03
カウンターの椅子に腰掛けて机に突っ伏したまま、アスカは大きく口を開けて欠伸した。目元をごしごしと擦り、その腕をぱたりと机に戻す。
退屈だ。
顔を横に向ければ、魔法の練習用に貸し与えられた本。アルバイトを初めて三日目になるが、今まで何度試みても張り付いたように机から離れたがらない本がいい加減憎らしく思えて、意味などないとわかっていつつもついつい睨んでしまう。
一日目の午後に、この世界に於ける通貨の単位と流通する硬貨の種類、それと時計の読み方を教わり、早くも二日目からレジ要員としてカウンターに座らされているのはいいのだが。
お客さん、少なすぎるよなぁ。
ぽつりぽつりと訪れる客はほぼ全員が本を数冊買って帰るが、客の数自体が少なすぎる。今のところレジ打ちの仕事しか任されていないため、アスカは殆どの時間をただぼんやりと退屈に過ごすほかない。
二日目の夜には、折角だから暇な時間にこの世界の字の勉強をしたいとエティに持ち掛けたのだが、教本すら読めないアスカには無理だろうと断られてしまった。付きっ切りで指導できるならまだしも、と。アスカはエティの家庭教師姿を想像して思わずにやけてしまったのだが、書架で仕事をする必要があるから無理だと妄想ごとばっさり切られ。
時折訪れる買い物客に、最終ページ隅に鉛筆で書かれた値段で本を売ることしかできない。もう一つ、客が既に鉛筆書きのある本を持ち込んできた場合には指示された割合の金額で本を買い取る事も許可されたのだが、今のところ買取の客は本を購入していく客より少ない。
エティから聞いた話から察するに、アスカの世界とこの世界の物の相場に大きな違いはない。古書店の本はアスカの世界のそれより少し割高に思えたが、それでも日々の売り上げがこの調子なら、この大きな店の維持など到底できないであろうことはいち高校生のアスカにも察する事が出来る。
経営とかどうなってんだろう……。
流石に無遠慮すぎるだろうと直接訊けずにいる心配事をもやもやと思い浮かべながら、机に頬を付けたまま練習用の本へ手を翳す。置かれた場所から僅かにずれるだけで、持ち上がることは無い。
本をもうひと睨みして、卓上の小さな時計を見遣る。たどたどしく針を読むと、エティに指示されていた時間を数分過ぎている事に気が付いた。
「エティさーん! お昼ですー!!」
体を起こし、エティしかいない店内へ向かって遠慮なく声を張り上げた。耳を澄ましても返事は無く、アスカは椅子から立ち上がって店内へ向かう。
「エティさん、どこですかー」
ひとつひとつの通路の左右を見通しながら探し歩き、店の中心近くでその姿を見つけた。
何冊もの本の群れをアスカの頭上よりも高く浮かせてその上に腰掛け、肘掛代わりに重ねた本の上に頬杖を付きながら一冊の本を読み耽っている。書架の整頓をしながら目に付いた本をついつい開いてしまうのがこの人の癖らしい。既に何度か目にした光景だが、アスカは微笑ましく思いながら近付いて、エティの足元から声をかける。
「エティさん、お昼ですよ」
「……ん、……ああ」
赤い瞳が文章をひとなぞりして、名残惜しそうに本から視線を剥がしてアスカに向いた。瞬き、アスカの言葉を遅れながら理解して頷く。カーディガンのポケットから取り出した栞代わりの紙片を挟んで本を閉じ、本でできた椅子の高度を下げる。絨毯に両足を付けて立ち上がると同時に、本の群れがバサバサと乱雑に床に散らばった。一度落ちた後に浮かび上がり、乱雑に端に詰まれて避けられる。
アスカが数日エティを見ていて気付いた事の一つ。基本的に彼は商品でもある本を大事に扱うのだが、時々こんなふうに雑に扱う本もあるらしい。アスカに練習用に寄越した本もその類なのだろう。
「何してる」
さっきまで椅子の体を成していた本たちを見つめるアスカに、ダイニングへ戻ろうとしていたエティが声をかける。アスカは短く返事をして小走りにエティに追いついた。
「いつも椅子にしてる本って商品じゃないんですよね? 落とした拍子にちょっと折れちゃったりしてたけど」
「あれは不要な本だ」
「どうして?」
「……内容が支離滅裂だったり、粗末な物だったり」
