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01

 長々と居座り続けた残暑がようやく姿を消して、朝晩はブレザーを羽織っていても肌寒く感じるような季節がやってきた。

 気温の低下と共に、暮れる時間もどんどん早まる。午後五時。夕焼けが空の端を染めようとし始めた街の外れを、短めに切りそろえた黒髪を揺らしながらとぼとぼと歩く影ひとつ。




 右肩から下がった鞄がひどく重たく、帰路を辿る足取りを鈍くしている。二つ折りでクリアファイルへ適当に挟み込まれた一枚の紙切れが、教科書十冊ぶんに匹敵するような重さに感じた。

 進路希望調査票。

 平凡だがそれなりに楽しく送る高校生活に大きく立ちはだかった邪魔者のようだと、飛鳥は本日幾度目かのため息を盛大に吐き出した。

 子供の頃の夢はスポーツ選手。もちろん童心の情熱が長く続くはずもなく、そのスポーツも曖昧な笑顔で両親を誤魔化しながら中学卒業と同時にやめてしまって、高校に入学してからはふらふらとした帰宅部生活だ。

 月々の小遣いに不足を感じた事もなくアルバイトすらしていない。こんなふうに友人とも遊ばず真っ直ぐ家に帰る日は、時間を持て余した一人の暇人でしかない。

 

 そうだ、なにかバイトでも始めようか? ……なんてな。


 現実逃避が一瞬頭を過ぎったが、逸れた話はすぐに元の軌道に押し戻される。今は二年生の半ばという中途半端極まりない時期。始めたところですぐ、悩みの種である進路のあれこれで辞めざるを得なくなる可能性が高い。

 就職なんてまだまだしたくない以上、やはり進学か。かといって勉強は好きではないし、赤点こそ取らないものの得意な科目があるわけでもない。どちらかといえば理系寄りの頭をしている自覚があるが、物理や化学や生物やら、専門的に学ぶなんて考えると頭が痛む。加えて、気の進まない勉強をしに行くために高い学費を積まなければならないのも気が引ける。

 これといって欠点はないが、これといった長所があるわけでもないのだ。勉強だけでなく、人生が平々凡々。人並み。一般的。

 わかってはいたが。


 「平凡だなぁ、俺の人生……」


 路傍の小石を蹴りながら思わず口に出してしまって、飛鳥ははっと顔を上げた。すぐ脇の車道を車が流れるばかりで、呟きの届く距離に他の歩行者がいないのを確認してほっとする。

 視線をまた足元に落としかけて、ふと車道の向こう側に目をやった。

 民家の塀と塀に挟まれるようにしてぽっかりと口をあける、見覚えのない狭い路地。足を止め、こんな道あったっけ、と首を傾げる。

 今まで気が付かなかったのだろうか?いやそれはない。一年半高校と自宅とを往復し続けている通りだし、ここはもう家から五分と歩かないごく近所だ。幼い頃から十年以上この辺りに住んでいる飛鳥は、付近の道などとうに知り尽くしている。

 見た限り、なんの変哲もないただの路地だ。それでも、理由はわからないが目を逸らす事ができない。知らない道だから。ただそれだけなのだろうか?

 気になって気になって仕方がない。

 車通りが途切れるのを待って道路の向こう側へ渡り、両腕を広げれば左右の塀に指先がつきそうなほど狭い路地の入口へ立つ。少し進んだ先は急なカーブになっていてそれ以上伺うことができない。

