀れ、それが衣物にかかると、今度は其処を狙って蝶は求愛する。女が男を挑発するようだった。

男は頭にきた。その酔っ払いが振り下ろす腕は見違えたように速かった。思い切り当たった。冬瓜みたいな蕩ける感触だった。すると蝶はへなへなの海月が腰でも折れたかのように土へ墜落した。

男は少し腕の触れたところを掻くと、


「冬やのに飛んでるのが悪い、」


 男は思わず大声を出した。好く寒空に声が響く。窓も開けっぱなしにしてすうすう眠ってる目のまえの少女が起きるのも無理はない。むくむくと起きだしては、羽織っていた布団を行儀よくがさりと跳ね除けた。目が合った。少女の美しい彫刻は男のしどろもどろを捉え、表情もなくきっと射落とすような視線を向けたままであった。男は思わず腰かけてた壁からバランス崩して墜落しそうになった。空の凍てついた満月が見え、そのまま自分の膝に顔面が衝突する。


 少女は綺麗な眼をしてた。綺麗な眼でじっとその男を見つめた。

「なんや、」男は狼狽えて酒の缶をそのまま地面に落とした。余りが熟熟と水虫か野良猫の尿のように地面に散乱された。「こ、この蝶退治しよう思うて、ちょっと壁上っただけや」

 なんやハルタさんか、そう呟くのが風のさざめき越しに聞こえた。男は自分の耳が好いのを一寸だけ嫌悪した。


 蝶なんて何処にも落ちてませんやん、少女の不貞腐れた声に、男は俯いてしょうもない顔をした。さけくさァ。


「ちゃうねんて」男はずるずると汚い衣物を泥と苔の生えた壁に摺って、土に無様な恰好で着陸した。まだぴくぴくと触覚が震えている蝶の生温かくもない死骸を拾い上げると、小さく気色悪ぅと呟く少女の前にそれを差し出した。


「此奴俺みたいに酒に酔ってんねん。此奴の親御さんに今日一日の面倒見るって約束したんや。だから家入ってええやろ、こいつ寒くて眼ん玉震えてるでェ」


 あほか、触覚ある気色悪いのはナメクジだけや、とかなんとか言いながらその少女も男を家に上げてしまった。どうやらその少女しか家に居ないらしい。かといって、男も悪さ出来るほどの肝があるとも見えないから一応の安心はできる。それにしてもこの家の中、年頃の女をひとりにさしたからこうなるのか、家の隅々が妙に汚れたり散らかったりしていた。胡桃割り人形ひとつが棚から、時計こさえて床に落ちて気絶している。男はそれを踏むと、ドイツ語で御免とかなんとかいうだけ云って乱暴な手で人形を棚に戻す。少女も聞いてないうちにひとりフランス語で御免はなんとか、ゲール語で御免はなんとかやでと薀蓄たれる。芸だけ、口だけ達者というのがしょうもない男。

 その人形あげるわ。もう年老いて、歯もぼろぼろやろ。奥から少女の声がからからとビールに入れるかち割りみたいに響いた。その言葉を聞いてか、男は棚にある写真をまじまじと見て回る。四人の似た顔、似ない顔がそれぞれ笑顔か仏頂面で好いように映っている。そのままぐるりと部屋を見渡す。ふと男は、その部屋の荒れ模様に気付いた。隅の壁には生卵の破裂した不細工なあとが幾つか残っていて、ぶっとい屋敷蜘蛛一匹が黄身をずいずい吸っていた。クラッカーの煙たい匂いもする。ピアノの椅子が卓の一番席に置かれていて、紙の皿とコップが幾つかそのうえに仕舞われていた。少女はそれらをさっと片づけ、奥に隠れる。


「れいちゃんと喧嘩したかァ」


 喧しわ。じゃばじゃばと台所で水が毀れる音がして、少女がグラスに入った水と菓子を皿に入れた奴とを運んできた。


「お客さん、どうかこれで堪忍」

「れいちゃん、何処行ったん?」


 うるさいなあ。少女は背中を見せて少し笑んだ素振りしてまた奥に消えていった。戸外の洗濯物がざばざば熟れていた。陽に焼けて好い匂いなんやろなァ。ぼんやりと考えに耽る。飛行機が遠くで聞こえた。