「ふうん……」
納得して、今度はエティがダイニングに持ち帰ろうとしている本を指さす。
「今読んでたその本はどんな内容なんですか?」
「……」
無言のエティに、またやってしまったかとアスカは視線を泳がせた。好奇心のまま質問ばかりして面倒がられるやりとりをもう何度も繰り返しているのだが、どうしても懲りずに質問を重ねてしまう。我ながら何で何でを繰り返す子供のようだとは思っていても、興味は尽きずに訊きたい事は次から次へと湧き出て来る。
「……一人の一生を綴った物語」
また沈黙で会話が終わってしまうかと思っていたところへ戻ってきた返答に、アスカは自然と笑顔になって頷いた。
「へえー。 ほんとに俺も字が読めればなぁ。 そしたらその本読めるのに」
「……どうして読みたい」
「エティさんの興味を惹く本だったら俺も読みたいもん。 すっげー興味ある。 あ、そうだ! 読み終わったら、どんな内容だったかもっと詳しく教えてくださいよ。 ね?」
人差し指を立ててさも名案かのように満面の笑顔で口にした提案に、エティが首を横に振る。
「……お前はいいんだ、マセガキ」
エティはアスカを小突こうと栞の挟まった本を一度掲げたが、途中で手を止めた。その代わりのようにダイニングに戻る歩を早める。
用意された昼飯を例によってアスカだけが食べて、食器を片付けて店へ出た。カウンターに腰掛けて何やら書き物をしていたエティがペンをスタンドに置き、何かを綴った紙片を二枚アスカへ突き出す。
「買い物行って来い」
「買い物、ですか?」
突然の言い付けに鸚鵡返しに答えながら受け取った紙を確かめる。片方は何かが箇条書きされ、もう片方は。
「地図?」
線で引かれた道の上に、古書店と目的地がそれぞれ星印で示された簡易な地図。見た限りではほんの数回曲がり角を間違えなければ目的地へ行き着けそうだが、古書店の正面に伸びる道の先はアスカにとって未知の世界だ。期待よりも不安のほうが勝り、アスカは困ったようにエティを見る。
「すぐ近くだから迷う事もない。 わからなくなったら一度戻って来ればいい」
「……わかりました」
エティはレジスターから数枚の硬貨を摘み上げて革袋へ収め、袋をアスカに放って寄越す。
完全には不安を拭えないが、折角の頼まれ事を断りたくはない。アスカは頷いて皮袋をポケットに仕舞った。
***
森の中を通る小道をいくつかの角を曲がりながら進むと、森の終わりと共に少し広めの三叉路に出る。遠目には民家がちらほら見え、星ノ宮で初めて見る古書店以外の建物に、アスカは思わず、おお、と声に出した。
左に曲がっていくつかの民家をしげしげと眺めながらその前を通り過ぎていく。庭の広い民家がぽつりぽつりと建ち、風景は自然公園の様相からどこかの田舎町へと様変わりしたかのようだ。レンガ造りや石作り、白塗りの壁に木骨の木組み。古書店と同じくアスカの世界にある建物とあまり変わらないが、どこか少しだけ古風で、やけに色々なジャンルの家があるように思えた。
観光気分で歩いていると、一軒の建物が目に付いた。赤い煉瓦屋根、円筒状の白塗りの建物。それにはあまり似つかわしくない引き戸に、これまた不相応な独特の柄がはいった大判の暖簾が下がっているその横に、アスカの身長ほどの箱が鎮座している。木製だが、確りしたつくりの箱。
近づいて、はめ込まれたガラスの向こうに並ぶ、綺麗に畳まれた色とりどりの紙片をしげしげと眺める。ガラスの下には何か小さい物を入れられそうな溝と、各紙片の下にそれぞれ並んだ値段表示とボタン。自動販売機によく似ているのだ、と一人納得して頷いた。正体不明の紙片を購入してみたくなるが、生憎貰った給金は全て古書店に置いてきてしまっている。
建物の脇が数箇所目の三叉路であることに気付いて、手の中の地図を確認した。
……あ、ここか。
暖簾の文字は読めないが、自販機といい確かに店のように見える。暖簾を潜って引き戸を滑らせ、中へ顔を覗かせる。
「こんちわー……、うわっ」
