02
教師、中でも生徒からの評判の悪い教員という生き物は、突然始めた世間話に殆どの生徒が関心を持っていない事に自分では気が付けないものなのだろうか。遥か昔に生徒の立場だった頃同じような思いをしただろうに、それも忘れてしまっているのだろうか。これさえ終われば帰れるという生徒の焦れすら慮れない故に評判が悪いのか。
普段のショートホームルームならば連絡事項を伝えるだけで五分と待たず終わるというのに、上機嫌な担任教師による私生活のひけらかしが始まってから、黒板の上に据え付けられた時計の長針は十五回も移動した。
最も窓側の後ろから二番目という好物件に着く飛鳥は、今日最後の授業終了と同時に荷物を放り込んだ鞄を肩に掛けたまま、椅子に浅く腰掛けて教師の顔と時計との間で忙しなく視線を往復させ続けている。話が終わると見せかけたフェイントを食らう事、かれこれ三回目。
ずっと意識しているせいで秒針が三秒に一度しか動かないような錯覚を覚えるのかもしれないと思い至り、無理やりに時計から意識を引き剥がす事にした。
左手甲の擦り傷に視線を落とす。その手を顔にやると、頬へ横向きに走った切り傷を覆うかさぶたの感触がざらりと指先に伝わる。
昨日は、後ろ髪を強く引かれつつもそのまま家路に着いた。現実的に考えて、古書店での出来事は全てただの白昼夢だったのかもしれないと落胆しかけていた頃に、家族にこの傷を指摘された。鏡を覗き込んで、生垣を抜けた時に枝で左頬を裂かれたのだと気がついた。
あの古書店も、本の海で眠っていた美しい少年も、無数の本を動かす魔法も、夢じゃなかったんだろうか。
それを確かめたい。
耳に残る彼の声を、もう一度聞きたい。
……だから、早く帰りたいんだって!
頬から手を外して顔を上げるのとほぼ同時、ようやく担任教師が満足げに話を切り上げた。日直の棒読みでの起立と礼もそこそこに席を蹴って慌しく廊下へ出る。
とうにホームルームを終えた他のクラスの生徒たちを掻き分けそのまま昇降口まで一直線……に駆けようとしかけて、教室から顔を覗かせた級友に呼び止められる。遊びの誘いを受けたが、「ゴメン」と顔の前で掌を合わせて断りを入れた。
倒けつ転びつ帰り道を急ぎ、変わらぬ場所に口を開けた路地に安堵の息を吐いたのは、昨日踏み入ったのとほぼ同じ午後五時前だった。
端末をポケットに仕舞って小路を走り抜ける。いつの間にか変わる空気と景色に、獣道のような穴のあいた藪。胸の内から込み上げる言いようのない感情に、自然と表情が緩んだ。
外から開いた扉の音に顔を上げたエティの澄まし顔に僅かな驚きの色が浮かび、手元の本を栞も挟まずパタリと閉じてカウンターの上に置く。
その周囲には昨日よりもうず高く積もった本の山。アスカには自分の身長も越えていそうな山に囲まれて椅子に腰掛けるエティの姿が余計に小さく見えて、ついつい顔を綻ばせた。
「こんにちは、エティさん」
「……本当に来たのか」
すぐに表情を引っ込めたエティの相変わらず独り言のような呟きに、後ろ手に扉を閉めながら頷く。
「昨日言ったじゃないですか、また来てもいい? って。 ……駄目でした?」
「……何言ってる、さきおとといの間違いだろう」
「え?」
カウンターの向かい側で怪訝そうに返すアスカを見上げ、エティは眉根を寄せて小さく首を傾げた。ようやく目が合った、と嬉しそうに真紅の瞳を覗き込むアスカから、すぐについと目を逸らす。
***
ダイニングのテーブルに向かい合う二人の手元にはそれぞれ自前の紙とペンが用意され、違った言語の文字が綴られている。互いの主張の噛み合わなさとややこしさの為に逐一メモしながら纏める事になったのはいいが、アスカにはエティがインクと羽ペンで綴る文字が読めなかったため、鞄からノートとボールペンを引っ張り出して自分なりに二人の言い分をまとめたのだ。
躊躇いながら、改めて纏まった答えを口に出す。