陽射しがねぶたい。 

 気づくと男は片腕をぼりぼりと掻いていた。厚い袖を捲ると部分が青く枯れたように膿んでいる。嗅ぐと陽さまのようなぬくぬくとした好い香り、男はそれを臭いと思ったが、それ以上に痒くて仕方がなかった。夏ならキンカンでも出して塗るとすっきりするだろう。今は仕方なしに叩いて、それから少し吸った。蜜のような甘い味がする。腕はそのまま青味を増した。

――養蜂でもやれちゅう神さんのお告げかァ

菓子を確り噛んだ。これまた美味かった。男は暫らく卓に寝そべるような堕落しない恰好で休み休み風がざばざばと樹木を揺するのと、奥で少女が風呂掃除をするのを聞いていた。

――やっと蝶はふかく休める

男は蝶の死骸を卓に置いて手元に寄せた。やはり枯れた枝葉のように膨らみはなく、蜜はなく、翅は土気色で今にも濁った水のように溶けそうである。

不意に少女が現れて丁寧にティッシュ一枚を拠りだして骸と卓の間に差し込む。


「汚いものは嫌や」

「でも結構、この部屋も汚れてるで」

「あァ、客さんには見せる顔もないなァ」

 と、ませた顔で言うと、翻って、

「ケーキ食べへん?残ってんねん、ホールの余り」


 好待遇や。男は機嫌好い声で笑うと、少女もつられて微笑んで見せた。台所からパン切り包丁が出てくると、白い指がケーキのものと思しき箱を開け、中から白い躰をずぶずぶと皿に出して乗っけた。ホールだった。


「余りちゃうやん、ホールやん」

「食べるの忘れてたわ、今切る」


 少女は真剣な顔をする。男は黙って、じっくり五等分されるケーキの白と刃物の銀器とを見るような見ないような眼を据えていた。


「ふたつ食べてええで、わたし三つ食べる」

「よう喰うなあ」


 男の皮肉には答えず、本当に少女は三つも平らげた。男がまだ一切れの端を口に放り込まぬうちの出来事だった。蝶の死骸が風でずるずると卓の端まで持っていかれていた。かんかんと干し竿が風鈴みたいな快な音色を立てる。彼らは風の声を綴るのだ。


「雨降ってきそうやなァ」男はそれだけ云って、自分の残り一切れをじっと見つめた。

「でも今日は満月やし、降らんといて欲しいなァ。なんで満月があんなに美しいかわかるか?」

 少女は表情を変えず首を振った。

「あれが手紙やからや。言い換えると鏡や。見る人の心のなかの隅々まで照らしてんや」 

 少女は身振りひとつせず、空いた白い皿をじっと見つめていた。

「これも喰うか」


 うん。少女は嫌な男の生身か刺身でも食いちぎるように、残りをすっかり平らげた。

野暮な男は少女に掛ける言葉もなく、少女がさして美味そうな表情もせずに苺のケーキを喰うのをじっと見ていた。なにじっと見てるの、気持ち悪い人やな。まるで男の娘か何かのように少女は諭して云う。昼間から酒飲んでまったく、蝶でも食ってる其処ら辺の野良猫と同等やで、ハルタさんは。


「蝶?野良猫って蝶喰うんか」


「重力どっさりで、地面に触れたらそのまま死んでしまうやろ。それをぱくりや。猫も生きるためには必至やで。同じことや、ハルタさんは」少女は語気を荒げて言う。


「下界に降りてきたら放蕩して、美人探して屋敷蜘蛛みたいに巣食うんやから」

 黄身をずいずい吸う屋敷蜘蛛を想いうかべて、男は奇妙に顔を歪めた。


「いまどんな蝶喰ってんの?」


 阿呆と笑みながら、よしゑ。男は歪んだ顔でそう呟くように云った。

 だれやそれ。少女は笑んで、白い歯を溢した。胡桃割り人形のような白い歯。彼女の歯は紙より軽いか、胡桃割りより重いか。普段は何を噛んで過ごしているのだろう。蝶をすり潰す歯を持っているのだろうか。爪を噛む女はよく見知っていたが、彼女はもっと大きくて柔らかいものでも噛みそうである。それに、きらきらと輝く棘が指の方々から生えてることだろう。