 舗装されていない砂利道。だが、私有地とも違う。全く根拠の無い勘に過ぎない筈が、飛鳥の中でそれはもう何の疑いもない確定事項になっていた。


 ……行ってみよう。


 現実からの逃避を望む心に強く背中を押されるように、或いは、まるで誰かに呼ばれているかのように。飛鳥は迷うことなく路地へ踏み入った。




***




 左に曲がって、今度は右、再び左、次も左。

 数メートル毎にぐねぐねと曲がる一本径は次第に細り、今や人とすれ違うのも困難そうな幅に窄まっていた。それでも不思議と躊躇う気持ちは芽生えず、飛鳥はただ歩き続ける。


 「ん……?」


 五つめの直角を右に曲がったあたりで、周囲の空気が大きく変わった気がして立ち止まる。

 温度も匂いも肌の感覚も何もかもが違う、ふわりと軽い、ひどく懐かしいような居心地のいい雰囲気。どうしようもなく郷愁にかられるように胸が締め付けられ、アスカははっきりとした戸惑いを覚えた。

 辺りはひどく薄暗い。塀だったはずの両脇はいつの間にかとても背の高い藪のようになっていて、空からの光を遮断するだけでなく、少し先で左右から道を覆ってしまっていた。行き止まりのすぐ近くまで寄ってみると、重なった枝葉の隙間から僅かに向こう側が透けて見えた。


 ……行きたい。 この先に、行きたい。


 刹那、熱に浮かされるような強い思いが胸に過ぎった。

 右腕で鞄をしっかりと体に引き寄せ、左腕で茂みを無理やり掻き分けて身体を通す。めきめきと小枝の折れる音と共に手や頬に傷が浮かぶが、強烈な衝動に突き動かされた気持ちに急かされ、痛みなどひとつも感じない。

 藪を抜け、視界が開けた。


 はじめに目に入ったのはひとつの建物。周りよりも大人ひとりぶん程度高い位置、赤煉瓦を詰んで建てられたそれは一般的な民家ほどの大きさで、左右に緩やかなカーブを描いて伸びる石畳の上り坂に抱かれるように鎮座している。他に建屋は見当たらず、自然の中にぽつりと一軒だけ建っている。

 今しがたアスカが穴を開けたのはとんでもなく高い生垣のようだった。見回すとぐるりと三方向、建物を楽に越える高さで周囲を覆っている。

 どこかの自然公園の隅にでも抜けたのだろうか?と、緩い坂を上りながら考えてみる。道の脇に植わる木々や草花が花壇や仕切りもなしに整然としているのは、人の手が入っているとしか思えない。


 でかい公園、近所にあったっけなぁ……あったら知ってる筈だよなぁ。


 首を傾げて歩くうち、すぐに建物の門扉が目に入る。石畳は向かいから同じように伸びてきた道と繋がるのと共に坂を終えていた。建物の正面方向へ真っ直ぐ伸び、少し先で左に折れ曲がって行き先を木立に隠している。

 そちらを追うのはやめて、アスカは立ち止まって煉瓦造りに向いた。足元に背の低い看板のようなものが置いてあるのに気が付くが、そこに綴られた文字を読むことができない。今まで見たことのあるどんな言語とも違う、独特な文字。


 何かの店かな?


 開かれたまま固定された門扉とその看板とを見比べて、アスカはそう判断した。門を通って数段の階段を上がり、小さな看板のかけられた扉の前に立つ。念のため見回して、表札や呼び鈴のようなものが見当たらないのを確認する。

 そっとドアノブに手をかけて引いた。

 重厚そうな扉の外見に反して軽い感触で扉が開く。頭上からシャララ、と澄んだ音色が聞こえて顔を上げると、扉の内側に透き通ったガラスの鳴子のような飾りが取り付けられているのが見えた。外からの光を乱反射してきらきらと輝いている。

 室内に目を移して、アスカは思わず怯んだ。ここからは奥行きと天井の高さしか伺えないが、そのどちらも大きすぎる。どう見ても、こぢんまりとした外観とは全く釣り合っていない。


 これ、図書館? うちの高校の体育館より広いんじゃ……?