「つまり、ここ……星ノ宮、っていうんでしたっけ? 星ノ宮の夕方五時から夜十時まで、約五時間が向こう…俺の住んでる所でいう十五分間で、向こうの夜十時から次の日の夕方五時までの十九時間が大体星ノ宮の二日半だった、ってこと?」
「……そういう事だろうな」
「あ、頭おかしくなりそう……」
一時間ほどかけてようやく導き出された結論は理解の範疇を簡単に飛び越えていて、平然としたまま腕を組むエティとは対照的に、アスカはペンを持ったままの右手で頭を抱えた。
「これって、結局噛み合ってなくないですか? 向こうでの十五分が星ノ宮の五時間くらいなら、俺がここに来るのって、二日半どころかもっとずっと後になるべきなんじゃないの……?」
「異世界と時間の流れ方が違うのは別に珍しい事じゃない。 ……と聞く。 事実、お前は二日半後に此処へ尋ねてきた」
「う~~~ん、そういうモンなのかなぁ。 っていうか、異世界とかそういうの、身近なんですね」
エティの中ではもうこの話題は終結したのだろう、答えもせずにペンを置いてしまう。アスカもそれに倣ってノートの上にボールペンを放り、昨日と同様に冷めてしまっている紅茶を啜った。
向かいからボールペンを手に取って無表情のままじっと観察するエティを眺めながら、独り言を呟く。
「今日は九時頃帰ってみようかな……それで十分ちょっとしか経ってなかったら、そういう事だもんな」
「好きにしろ」
「え? ……ここに居ていいんですか?」
表情なく頷いてボールペンをノートの上に戻し、代わりにポットを持って席を立つエティをじっと見つめても、視線は全く合わない。変わらず無愛想な声色に、図々しいことを言ってしまっただろうかと言葉を訂正しようと口を開きかけたところで、はたと気が付く。
棚には紅茶の茶葉が詰められた瓶が両手で足りなさそうな数並んでいるが、今日淹れてくれたのも、昨日――エティにとってはさきおととい、アスカが美味いと言ったのと同じものだった。
歓迎、までいくかはわからないが、エティは決してアスカを拒絶しているわけではないのだろう。遠慮をしまい込んで、その背中に笑いかける。
「ありがと、エティさん」
無言のままエティが手を翳したコンロにぽっと火が灯る。
「そういえば昨日から思ってたんだけど、お店のほうはいいんですか? 他に店員さんがいるとか?」
「いや。 誰か入ってくれば音でわかる」
「え、こんなに広いのにおきゃ…………エティさん一人でやってんの? 大変じゃないですか?」
「べつに……。 察しの通り、大して客もいないからな」
咄嗟に飲み込んだ、お客さんいないの、という言葉を背中を向けたまま看破され、アスカはばつが悪そうに苦笑する。
「でも入り口の本の山はこの間来た時よりずいぶん増えてるけど……」
アスカの言葉を遮り、シャラララ、と鳴り子の硝子が弾き合う音が響く。扉一枚隔てているというのに、まるですぐ耳元で鳴っているかのように鮮明に聞こえた。
エティはコンロの火を止めて、店へ出ようとしてアスカを振り返る。
「好きな事をしていればいいが、店の方には出て来るな。 用事があったらドアを叩け」
アスカの方を見てはいるのだが、やはり視線は微妙に目から外された。
この人本当に目が合わないな、と思いつつ、はーい、と軽く手を挙げて返す。
***
A4判一杯に詰め込まれた応用問題の最後の数式を解いて、ペンを投げ置いて息を吐く。宿題のプリントを埋めるのに小一時間ほど使っただろうか?ふと思い立って、ブレザーのポケットから端末を取り出す。圏外の二文字を確認してから時刻表示に視線を移し、目を疑う。
大きくデジタル表示されているはずの時計が文字化けしているように見えた。端末自体の表示がおかしいというよりは、目が、脳が、読み上げることを拒否しているような妙な感覚。凝視していると、くらりと眩暈に似た不快感に襲われて、目を瞑って頭をぶんぶんと振った。
耳元にまた鳴り子の音が響いたすぐ後に扉が開いて、エティがダイニングに戻る。
「エティさん、今何時?」
「七時」
「ちょうど?」
「……六時五十六分」