「よしゑ」


 男は奥歯を噛み締めるように少女が知りもしない女の名前を云った。平成十年のカレンダーと二時の時計。きらきらと陽射しが壁の小物に照射される。風がそれらに吹き付けられる。心地好い。しかしくすぐったい。むず痒い快感は、言葉を云った先の男の唇をぶるぶると震わせた。蝶がことりと音を立てて床に落ちた。 

 拾う。

 蝶は翅を広げたまま床に落ちていた。海のように淡く滑らかな影と姿。男はその中にずぶずぶと手を入れ、先の、欠片の青い蝶を広いあげるとふたたび卓の上にかさりと抓んで落とした。少女の椅子が居心地悪そうに軋んだ。

 腕を掻きながら、男はじっと少女の頬ばかしを覗いていた。凍えた月みたいな淡い頬。蝶を食べた野良猫はどうなるのだろう。そのまま蝶みたいに翅が生えて来るのだろうか。ならば明日にもベランダと壁を行き来する青い躰の猫が見られるかもしれない。

「れいは?」少女の顔がきっと此方を向くのを感じながらも、男は発音した。骨が鳴くように、少女が足を揃えて揺れる椅子を止めた。「れいちゃんはどこいったん」

みたらわかるやろ、少女はそんな眼をして男をじっと睨む。一七だろうか一四だろうか、大人の女が肩怒らせて睨むのには忍耐も耐性もあるこのだらしない男も、年頃の少女の、緋鯉色の薄い化粧の細い瞼が睨むのには胸の動悸を覚えた。男は俯いた。少女は必死に、自分の心に芽生える葛藤に耐えているのだ。少女の頬の薄くも濃くもない不思議な紅潮がそれを語っていた。

 蝶が揺れる。

 蝶を見れば少女の頬の欠片が視界に入り、それを嫌って目を伏せれば蝶がさざめくのが、頬や瞳を意地悪く玩ばれているようで何とも心地が悪い。ひとつの舞台を見ているようだった。いや、見せられている。幾重にも共鳴し合う挽歌。船頭たちの鎮魂歌。

男は壁の時計を見るふりをして首を擡げ、それからふと思い出したように立ち上がって部屋から出て、二階にでも上がろうと思った。少女は顔を微塵も動かさず、男の方に見入っていた。男は少女の脇を掠めた。すると、ずぶと男の衣物の背中が掴まれる。


「それ食べてえな」


不意に、少女が云った。


「はあ?」

「その蝶食べてえな、汚いもん同士やろ」

「あほか」


 男は嘲るように答え、背中を向いたまま、


「俺が汚いんやったら、その手を放せや」

「身体だけのうて、心も垢だらけや。やることない癖に格好ばかしつけて」

「煩い。風呂でも入るんや、いまから」

「お願い。この蝶の味知りたい」

 

 その言葉に男はさっと顔を少女に向けた。何かを期待したようだった。


「じゃあ、俺じゃなくてそっちが食べえな」


 野良猫め。軒先、塀、壁。ぐずぐずと部屋に入ってきてはそのままぐずぐずと部屋を出てゆく。触れてもガラスの触感、或はふうわり柔らかい肌。遠く遠い、或いは凄く近い。

 つき――。

 きっと夢を見せられているのだろう。而して、少女の射抜くような挑発するような瞳には抗えなかった。

「ほれ」少女は男の手元にティッシュを持ってゆくと、恐る恐る指で蝶を抓んで、男の口までその亡骸を持ち上げた。葉のようだ。黒い光沢が顔や胴体のところで煌めいている。

 さあ、と女は囁いた。蝶の肉体が微かに男の唇に触れかかった。

 男はひと思いにその蝶を口に入れた。そして呑み込んだ。


「どう?」

「けったいな塩味や。蝉よりは不味い」


 男は渋い顔して云った。からんと音がする。ちょうど風が大きく吹いて、布団が窓に当たったのだ。墜落した。陽が当たるだけのベランダ。月の匂いも味も鳴き声もしない。少女の頬が少し赤味と青味がかっているようだ。月のような膨らみとクレーター色の好い血色。紅潮が滲む。冷たい焔が揺れているようだ。