室内を見るなり思わず息を呑んだ。円形に近い、八畳ほどの室内の壁面全てが小さな木製の引き出しで構成されていて、それが三階ほどの高さまで続いている。思わず視線が上へ上へと吸い寄せられた。古書店ほどではないがそれでも高い天井に大きく切り取られた天窓が、引き出しの合間合間に突き出る透明な板へ光を投げ注いでいる。ガラスの板はさながら螺旋階段のようだが、手すりすらないそのステップを上りきる自信はアスカにはない。
当たり前のように外観から見た建物の高さを超えた天窓、その格子の中心から真っ直ぐ下がる鎖を辿って視線を下ろしていくと、その先には、床近く、縦に半分ほど切り取られた大きな卵のような形の物が下がっている。濃褐色の籐で編まれたそれは椅子、なのだろう。中に敷き詰められたクッションに埋もれるように、小さな少年がちょこんと座っていた。薄蒼くメッシュの入った白い髪が顔の半分以上を覆っている。髪の避けられた合間から覗く右目がとろりとアスカを見つめた。
「あ、あのー……」
子供、と表現して差し支えないほど幼い少年に、アスカは手の中のメモを渡していいものか迷う。かける言葉を決めかねているうちに、少年が半分閉じた垂れ目をもう少しだけ細めてへにゃりと笑った。
「はじめまして、あすか。 えてぃからはなしはきいてるよぉ」
声量が極端に少ないが、鈴音のように澄んでよく通る声質とゆっくり間延びした話し方のせいか、その声はするりと耳に届く。
「ここのてんしゅの、しいらです。 よろしくねーぇ?」
「へっ? ……あ、はあ……よろしく……?」
「……なにかふまんでも?」
湧き出る驚きや疑問を隠そうともしないアスカの反応に、穏やかな口調がほんの一瞬ピシリと凍り付いた。本能的に、アスカは大げさなほど背筋をぴんと伸ばす。
「なんでもないです!!」
「……ふふ、そーぉ? ふふふふっ」
蛇に睨まれた蛙のように硬直する姿を見て、シイラは右手で口元を押さえてころころと笑った。
年端もいかない少年相手につい竦み上がった事に気恥ずかしさを感じながらも、肩から力を抜く。ポケットから皮袋を取り出し、シイラが笑い終わるのを待って、少しよれたメモと共にカウンターの上に置く。
「エティさんから買い物を頼まれたんだけど、これを見せればわかるだろうって。 こっちが代金」
紙片がふわりと浮いてシイラの右手に引き寄せられる。シイラは文字に目を通すなり、くす、ともうひと笑いして、入り口脇のベンチを指した。
「すこしじかんがかかるから、すわってまっててねーぇ?」
言われるままベンチに腰を下ろす。カタカタ、と物音が聞こえはじめた頭上に目をやると、幾つもの引き出しが勝手に開き、乾燥した葉や何かの実やらが独りでに取り出され、低いカウンターの上に置かれた複数のすり鉢に振り分けられた。それぞれの鉢のすり棒が誰かの手で操られているように持ち上がり、鉢の中身をゴリゴリと音を立ててすりつぶし始める。遅れて、何やら独特の、どこかで嗅いだ覚えのある匂いがアスカのもとに届いた。
「……漢方? ひょっとしてシイラは薬屋なのか?」
「そうだよぉ」
合点がいった、とアスカは頷いた。そう言われてみれば、外の自販機に並んでいたのは薬包紙に包まれた薬だったように思える。
「そっか。 にしてもシイラは凄いな、一気に物を色々動かすのは難しいんだってエティさんが言ってたよ」
シイラが椅子を吊る鎖を揺らして、細かい紋様の絨毯が敷かれた床に足をついた。体を覆う、青から紫のグラデーションがかかった布の裾をずるずると引きずりながら、カウンターの脇から一段低くなった敲に降りる。両足に履いたふわふわとした靴下が汚れてしまうのも構わずアスカに近付いて、その左隣に腰を下ろした。
「……な、なに?」
「ふふふ」
肩と肩が触れそうなほど近い距離、体温がほんの微かに伝わってくるような気がした。
「あすかは、ものをうかすのもできないんだってねーぇ?」
「うっ……エティさんそんなことまで話してんのか……」
「むのうだねぇ」
「……えっ?」
唐突に、穏やかな口調にそぐわぬ辛辣な言葉を耳にしたような気がして、アスカは思わず左を向いた。髪の間から覗く柔和な笑顔。何か聞こえたのは気のせいだったのだろうかとぎこちなく笑み返す。
シイラの小さな口から、表情とは裏腹な言葉が紡がれる。