エティは時計を二度見た後に机上のプリントへ視線を落とした。少しだけ目で数式をなぞり、すぐに興味なさげにキッチンへ向いた。ポットの中の茶葉を捨てながら、ふと思いついたように口を開く。
「飯、食べていくか」
眉根を寄せて端末と睨めっこしていたアスカが顔を上げた。言われてみればそろそろ家で夕飯を食べはじめる時間、空っぽの胃が空腹感を訴えかけてくる。
「いいんですか?」
「簡単なものしか作れないが……」
手に持っていた端末を思わずばん、と勢いよくテーブルへ叩きつける。直後に画面が心配になってそろりと端末を返すが特に異常もなく。騒音に振り返っていたエティへ改めて興奮気味な視線を向けた。
「エティさんが作るんですか!?」
「他に誰がいる。 不満か」
「とんでもないです! ご馳走になります!!」
「興奮する意味がわからん……。 店、閉めてくる」
エティは首を傾げながらまた店の方へ出て行った。耳元で聞こえる鳴り子の音と共にアスカはふと冷静になって、一人苦笑しながら首をゆるく左右に振った。
いやいや、エティさんの言うとおり。 なんで俺、こんな興奮してんだ……。
端末を手に取って念のためにもう一度画面を検め、液晶にも異常がないのを確認してポケットに仕舞った。落ち着いたつもりが、依然胸は少しだけ高鳴っている。一度浮かんだ、手料理、という言葉が頭の中からなかなか消えてくれない。男相手に手料理で喜ぶ自分とは一体何か。いい加減笑えなくなってきて、浮かべ続けていた半笑いが引っ込む。
戻ってきたエティが、冷蔵庫のような物やキッチンの端の籠から食材を取り出して調理台に並べていく。好奇心を煽られ、席を立って覗き見る。野菜類に、クラフト紙のようなものに包まれているのは肉類だろうか?どれも普段アスカが目にしているものと違わないように思えた。
ブレザーを脱ぎ、椅子の背凭れに掛けてエティの隣に立つ。
「何か手伝わせてください」
「料理の経験は」
「ないっす」
「座ってろ」
一瞥もされずにばっさりと切り捨てられた。食い下がろうにも、小中学校での調理実習の記憶さえ曖昧で、料理について一つも知識が無い頭ではなにも思いつかず。カーディガンごと腕まくりするエティをあうあうと口を開閉しながら黙って見下ろした。
暫しの沈黙の後、根負けしたようにエティが大きく溜息を吐いた。調理台の上の野菜類を指差す。
「これ洗え」
「はーい!」
母親の手伝いを申し出た子供のような声を満面の笑顔と共に返してシャツの袖を捲り、乾いた土の付いたじゃがいもを手に取った。水を出そうと反対の手を出し、はた、と動きを止める。
「エティさん、流しに取っ手がない」
一般的なものと何も変わらないように見えたシンクの蛇口部分に、水を出すためのハンドル類が見当たらないのだ。本来備わっていそうな場所には、青と赤の薄い板状の宝石のようなものが一対はめ込まれている。
エティはさっきよりも大きく溜息を吐いて、青いほうの宝石に軽く手を翳す。蛇口から水が流れ出はじめた。
「うわー地味に便利だ……うちにも欲しい」
泡のついた両手でも簡単に水が出せる、などと取り留めない想像をしながら、流水で土を落としていく。逐一指でごしごしと熱心に洗っていると、そんなに躍起にならなくていい、と呆れたような声が横から掛かって照れ笑いを浮かべる。
***
全て洗い終わって調理台に戻し、普段の癖でコックを捻ろうと石のほうへ手を伸ばす。と、蛇口から出ていた水がぴたりと止まった。
一瞬の間をおいて、エティがアスカの手元を向く。
「次は何すれば」
「アスカ、お前」
「え? ……あっ!? 俺、今、水止めた!?」
シンクの下に掛けられているタオルで水気を拭っていた両手を体の前に出し、石と手のひらを見比べる。石へ手を翳し、自宅の流しでコックを捻るシーンを想像してみると、ドザァッ、と大量の水が溢れ出た。細長い蛇口が反動で動く程の流量に、慌ててコックを閉めるイメージを浮かべる。きゅっ、と音がして水が止まった。
もう一度手のひらに目を遣ってから隣を見る。エティはアスカの手を見ながら無表情のままこくりとひとつ頷いてみせた。アスカの顔にゆっくりと笑顔が広がる。