 入り口から奥まで一直線に深赤の絨毯が張られ、左右に規則正しく書架が並んでいる。棚はアスカの身長のゆうに4,5倍はあろうかという高さで、隙間なくぎっしりと本が詰まっている。

 最奥は階段を上がって左右に分かれ、本棚になっている壁を利用するための吹き抜けになっているようだ。

 天井は高く、書架の上部からまだ余裕がある。シンプルな丸い照明が等間隔に下がり、暖色の優しい明かりが店内を照らしている。

 絨毯はまるで張られたばかりのように染みひとつなく、靴のまま店内に入るのが躊躇われるが、靴を脱いだり履き替えるような備えも見当たらない。少し迷って、柔らかく足を押し返す絨毯を両足で踏んで後ろ手に扉を閉めた。

 教室ほどの広さのエントランスの右手端には、こちらを向いた机と椅子が一対。古そうだが重厚な板に丁寧な彫りで装飾が施された机に、椅子は揃いのアンティークに見える。それらの左右には本が床に直接積み上げられて山を作っている。机はレジカウンターの代わりなのか、広い机上には無造作に散らばった紙束のほか、これまた古めかしいレジスターが鎮座していた。レジがあるという事は、図書館かと思いきや、本屋か何かなのだろうか。

 机を横目に観察しながら一番手前の本棚に近寄って、目についた本の背表紙を撫でた。革張りで文字が箔押しされた立派な本。古い洋書のようだ、と直感的に思った。そんな物は映画の中でしか見た事が無いのだが。

 革張りだったり布張りだったりと多少の差はあるが、巨大な書架に詰め込まれた本は全て同じような古書の群れに見えた。表の看板と同じ、見たことも無い文字でそれぞれのタイトルが綴られている。

 きょろきょろと首を振って伺う店内の幅も、もはや当然のように建物の外見を凌駕している。むしろ奥行きより横幅のほうが広そうだ。


 どう考えてもおかしいよな、ここ。


 そう思いはすれど、これはこういうもの、と受け流せてしまうような不思議な感覚。

 アスカは書架を離れて店内中央の絨毯の上に戻り、階段のほうへ向かって歩いた。天井近くにちいさく切り取られた窓からさす光や通路の隅に積み上げられた本、色々なものに視線を奪われながら、ゆっくりと。


 歩いているうち、ひとつの通路が壁の方で本の山に完全に塞がれているのが目に入った。何気なく眺めながら一度通り過ぎて足を止める。そのまま後退して通路に目を凝らし、目を疑った。


 「……んっ?」


 その山の前で、本のようなものが一冊、ぷかぷかと宙に浮かんでいるのが見えるような気がする。

 好奇心に導かれるまま、迷いなく通路に踏み入った。小走りで近付いていくうちにはっきりと見えてくるそれはやはり本で、開いた頁を床のほうへ向け、その場で僅かに上下しながら宙に浮かんでいるようだ。

 何気なく床に視線を遣ると、本の山に脚が投げ出されているのに気が付いた。


 ……人だ。


 今にも駆け出しそうなほど急いていた歩調を緩め、注意深く近付く。その本の山は他の通路の合間やカウンターの横で綺麗に積まれたものとは違って、ぐちゃぐちゃと乱雑に散らかって重なり合っていた。ページが開いてしまっているものも少なくない。

 その低く窪んだ中心、本に埋もれて、一人の少年が眠っていた。

 彼を視認した瞬間、自分のすぐ隣で確かに宙に浮いている本の事などどうでもよくなる。アスカは呼吸も忘れ去り、仔細に少年の寝顔を観察した。

 くすんだ緋色をした絹糸のような髪が、窓から射す細い外光を受けて煌いている。前髪の隙間から覗く同色の睫毛は長く、陶器のように滑らかで白い頬に影を落としていた。ほんの少しだけ開かれている唇はとても柔らかそうで。

 白いシャツの襟には金の飾りのついた紐タイが通り、羽織った緑のカーディガンが少しはだけて、革のサスペンダーが濃茶のチノパンを吊っているのがわかる。そのいでたちに微かな違和感を覚えた。アスカより僅かに歳若く見える少年が着るには不相応に感じるのだろうか。



挿絵(By みてみん)



 寝顔とはいえ、少年の顔立ちは今まで見た事がないほど整っているのがわかる。立派な書架や散らばった古書、差し込む光などの情景と共に切り取ると、まるで一枚の絵画のよう。

 余程深い眠りについているのか、アスカの気配に目を開く様子もなく、死んだように。


 ……死んだように?