「こどもでもできるのにねぇ。 しかも、じもよめないんだよねぇ。 あすかはそんなでしごとになるのーぉ? ならないよねーぇ? えてぃのところではたらくっていうのもてがみできいたけど、それでおかねもらって、はずかしいなっておもったりしないのーぉ? そのうえ、さんぱくしてかえるってきめたみたいだけど、いくらえてぃがとまっていけばっていったからって、ふつうはもうすこしえんりょするよねぇ。 あすかのせかいには、つつしみ、ってものがないのかなーぁ?」
「え、あ、その……え、エティさんが金は受け取れって……言うから……断りはしたんだけど……三泊については……そのー……」
自分でも気掛かりだった複数の事をゆったりした語り口でじわじわと指摘されて、アスカの返答はしどろもどろになる。尻窄みな情けない声。
「でも、えてぃはひとぎらいだから、せっきゃくなんかできるとありがたいんだろうねぇ」
「え? う、うん……? エティさんって人嫌いなのか?」
「あんまりすきじゃないみたい。 あすかのことはへいきみたいだけど、ひょっとしたら、ひといかにおもわれてたりしてねーぇ?」
浮かべかけた笑顔が凍って、アスカは笑いかけの微妙な表情のまま硬直した。少し間を置いてシイラが笑う。
「ふふ。 じょうだんだよーぉ? きっとあいしょうがよかったんだよぉ」
……冗談と本気の境目がわかんねぇ!
と、心で叫んでも本人には言えるはずもなく。
後から付け足されたポジティブな言葉がシイラの本意とも思えず、アスカは曖昧に笑う事しかできない。
「あすかは、そとのせかいでおべんきょうしてるんだっけーぇ? ここでのおかねのけいさんとか、もうおぼえたのーぉ?」
「お金はなんとか……あと時計の読み方も覚えたよ。 まだ読むのに時間かかるけど」
「そう。 だったらすぐにえてぃのちからになれるねぇ」
「だといいけどな」
へらりと笑い返して、相手の言葉が止まった事に少しだけ安堵する。横目でシイラの表情を盗み見た。はじめに笑いかけられてからずっと浮かべられたままのふんわりとした笑顔。手厳しい言葉に続いたアスカにとって嬉しい言葉。どちらが本心なのか、どちらも本音なのか。考えてみても、初対面の相手の腹の中などわかるはずはない。アスカは軽く息を吐いて思考を止める。
等速度を保ちながら薬をすりつぶし続けるすり棒の動きをただ何となく眺めていると、すべてのすり棒がフラリと棒揺れて鉢の中でその動きを止めた。少し遅れて、左肩にぽすりと重みがかかる。
「……シイラ……?」
肩へ預けられた頭をそっと覗き込んだ。重たそうなほど睫毛がたっぷり乗った瞼は伏せられ、小さな唇から微かな寝息が洩れる。それは幼い子供の寝顔そのもので、さっきまでの物言いが全て嘘のようにさえ思えた。
アスカはなるべくシイラの頭を揺らさないように気を払いつつ体を起こした。
静まりかえった室内。所在なく視線を彷徨わせて店内を見回す。カウンターの上の、薬匙が何本も収められたスタンドに、古書店にあるものに似た古風なレジスター。薬箪笥のひとつひとつに綴られた小さな文字。
視線を天窓のほうへ伸ばす。壁を覆う薬箪笥の一番上、入り口から見て左側、らせん状のステップをのぼりきった先がまた別の部屋になっているのだろう、空間が広がっているように見えた。
椅子を吊る鎖はよく見ると滑車を通り、格子を辿るように伸びて引き出しの合間に姿を消している。ステップをのぼらずとも、何かの仕組みで椅子が上階へ持ち上がるのかもしれない。失礼ながらシイラのぼんやりとした雰囲気や動き辛そうな衣服からして、無事にガラスのステップをのぼりきれるとは思えなかった。きっと椅子に乗ったまま上の階と行き来するんだな、と勝手に納得してしまう。
この子は、何者なんだろう。
とろとろとした口調で次々と紡ぎ出される言葉。遠慮なく貶したと思えば少し褒められ、話していると思い切り振り回されているような感覚になる。年齢は十一、二歳ほどに伺えるが、それにしては話す言葉が見た目と噛み合っていない。