「ま……魔法使えたぁあ!! もしかして今なら本も浮かせられるんじゃ……って本ないじゃん! プリントでいいやッ」
ついさっき空欄を埋め終えたプリントにまっすぐ手を伸ばし、昨日本に対してしたのと同じように、手で持ち上げるイメージを送る。ピシシ、と音を立てながら紙が細かくさざめいた。ゆるい風に煽られるように、ふらりとほんの少しだけテーブルから浮きかけて、そして。
バリッ
「あ゛――――!!」
プリントが四方から引っ張られたように引き裂かれて数枚の紙片となり、はらはらとテーブルに落ちた。それを呆然と見ながらアスカは両手で頭の左右を抱えた。学内で一、二を争うと囁かれるほど厳しい数学教師の怒りに震える表情が頭を過ぎる。破れたプリントを提出すれば鬼、提出しなればもっと鬼。
「やべえええどうしようどうしようどうしッ痛って」
「喧しい」
そんな事情など露ほども知らぬエティが、壁際のシェルフから本を一冊手繰り寄せてアスカの後頭部へその角をクリーンヒットさせた。本はバタリとテーブルの上に落ちて、風圧で紙片のひとつを床に落とす。
「あっちょ、失くしたらマジでヤバイんですって!」
慌てて紙片を拾い上げ、数十秒前の自分を呪いながら他の4枚と一緒にクリアファイルへ挟み込む。プリントの今後については後で考える事にして、エティが置いた本に手のひらを向けた。持ち上げようと意識を集中するが、テーブルの上で少し動いただけで浮かび上がりそうな気配はない。
「やっぱ浮かないや。 なんで水は出せたんだろ?」
「推測だが……水道はじめ、家の中の魔法道具はただ魔力を流せば作動する単純な仕組みなんだろう。 魔力を行使して物を持ち上げるより簡単なのか……一度、詳しい奴に聞かないとわからん」
話を切り上げたエティがシンク下の戸から包丁を取り出して、野菜の皮を剥きはじめた。
アスカは恐る恐るコンロのほうへ手を向けようとする。
「やめろ。 爆破でもされたら堪らない」
「……ハーイ」
エティが手元に視線を落としたまま、言葉でアスカの手をぴしゃりと叩く。アスカの脳裏にプリントが四散した様が浮かんで、伸ばしかけた手を引っ込めた。まさか、と笑おうとするが、あながち冗談じゃ済まないかもしれないと思い直して黙って頷く。
「他に手伝えるこ」
「ない」
「でもな」
「座ってろ」
心底うざったそうに呟かれた台詞に、アスカはすごすごとテーブルへ戻る。宿題は色んな意味で終わってしまったし、端末に電波が入らない以上は他にする事も無い。椅子に逆に腰掛けて背凭れに腕と顎を乗せ、エティが調理している姿を眺める。
ぼんやり見ているだけのつもりが、エティの思いのほか器用な包丁さばきに、その細い手首に、思わず見惚れた。肘まで捲った袖から伸びる白い腕と自分の腕とを見比べて、何かの拍子に簡単に折れてしまいそうだ、と要らぬ心配をしてしまう。
野菜や肉を切ったり、炒めたり。普通の調理風景と何も変わらないというのに、不思議と飽きることがない。妙な微笑ましさがこみ上げてきて、自分では気付いていないが、アスカの表情はひどく緩んでいた。
「何かもっとこう、野菜切ったり炒めたりとか、魔法で色んなことを同時進行でやるのかと思ってたけど……普通なんですね」
「お前は両手両足いっぺんに、別々の事を器用にこなせるか」
「無理デス」
「……まあ、器用な奴が訓練したり魔法道具の力を借りれば、その限りじゃない。 出来る奴は出来る」
「ふーん……俺もそのうち出来るかなぁ?」
「……」
考え無しに何気なく言ってみた台詞にエティの背中が呆れているように思えた。プリントを引き裂いた事をまた思い出して、アスカは自ら言葉を訂正する。
「無理かもしんないですね……」
***
暫し待ってテーブルに並べられた、クリームシチューと鶏肉の香草焼きとサラダ、籠に盛られたパン。アスカは目を輝かせ、いただきます、と顔の前で手を合わせる。手始めにシチューにスプーンを付けて、アスカは大げさに見えるほど頬を紅潮させた。そのままがっついて食べるのを、落ち着け、と一言窘められる。