 

 「……んんっ?」


 美術品を鑑賞するようだった視点と気持ちを現実めいたものに切り替え、改めて少年を注視する。まるで死人のように肌の色は青白く、唇からは寝息すら聞こえない。胸や腹の上下も、見られない。


 「えっ、ちょ……ちょっと! 大丈夫っすか!?」


 慌てふためきながら本を掻き分けて少年の隣に膝をつき、両肩を掴んで乱暴に揺すった。途中で何かに肘を強打して鈍い音が聞こえたがそんな事はどうでもよくて、アスカは血の気を引かせながらがくがくと相手の肩を揺さぶり続ける。


 「ま、まさか……死……」

 「んん」


 肩から手を離しかけたちょうどその時。少年の眉が潜められ、唇から微かに苦しげな声が洩れた。気づいたアスカは揺り動かすのをやめ、肩を掴んだままじっと少年の顔を見つめる。

 掌におさまるほど肩が華奢だとか襟元から覗く首が細いだとか余計な事を考えているうちに、少年はゆっくりと目を開いた。

 とても深い赤色の瞳。外光による煌きと長い睫毛によって落とされた影のコントラストが、宝石のような美しさを作り出す。

 少年は気だるそうにゆるくかぶりを振ってから、ようやくアスカに気が付いて視線を上げた。黒く濡れた双眸と目が合ったその瞬間、驚愕したように息を詰めて瞳を大きく見開く。暫く硬直しつつもアスカの顔をじっと見て、ああ、と一人納得したかのように呟いて小さく頷いた。伏し目がちで物憂げな表情に戻り、独り言のように問う。


 「……本は」


 低いトーンの声は病人のように頼りなく、生きてはいたが今にも命が尽きてしまうのではないかと再びアスカの不安を掻き立てる。


 「本? 本って!?」


 勢い良く、死にゆく相手の最後の言葉でも聞こうとするかのように問い返すアスカに、少年は微かに表情を動かしてほんの少しだけ笑って、言葉を紡ぐのもしんどそうに言う。


 「えらく魔力に溢れた本がないか……このへんに」

 「ま? え? まりょく?」


 あまりに聞きなれない単語を反芻しながら少年の肩から手を離して辺りを見回し、左脇に落ちていた青い表紙の一冊を直勘的に掴んだ。これは確か、浮いていたやつ!


 「これ!?」

 「……それ貸せ……」


 言われるまま、床から僅かに持ち上げられた少年の手に本を握らせた。瞬間、強い風が辺りに吹き荒れ、散らばった本が数冊吹っ飛ぶ。


 「え、……ええッ!?」


 猛烈な風に反射的に顔を腕で覆い、なんとか片目を開いて少年を視界に入れる。眉を寄せて瞼を閉じた横顔を見つめているうちに徐々に風は弱まり、やがて何事も無かったかのように静かな店内に戻った。数分間は風が吹いていたように感じたが、実際は数十秒と短い間だったようにも思える。

 少年が再び瞳を開いた。顔色は変わらずよくないが、紙のように白かった肌にほんの僅か赤みが戻ったように見える。少年は一度、細く長く息を吐いた。

 本の山から億劫そうに体を起こし、書架に手を付いてふらりと立ち上がる。咄嗟にアスカも腰を上げ、背中に腕を回して華奢な体を支えた。少年はやんわりとアスカの腕を押し戻し、首を横に振る。