この薬屋に住んでいるのかそれとも別に帰る家があるのか。そう考えればエティも、アスカの世界でいえばまだ同年代の大多数は教育を受けている年齢だろうが、アスカ本人はもとより同級生達よりも余程落ち着いているように見えるし、そのうえ、あの居住スペースもやたらと広い古書店に一人で住んでいる。
ひょっとすると、星ノ宮では人を成人とみなす年齢が低いのか。いやそれにしても、さすがにシイラは幼すぎないだろうか。幼いから歯に衣着せぬ物言いをするのか。しかし言い方はどうあれ、言っていた事は全て正論だ。幼子が正論ばかりずばずばと口に出来るものだろうか。
暇を持て余してとりとめなく思考を巡らせているうち、ついさっきシイラの言葉が突き刺さった胸のどこかがじわりと痛む。
「……そうだよ、三泊なんて普通はありえねーよ。 やっぱ厚かましいよなぁ……当たり前か…… 」
「……うん……?」
天井を仰いだままつい口から零れた独言。シイラは微かに声を漏らして、預けていた肩から頭を下ろし、至近距離でアスカを見上げた。吐息がかかりそうなほど近い距離に加えてシイラの表情に妙な色香のようなものを感じてしまって、頬が熱を持つのを感じた。
「ご、ごめん……起こした?」
上ずりかけたアスカの声にシイラはことりと首を傾げ、また柔和に笑う。
「こどもにくっつかれてあかくなるなんてぇ……あすか、もしかして、へんたいさん?」
「へんたっ!? ち、ちち違う! 断じてちがっ痛って」
あまりに不名誉なレッテルを貼られかけ、飛び退るようにベンチの端に避けた。勢い余って薬箪笥の取っ手の一つに肩を思い切り打ち当てた。
「……ふふ。 あすかはおもしろいねぇ」
シイラはベンチから降りて敲から絨毯に上がり、微かに鎖を軋ませて籐の椅子に体を戻した。再び動き出したすり棒たちの横で、カラフルな薬包紙が何枚か取り出されては角と角を合わせて半分に折られていく。
「ふつうにかんがえれば、あつかましいにもほどがあるよねぇ。 さすがにそれはわかってるんだねーぇ?」
唐突に切り出された話題の趣旨を一瞬掴み損ねるが、少し間を置いて理解する。アスカは肩を摩る腕を下ろし、唇を引き結んでコクリと一度頷いた。
「わかってても、あすかはできるだけほしのみやにいたいっておもうんだねぇ」
「……」
それを口に出した覚えはないが、察されているのだろう。シイラにだけか、エティにもか。こみ上げる情けなさと罪悪感に心臓を掴まれて、アスカは深く俯いた。低いトーンで言葉が洩れる。
「……最初にこの世界に来た時から、なんていうか……居心地よくて」
そこで止めれば十分だろうと思っていながら、唇は声をつくるのを止めてくれない。自分とシイラに、ここにはいないエティに、弁明せずにはいられない。
「ほんとに居心地よくて、よすぎるくらいで。 帰りたくないんだ。 エティさんと居るの楽しいし、見た事ない物、面白い事、いっぱいあるし。 ……でもそんなの言い訳で」
「あすか」
「……っ」
柔らかく呼ぶ声に遮られ、アスカははっとして顔を上げた。変わらず微笑むシイラの、その細めた瞳に篭った慈愛のような温もりに声が詰まる。
「そのさきは、わたしじゃなくて、えてぃにつたえないとだめだよ。 わかるよね?」
母が子を諭すような、穏やかな声色。アスカは小さく頷いた。
「むりにいまつたえなくてもいいとおもうけどねぇ。 えてぃは、あすかみたいなこどものあさはかなかんがえ、きっとおみとおしだよぉ。 それに、あすかがちゃんとあつかましいってわかっていて、えてぃもそれでいいっておもってるんだから、だれもそんしてないよねぇ」
「……エティさんは、それでいいって思ってくれてるかな?」
「うん。 いやだったらすぐにでもおいだしてるだろうからねーぇ? えてぃはそういうこだよぉ」
「……そっか」
また俯きかけるアスカの膝に、クラフト紙の小袋がぽすりと置かれる。軽く畳まれた口を開けて中を覗くと、自販機の見本と同じ薬包紙の小袋が整然と詰められていた。カウンター上のすり棒はいつの間にか動きを止め、鉢の中は空になっている。
アスカは紙袋の口を確りと折ってベンチから立ち上がった。
「おまたせだねぇ。 おつりはこれと……このほんももっていってねーぇ? かいとりのおかねは、もうもらってるからぁ」