「すっげえ美味い! エティさんって料理上手なんすね!!」
「レシピ本の内容をそのまま作っただけだ」
「嘘ぉ? 俺、今なら料理番組のレポーターになれますよ! ……あれ、エティさんは食わないの?」
「味見で腹いっぱいだ」
自分の分は用意せず頬杖を付いてアスカの食いっぷりを眺めているだけのエティに気付いて、アスカは急に深刻そうな顔をしてテーブルにスプーンを置いた。言いづらそうに目を泳がせて、たっぷりと間を空けてから意を決したように口を開く。
「……エティさん、もしかしてあんまりお金ないんじゃ」
「……は」
意表を突かれたエティが眉を顰めながらアスカの瞳を見て、本日二度目、視線が絡む。
「だってこんだけ広いのにお客さん全然っぽいし! ひょっとして無理して作ってくれたんじゃないかっておもっ痛って」
エティがテーブル端に除けていた本を掴んでアスカ目掛けて投げた。表紙がばしんと額を打って、エティの手に引き戻される。
「元々小食なだけだ……生活にも困ってない。 要らん勘繰りはよせ」
「スミマセン……」
「さっさと食べろ。 もうあと二十分で九時だ」
「え、マジでっ」
読めない時計を反射的に見てスプーンを取り、急いで皿の中身をかき込む。
香草焼きとパン三個、シチューはお代わりして三皿。あっという間に平らげて、ごちそうさまと手を合わせた。まだ鍋の中に残るシチューがとても惜しかったが、流石にこれ以上は食べられないと渋々諦める。
端末のライト機能を呼び出してささやかに足元を照らしながら、店の裏手に回る。見送りなのか、特に何を言うでもなく付いて来たエティを穴の前で振り返った。
「じゃ、俺今日はこれで……夕飯ごちそうさまでした、ほんっと美味かったです。 ……また来てもいい?」
「好きにしろ」
「へへ、ありがとうございます。 そんじゃ」
穴を潜って藪越しにエティを振り向いて、名残惜しさを跳ね除けるように背中を向けて歩き出す。風景の切り替わりを目に捉えようと強く意識して歩を進めてみたが、やはり、ふと気が付くととっぷり暮れていたはずの辺りがまだ明るい夕方の風景に変わっていた。
端末によれば、時刻は午後五時十二分。
路地を抜け切らないまま足が止まる。少しだけ迷って、くるりと身体を翻した。こんなにも自分の気持ちに正直な行動ばかりとるのは一体いつぶりだろうかと、頭の隅で考えながら。
***
「……今度の「また」は、随分と直ぐだったな」
穴から顔を出したアスカに耳触りの良い声がかかる。藪を抜けて顔を上げ、暗闇に慣れぬ目で声の主を捉えて、頬を掻きながら照れ笑う。
「あはは……戻って来たくなっちゃって。 なんか居心地いいんだ、ここ」
「時間は」
「やっぱり夕方のまま、十分ちょっとしか経ってなかったです。 あー……すいません、俺、何か考え無しに戻って来て……もう遅いのに、迷惑かけるような事……」
「……別に。 居たければ泊まっていけばいいだろう、誰も迷惑はしない」
「え? いいの?」
「……好きにしろ」
エティは呟いて、アスカに背を向けて店の方へ歩き出す。
「はいっ!」
はじけるような笑顔を浮かべて小走りで背中に追いつき、隣に並んだ。ちらりとエティの無表情を盗み見るとくすぐったさがこみ上げてきて、にやにやと笑顔を浮かべたままもう一度軽く頬を掻く。
当然ながらトイレも浴室のシャワーも魔力で稼動するものだったが、シャワー中に湯と水を間違えて思いきり水をかぶった程度で、他には難もなく使いこなすことができた。貸し出されたエティの物らしい寝巻きのサイズが小さく、手首足首が余計に露出した少々滑稽な姿になんともいえない表情を向けられはしたが。
階段を上った二階、廊下の手前から二番目の部屋に案内される。ベッドと机と棚だけ置かれたその部屋は客室のひとつらしく、長く使われていないという言葉通り少しだけ埃の匂いがしたが、旅先でホテルにでも泊まるようだと、アスカの胸を高鳴らすには十分だった。