喉乾いた、男が云うと、女は台所に行って冷蔵庫を開けたが、


「メロン残ってるで。これ昨日くれたもんやなァ」

「そうや、君への祝いや。大人になったら一緒にワインもつけてあげるわ」

「堪忍」


 少女は顔を赤らめ、俯いて答えた。


「そのメロンでええよ」


 男は意味ありげに微笑んだ。直ぐに甘い香りが漂ってくるだろう。台所に背を向け、男は窓まで行くと、庭に出て布団を拾い、土を払って部屋に入れた。仄仄と温む。

 温かい感触の中で、少女とふたりという冷気が男を足元から束縛するように少し冷やした。少女への祝い。男は更に忍び笑いをする。窓を閉め卓に戻ると、男は口元を少し撫で、少女が置き去りにした水を少し飲んでじっと待っていた。

 少女はメロンの残りを白く重たい腕でほうほうと言いながらなんとか切り分けた。青く熟れたメロン。白い臼歯のような皿に運ばれ、届いたメロンは凍てついた蝶のような美しい青色をしていた。フォークが一つ、欠片に刺してある。男はそれを掴もうとして、ぎょっとした。皿が揺れる。卓に波紋が広がる。

 どないしたん、と奥から出てきた少女の足も止まったようだった。


「鬼ィや、いつから鬼になったんや!」


 男は顎に手を充てた。海浜のようなざらざらとした手触りがする。だが触れたその手の方も同じくざらざらと砂の感触がした。

海色だった。

驚いた。そのまま肌を准えてゆくとなるほど、砂濱は何処までも広がっている。少し粘り気があった。所々、貝の殻や鰓が鼻や瞼といった器官や身体の名であった。人間の肌というよりは寧ろ皮だった。海の皮膚。

 それが呼吸している。

 ふふふ、鬼が笑った――。


「俺の顔そんなに青いか?」


 男が云うと、少女は男を見つめたまま、ゆっくり頷いた。


「たぶん弟が生まれてからや。根がない葉は枯れるやろ。やけど懸命になって根が有り過ぎて、海みたいに育ちすぎてもあかんこっちゃ」


 男は手を広げてそう云った。思えば昔からずっとこんな青い手をしていたのかもしれない。そしてきっと青い顔、青い眼。これは差し詰め烙印に違いない。ひとつの海のなかに入り込んでその呼吸のなかで眠ろうとするものへの烙印。青い墓。崩壊してゆくそれら故郷の街。きっと彼らは其処にいるに違いない。


「きっと今になって心の性が一気に滲み出て来たんや。それに悔しさも」

「一緒やね」


 少女はふふふと笑い、鬼もつられて哂う。


「あっちはれいやろ、こっちはささめや。姉は鮫やけど向こうはえい。鮫よりえいの方が毒も姿もずっと艶めかしいやろ。鮫なんてきっと蟹よりも不味い味やで」


 少女は酔ったように云う。しってる。小さく呟いて、鬼はまじまじと少女を見つめた。青い瞳のせいか、彼女の美しい頬は青味がかって至極満月のように思える。その豊かな躰は、その向こうに同じだけの暗い水を残しているのだ。


「れいも阿呆やから、ああもいっぱい飛行機飛んでたら、一個ぐらい月と衝突するかもなんていうねん。ほんまに嫌な子や。もういっそ、れい譲るわ」

「そやかて、近くから見たら月も美味そうやないか。酒の充てになる。やから月でも降って来て欲しいと時々思うわ」

「その蝶はどんな味したん?」

「蟹クリームコロッケの味や」

「れいも同じこと言ってた」


 はあ、と男が訊ね返すと、


「月も蟹クリームコロッケの味がするねんて。そんなことないって叱ったらこの有様や」

 生卵の死骸。きっと蟹クリームコロッケをつくろうとして、れいは台所でふかぶかとそれを握りしめたに違いない。泣いて笑って突っ立つ彼女の姿。海を照射する灯台。

「わかってるやろ?」

「何がや」

「わけてえな、その青色」


 青い瞳の少女が云った。


「だから、蝶、きみが食べればよかったやん」

「片づけよう」唐突に少女は云った。

「はあ?」

「この部屋汚いやろ、だから片付けよう。それに鬼さん、風呂入って来てええで、沸いてるし」


 阿呆、男は小さく呟いたが、やがて二人とも部屋の掃除を始めた。壁や床を掃除機や布を使って拭いたり吸ったりする。青くて薄汚れた部屋は忽ち、光りのたゆたって揺れる深海に成った。此処彼処で蝶の蜜の匂いと音がした。