「っと……了解。 ありがとなー」
随分軽くなった皮袋と本が一冊、ふわりと浮いてアスカの手元に渡された。受け取ったついでに片手を挙げて軽く挨拶し、引き戸に手を掛ける。
「きょうつくったくすりはねーぇ? ほとんどが、かぜぐすりとか、ちんつうざいとか、じょうびやくなんだよぉ。 どういういみかわかるーぅ?」
背中に掛けられたシイラの問いに暫し考えてみるが、答えは出ない。振り返って首を横に振る。
「そう。 ……あすか、すぐにおしごとやめたら、だめだよ」
「そりゃ勿論、やめないよ。 あ、そだシイラ……さっき変な事言っちゃってごめんな。 あと、聞いてくれてありがと」
アスカから向けられた笑顔にぱちくりと瞬いてから、シイラは再び笑って右手を振った。袖口から覗いた手元で銀の装飾がちゃらりと小さく音を立てる。
「……またおいでぇ」
***
「ただいまー」
傾きかけた陽に照らされた町を眺めながら古書店に戻り、カウンターで昼間の本の続きを読んでいたエティの前に荷物を置く。エティはそれを一瞥だけして本に視線を戻した。
「遅かったな」
「途中でシイラが寝ちゃったんだけど、起こすのも悪くて」
「シイラは何か言ってたか」
訊かれて一番に頭を過ぎったのはシイラに吐露しかけた己の心情だったが、それはひとまず心の隅に追いやっておく。
「……悪気はないんだろうけど、度々心に来ることを言われました……飴と鞭のジェットコースターっていうか。 心当たりはないけど、俺、知らない間に何かシイラに嫌われるような事したかなーって……」
「……そうか……気に入られたか」
「はあ……って、ええ!?」
ページを捲りながらさらりと呟かれた言葉に、アスカは立ったまま前のめりにカウンターに肘を付いてにエティと視線の高さを合わせた。むくれたように唇を尖らせる。
「エティさん話聞いてた?」
「あいつは気に入った相手ほど辛辣な口を聞くからな」
「な、なにそれ? あんなちっちゃいのにドSってこと?」
エティが眉根を寄せてアスカを向いた。それは「ドS」という言葉の意味を知っているからか知らないからなのか訊いてみようか悩んでいると、机に乗せたアスカの手元を指される。
「それは」
「あ、そだ。 手紙来てました」
帰りに何気なく覗いた郵便受けに入っていた一通の封筒を手渡す。エティは本に栞をして閉じ、封筒の裏面の文字列を一瞥して銅色の封蝋を割り剥がした。封筒と揃いの白い便箋が広げられたと同時に、アスカは微かに甘い香りを感じる。
エティの表情が、瞳を左から右へ何度か往復するうちどこか険のあるものになっていく。小さく溜息を吐き、便箋を畳んで封筒に戻し、机の引き出しに仕舞い込んだ。アスカとしてはエティの無表情を崩す相手は一体誰なんだと尋ねたくなるが、どうせ誰だか知らないのに訊くだけ野暮かと口を噤んでおく。
「そういえば、シイラって色んな物を一気に動かせるんですね。 あんな小さいのに」
「……あいつは道具を使ってるからな」
エティが紙袋を手に取ってその中をちらりとだけ確認するのを見て、アスカは帰り道で考えていたシイラからの問いの答えを思い出す。
「エティさん、薬箱の中身の取っ替えするの?」
「……は」
「シイラが言ってたけど、今日買ったのって常備薬なんでしょ? 薬箱の場所教えといてくださいよ、エティさんに何かあった時にわかんないとシャレになんないから」
エティが不可解な面持ちのままアスカと視線を合わせてきて、暫し見つめ合う。
「……エティさん?」
黒い双眸から不思議そうにまっすぐ返される眼差しに目を細め、エティは手元の袋に視線を落として、ふ、と僅かに声を漏らして少しだけ笑った。
どきり、とアスカの心臓が跳ねる。いつもの仏頂面がほんの少し緩んだだけにも見えるほど小さなその笑顔に、頬が染まるどころか体温の僅かな上昇まで感じてしまう。
「マセガキ。 ……教えてやるからついて来い」
「……はい!」
表情はすぐに引っ込められてしまったが、アスカの脳裏には確りと焼きついて。椅子を立つエティと一緒に体を起こし、アスカは懐っこい笑顔で思い切り頷いた。