一人になった部屋で、ぼすりとベッドに飛び込んでみる。アスカの入浴中に簡単に掃除してくれたらしく、シーツからは太陽の匂いがした。うつぶせのままきょろきょろと室内を伺う。机も棚も壁際のランプも、アンティークな洋館さながらだ。ベッドのフレームにも細かい装飾が入っていて、マットレスの跳ね返り具合からしても、普段アスカが使っているパイプベッドとはまるで別物だ。
もしも朝起きて、時間の流れが思ったとおりじゃなくて、向こうの世界で行方不明みたいになってたら、大事だな。
一体どうして両世界間の時間の流れに矛盾があるのかもわからないうえ、二回しか確かめていないのだ。普段の素行は至って真面目。一日無断外泊しただけで、家族はきっとアスカを心配するだろう。ほんの少しの不安と恐怖心が、この世界に来て初めて首をもたげる。
時間の計算を頭の中でもう一度おさらいする。ああでもないこうでもないと考えているうちに、アスカの意識はとろとろとベッドへ沈み込んでいった。
***
扉越しに声をかけられて目を覚まし、差し込む外光と微かに聞こえる鳥の囀りに朝になったのだと悟る。身体を起こして気だるい返事を返すと、外から少し開けられたドアから、綺麗に畳まれた制服一式がベッドの上に投げ込まれた。
一番上のグレーのワイシャツは昨日自分が着ていたものだが、ふわりと嗅ぎ慣れない洗剤の香りがした。どうやら脱衣所に置きっぱなしにしたのを夜のうちに洗濯されたらしい。ありがとうございます、と言う頃にはとうにドアは閉められて、階下に下りる足音がトントンと響いていた。
シャツを広げると、その下から昨日アスカが穿いていた下着が出てくる。同じく洗濯済みのようだ。そういえば、シャワーを浴びた後、急場しのぎで鞄に入っていた体操着のズボンを下着代わりにを穿いたんだった、と思い当たる。
つまり、エティさんは俺のシャツと一緒に、これも洗ったんだよな……
申し訳なさと気恥ずかしさが胸から一気に駆け上がってきて、耳まで真っ赤になりながらアスカは一人ぶんぶんと首を振った。
着替えて寝巻きを持って階段を下り、香りにつられるようにダイニングへ顔を覗かせる。テーブルの上には昨日の残りのシチューと、トースト、ハムエッグとそれに添えられたサラダとが並んでいた。
向かいの席についたエティはコーヒーを啜りながら手元の本に視線を落としている。
「おはようございます……あの、スイマセンなんか、洗濯してもらって……」
もごもごと歯切れの悪いアスカの言葉に、エティは本から視線を外さないまま頷く。
「冷める前に食え」
「あ、ハイ。 いただきます……エティさん、また食べないの?」
「ああ」
「だから細いんだ……お腹空かないんですか?」
「ああ」
生返事にしか聞こえない返答にアスカは眉根を寄せた。言葉を重ねようとして、本に集中しているならそれを邪魔するのも野暮だろうかと、トーストと一緒に台詞を飲み込んだ。
普段学校へ行きがけに食べるパン一つの朝食よりはるかに量が多かったが、ペロリと平らげて、せめてそれくらいはさせてくれと慣れない手つきで食器を洗った。
時間を聞けば、朝八時。念のためもう一度穴を潜って元の世界に戻ってみると、今度は朝から日が落ちたばかりの夜の始めへと風景が変わる。時間は五時四十五分、計算と違わない。アスカは胸を撫で下ろした。
古書店に戻ってダイニングに入ろうと扉に手を掛けて、ふとカウンターの方に目が行った。積み上げられた本が昨日よりまた幾らか増えて、入り口側からはもはや机の姿が見えなくなっている。
「エティさん、俺、店の手伝いがしたいなーなんて……。 泊めてもらったお返し……になるかどうか、わかんないけど」
「文字も読めないのにか」
「うっ……」
本から顔を上げぬままの突っ込みにアスカは少し考えて、人差し指を立てて提案する。
「は、運ぶ作業とか! ってそうだ、魔法で運ぶのか……その方が早いか……。 えーと他には……うーんと……」
「……大量に運ぶのは、魔法を使っても重労働に変わりない」