 男は海のなかで沈黙する。

 蝶のように翅が、或は魚のように背びれや尾びれや諸々が生えてきそうである。

 或は身体が蟹クリームコロッケのように溶けそうだ。

 少女の鼻歌が何処かしらから聞こえてきた。同じ魚でも、彼女は月に過ぎない。彼女はそれを歌っているようだった。結局風呂に入ったのは彼女だ。水と油は混じらない。昼と夜は違う。彼女の肢体は、生温く呑み込めば軟口蓋がいがいがとする生物に浸かる。すると白、歯のような白が浮き出るだろう。それは蝶の青とは違うということだ。そう想像して男は少しがっかりした。

だが彼女の白色は、わたしの青い瞳に見えるだろうか。

 冷蔵庫を開けると、薄明るみのなかで残り一個の卵がぼおっと幽霊のように浮かんでいた。鬼はそれを手に取った。フライパンに落とすと、かき混ぜることなくその鮮明な黄身が半熟になるのをじっと見つめていた。

 暫らく、換気扇の音がする。


「砂に食われるわァ」

「はあ?」


 風呂から出てきたばかりの少女を背中で感じながら、男は聞き返した。少女は少し通り過ぎて背中の辺りで止まる。囁く。


「蝶の気持ちや。砂に落ちたら重力で蝶は喰われんねん。それでも蝶は海辺を舞うんや。夏やろうと冬やろうと。だから此処にも蝶がおったねんや」


 振り向くと、少女は自分の瞳をさして笑っていた。代わりに蝿が一匹、男は躊躇うことなくそれを叩き潰すと、ゴミ箱へ捨てた。死骸となれば蝿は微塵に過ぎない。男は首をゆっくりと横に振った。啄木にはまりすぎやろ。

それは蟹や。少女の青い眼が更に煌めいた。


「なに作ってんの?」

「目玉焼きや。これつくったら帰るわ。そろそろみんなも帰って来るやろ。そのための儀式や。祭りには生贄が必要やから」

「なら、これでいいやろ」


 八きりとした少女の大人びた声に、男はぎょっとした。少女が手に持っているものは見紛うことなく蝶だった。四本の脚がぎしぎしと歯車のように成っている。まだ生きているのかもしれない。だが色は青というよりは銀で、それも光沢のない、枯れた銀色をしていた。


「風呂場に落ちてたねん。番いかもしれん、姉妹かもしれんけどな」

「喰うんか」


 男は思わず訊ねればならなかった。

 少女は哂った。何かを決心したような、女の哂いだった。

 少女は蝶をひらひらと鬼の顔に近づけて振った。ぷうんと洗剤の臭いがした。

 まあ、みとき。

 少女はそう言ったようだった。否や振り返って、草臥れたシャツの柄と小さな背中の線が雫を垂らして男から離れていった。その躰はゆっくりとゴミ箱のほうへ揺れている。

 何か海浜の小石でも拾うように少女はしゃがんだ。髪の毛が潮風でずぶずぶと揺れる。波がさっと近くを駆け抜ける。薄汚れた、青色の波である。それは遥か彼方にあふれてゆくのだ。

 そうして月が、その深い海の上に現れるのかもしれない。

 蝶がどうなったかは見えなかった。


 男は布団に突っ伏して横たわっていた。白昼の陽さまの匂いと味がする。

 いつの間にかよしゑの寝息が聞こえてくる。

 静かな満月の晩である。湯葉でも喰うと美味いだろう。

 やっと蝶はふかく休める。男は気障にそう呟いて、よしゑの腕にそっと自分の腕を添えた。彼女の髪までが触れるような気がした。耳元にほの温い好い感触がする。温む。何時か小さい頃赤い躰の水母に刺されたことを想いだす。或は月に刺されたのかもしれない。蟹クリームコロッケ味の海月に。あの青く凍てついた美しい夏蝶ひとつに。

 月は何を食べて暮らすのだろう?

 だれもが人の消息を月に訊ねる。月は人に夢を見せる。自分が見る夢と少女が見る夢はそう大差ないだろう。

 青い葡萄酒のような匂いの晩だった。



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