 「もう何ともない。 ……助かった」

 「な、ならよかったけど……今の風って何……? ていうか、その本、さっきまでなんか浮いて……なかったですか……?」


 右手に携えられたままの青い表紙の本を恐る恐る指すアスカを少年は呆れたように一瞥し、背後の本の山を振り返って軽く左手を翳した。

 すると、本の一冊一冊が宙に浮かび、意思を持っているかのようにひとりでに積み重なっていく。アスカが数度瞬きする間に、風で吹き飛んだ物も含め、散らばっていた全ての本が綺麗に床に積み上げられた。


 「うわ……、」

 「おい……まさかこの程度に」

 「スゲー!! なになになに、君、今のどうやったの!? 手品!? 魔法!? なッ」


 無遠慮に少年の左手を両手で包んで持ち上げながら目を輝かせて喚くアスカの額を、右手に持った本が襲って鈍い音を立てる。


 「痛って……カドで……カドで殴った……」

 「いちいち喧しい……ついて来い、質問に答える。 それと」


 涙目で額を押さえるアスカを、少年がじとりと横目で睨んだ。


 「お前の事も話してもらうぞ」




***




 入って来た時は机にばかり気を取られていて気がつかなかったが、カウンターの背後の壁には扉があった。潜った先は居住スペースのようで、入ってすぐのダイニング、六脚の椅子に囲まれたテーブルの端に着かされたアスカは延々と少年――エティ、と彼は名乗った――に質問攻めにされていた。

 どこから来たのか。どんな世界か。平和なのか否か。平均寿命は。魔法の有無は。名前、年齢、職業、高校とは何か、誰かと一緒に暮らしているか、家族構成、友人関係、等々…。

 とにかく一切の間を置かずに続く問いに答え続けていたため、所在無さげな両手に包まれたカップの紅茶は一度も口をつけられないままとうに冷め切っている。

 注いで貰ってから一時間は経ったように思えた。ダイニングにアスカを通す時にエティは確かに自分がこの古書店の店主だと名乗ったが、それが本当なら店の方はいいのだろうかと余計な心配が頭を過ぎって、質問が止まった事に気が付く。


 「……わかった」


 納得を意味する言葉とは裏腹に、腑に落ちない、と頬に書かれたような表情のままエティは呟いた。

 アスカはようやく収まった質問の嵐に安堵しつつ、喋りっぱなしで乾いた喉に一気に紅茶を流し込んだ。


 「うま……」


 冷めているものの口内に広がる香りがあまりに好みで、思わず呟いた。今まで口にした事の無い味だが、そもそも日常で紅茶を飲む機会自体が殆ど無いアスカにはこれがどういった紅茶なのかもよくわからない。

 ティーポットを持ってエティが席を立つ。すぐ背後のキッチンで湯を沸かす器具は、薬缶もコンロもアスカの見慣れたそれらとは微妙に形が異なっている。


 「そんで、あの……魔法、って何なんですか?」


 点火する摘みの見当たらないコンロにエティが手を翳すと、唐突に火が点って薬缶の底を舐めた。


 「……魔法は魔法だ。 他に説明のしようがない」

 「今、火点けたのも魔法?」


 アスカも椅子から降りてエティの隣に立ち、コンロのようなものを色々な角度から眺めてみる。ガスのチューブも電源コードも見当たらず、どこから火力を調達しているのか、その外見からは全くわからない。


 「これは魔力を与えて使う魔法道具だ。 自分の中の魔力を、手や足を動かすのと同じように使うのが魔法……そうだな、実践が一番早いか……」

 「実践? ……うわっ危ねッ」


 エティが何か物を持つような形をつくった右手を差し出すと、奥の部屋から本が一冊飛んできた。アスカに当たるすれすれを掠めて、エティの掌に吸い寄せられるように背表紙が掴まれる。

 本を手渡され、アスカは両手で恐る恐る受け取る。表紙や背表紙、中を開いて調べてみても、店内に星の数ほどあった本と同じ、読めない字で綴られた古い洋書にしか見えなかった。