「だったら! やらして下さい、泊めて貰ってタダで帰るなんでできないです」
「……好きにしろ。 とりあえず、看板外に出してこい」
「はーい!」
小躍りでもしそうなほど上機嫌なアスカの背中に向けてエティは軽く息を吐き、本を閉じて席を立った。
***
エティが一冊ずつ本を手に取ってはぱらぱらと捲り、幾つかのグループに分類していく。曰く大まかなジャンル毎に分けているそうだが、文字の読めないアスカには勿論違いがわからない。
本を積む前に、太い鉛筆の芯にぴっちりと紐を巻き付けたような筆記具で、最終ページの端に数字を書き入れる。時折既に記入されている、一度買い取った事のあるものはそのままに。
絨毯に腰を下ろしてエティの作業を眺め、仕分けされた本が溜まったら、数字で指定された通路まで本を運ぶ。行ったり来たり待ったりを繰り返しているうちに本の山はどんどん嵩を減らしてゆき、昼を過ぎる頃にはエントランスからはすっかり本がなくなっていた。
ダイニングでアスカだけ昼食を摂って食後のコーヒーに口を付けていると、店の方に出ていたエティが戻ってきて、アスカの前に小さな革の小袋を置いた。
「ん? 何これ?」
コーヒーカップを置いて皮袋の紐を解き、中身を掌にあける。銀色と銅色の、小さな長方形の薄い板がちゃらりと音を立てながら幾つか転がり出た。一つを摘みあげて裏表を観察する。
「……コレってひょっとしてお金?」
「手伝いの報酬だ」
「え!?」
慌てて硬貨を皮袋に戻し、向かいに座ったエティへ袋を突っ返した。
「午前中しか働いてないのにバイト料なんて貰えないよ!」
「……ばいとりょう?」
「バイトっていうのはその……俺の世界では、店で働いて金を貰うのをアルバイトっていって……バイト、って略すんだけど……とにかく、こんなちょっとしか働いてないのに貰えないんだって」
戻された皮袋には目を遣らず、エティは口元に手を当てて、言い慣れない言葉を口内で転がしながら少し思案するような素振りを見せる。
「ばいと……バイト、か」
「うん」
「……お前、ここでバイトしないか」
「えっ!? そ、そりゃしたいけど……!! 俺で役に立てること、あるんですか?」
口元から手を外したエティが頷く。
「さっきと同じく本を運ぶのと……後は金の計算を覚えて、客の応対をしてくれりゃいい。 それが一番億劫だからな」
「したい!! ……でも俺、星ノ宮には三日に一回しか来れないみたいだから全然働けないけど……そういうシフトでもいいんですか?」
「……しふと、だか何だか知らんが……何なら泊まればいいだろう」
「いいの!? 計算的にはえーっと……さ、三泊とか……できちゃう、けど……」
遠慮がちに上目遣いで提案した駄目で元もとの案にも、あっさりとエティは頷いた。
アスカは思わずテーブルに身を乗り出してエティの両手を取る。驚いたエティの視線が、アスカの瞳とぶつかった。
「エティさんさえ良ければ、俺…俺、ここに居たい!! 手伝わせてください!! 金なんか要らない!!」
「……好きに、しろ」
「好きにします!!」
たじろぐエティが目を逸らして手を解こうとしても、アスカは笑顔のままその手を握って離さない。
「……暑苦しい」
シェルフからひとりでに取り出された本の角が、ごしゃりと音を立ててアスカの後頭部を強打した。
***
むせ返りそうなほど強い香の煙と香りが漂う、薄暗い室内。
床に座り込んで、すぐ前に置いた水盤へ張った水面に映りこんでいるアスカとエティの姿を見つめ、少年がその翠の双眸を細めながら声もなく笑う。
不意に少年の後ろから伸びた手が水面に触れ、波紋が映像をかき消す。少年は肩越しに振り返り、指先に付いた水滴を払いながら立ち上がるもう一人の少年を見上げた。
諌めるような表情を向けながら首を横に振る彼に、微笑んだまま甘えたような声をかける。
「そんな顔しないでよ。 今回だけ」
少年は何も映らなくなった水鏡に視線を戻し、袖口で口元を押さえながら妖しく笑みを深めた。
「ぼくに隠しきれると思ったら、大間違いなんだよねぇ……」