 「浮かせてみろ」

 「はい!?」


 それくらいなら簡単だろうと言外に含ませて、エティはキッチンに向き直ってしまう。

 アスカは戸惑いつつ、とりあえず言われるまま同じようにやってみようと本をテーブルに置いてその上に両手を翳した。深呼吸をして、本に向かって念を込める。……ような気になってみる。


 「――浮けッ!!!!」


 …………。

 ぴくりとも本は動かず、大きな声で口走った気合いが掻き消えた後、短い沈黙がダイニングに流れた。


 「……別に口に出す必要はない」

 「……ッ」


 背中を向けたままのエティの呟きに我に返って首まで真っ赤になる。

 もう一度、と今度は口を引き結んで念を送ってみたが、やはり本は少しも動かなかった。


 「……エティさん、すっげえ今更だけど、俺の事からかってたりとかしないですよね……」

 「お前をからかって俺に何の得がある」


 湯を注いだティーポットを持ってエティが振り返る。両手を翳すアスカと全く動く様子の無い本とを見比べて、心底呆れたようにため息をひとつ吐いた。


 「うう……。 こっちの本でもやってみていいですか……?」

 「そっちは触るな」


 テーブルの隅に除けられていた青い本に手を伸ばしかけたアスカを、エティが強めの口調で嗜めた。


 「その本は人の魔力を吸う。 体を壊したくなければやめておけ」

 「……つまり、さっきエティさんはこの本に魔力を吸われてたって事?」


 エティは黙って頷く。


 「もし誰も来なくて、あのままだったらどうなってたの?」

 「最悪死んでいた」

 「いっ!?」


 何でもない事の様に言い放つエティの言葉に、アスカ伸ばしかけていた手を大げさに引っ込めて青い表紙を凝視する。

 よくよく見れば、そうでなくてもこの本は異質だ。表紙には細かく編まれた鎖といくつかの小さな宝石によって、本に対するものとしては過剰なほどの装飾が施されている。そのまま本棚に仕舞われるより、インテリアとして飾られている所を想像した方がずっとしっくりくるような。


 「手で持ち上げるのと同じ感覚でやってみろ。 ……こんなふうに」

 「わ、すげぇ」


 エティが抱えていたティーポットから突然手を離した。ポットは落ちる事なくふわりと浮いて、見えない誰かの手に動かされているかのように宙を移動し、二客のカップに紅茶を注いでテーブルに落ち着いた。


 「それと、立っていようが座っていようが変わらないから座れ。 鬱陶しい」


 椅子に掛けて腕と足を組むエティに促され、アスカも席に戻る。


 「手で持ち上げる……」


 少し考えて、アスカは本に意識を集中しながら、右手で何かを掴んで持ち上げるような動作をしてみた。すると微かに、震えるように本が浮かびかけてはテーブルに戻って、パタタと音を立てる。


 「あっ!? 見て見てエティさん、でき……」


 興奮の余り気が逸れたのと同時に、本はぴたりと動くのを止めた。


 「……てない」

 「……」


 がっくりと肩を落とすアスカから視線を外し、エティが何か思案するように口元に手を当てる。


 「でも、でもちょっと動きましたよね? ねっ? 見た?」

 「……ああ」

 「本当に動くんだ……。 練習すればちゃんと出来るようになんのかなぁ……?」

 「……」


 感慨深そうに自分の右手を眺めるアスカへ視線を戻して、思い出したように口を開く。


 「お前、自分から「魔法」という言葉を口にしたな」

 「あ、はい。 俺の世界?では、信じらんないような……何だろ、夢みたいな事を「魔法みたい」って言うんですよ。 実在しない事の代名詞。 魔法って単語はあるにはあるけど、それは物語の中だけの話……だと思ってた」


 エティがテーブルに頬杖を付いてアスカの黒い双眸をじっと見つめる。アスカの語り口には少しずつ熱が供っていく。


 「子供の頃はさ、一度はみんな、物語の中で色んな奇跡を起こす魔法に憧れるんだ。 でもそんなの無いんだって、大人になるにつれて当たり前に気付いてく。 勿論、俺もそうだった。 だから俺……今なんかすっげえ嬉しくて。 まだ「夢かもしれない」っ


て思ってるけど、夢じゃなきゃいいのにって……夢なら、醒めなきゃいいのにって。 ……はは、恥ずかし。 何言ってんだろ俺」


 向けられた視線に気が付いたアスカが照れくさそうにはにかんで頭を掻いた。エティは目が合うのと共に視線を外し、面白くもなさそうな顔を作って短く息を吐く。


 「なにが大人になるにつれて、だ。 マセガキめ」

 「ん~? まあね、どっちかって言うと高校生はまだ子ども扱いですけどね……」


 どう見てもそっちの方が年下じゃないか、とは思えども、口には出さず心の内に仕舞い込んだ。ほとんど表情の変化も無い落ち着いた素振りを見ていると、そう揶揄するのは何かが違うような気がして。

 苦笑で返すアスカを一瞥して、エティは頬杖をついたままティーカップに口を付けた。倣って、アスカも温かい紅茶を口に含む。


 「……気が済むまで練習して行けばいい。 どうせ今日はもう店じまいだ」




***




 「浮かねえええ!!」


 何十回目、ひょっとしたら三桁に及んでいるかもしれない挑戦に失敗して、アスカはとうとうテーブルに突っ伏した。飽きもせず、だが相変わらずつまらなそうな表情のまま見守り続けていたエティが欠伸を噛み殺す。持ち上がりかける確率は確実に上がって来てはいるものの、テーブルから本が完全に離れる事は一度もなかった。

 テーブルに伏したまま顔だけ上げて、薄々感じていた嫌な予感を引きつりながら口にする。


 「もしかして、俺……才能ない?」

 「知らん。 普通は生まれた時からできる」

 「嘘ぉ……」


 生まれたばかりの赤ん坊が本を浮かせる場面を想像して、アスカは再度腕に顔を埋めた。

 かと思えばぱっと頭を上げて室内を見回し、自分の背後に窓を探し当てる。真っ暗になった外を視認してテーブルから体を起こした。夢中になるあまり忘れていた空腹感が襲ってくる。


 「あれ? 今何時?」


 エティに無言で指し示された壁の時計は文字が読めない上に、アスカの見知っているものより針が二本も多く、当然、何も読み取ることができない。


 「……十時前」

 「マジ!? やっべ門限が……。 すいません、ちょっと電話します」


 慌ててブレザーのポケットに手を突っ込んで端末を取り出すが、その電波表示を見て驚愕する。


 「圏外!? このご時勢に圏外!? どんだけ!? うわああヤバイヤバイヤバイ帰んないと!!」


 勢い良く椅子を立ってその横に立てかけていた鞄を引っつかんで肩に掛け、カップを手に取り残っていた紅茶を飲み干した。カシャンと音を立ててカップをソーサーに戻し、エティに向いて短く二言掛ける。


 「ごちそうさま! お邪魔しましたッ」


 扉を潜って店内へ出て、けたたましく鳴子を揺らしながらドアを開け放ち、ばたばたと慌しく外へ転げ出る。外気にひやりと頬を撫でられながら石畳を駆けて坂を下り、店の裏手に回った。

 周囲に灯りはなく、生垣は真っ黒な三枚の壁にしか見えない。確か、と当たりを付けた箇所に近づき、端末を生垣へ向けた。頼りないバックライトが薄ぼんやりと枝葉を照らす。左右に動かして辺りを探ると、自分の体で開けた穴を辛うじて発見できた。


 「……アスカ!」


 後方から呼び止められ、アスカは一つ尋ね忘れを思い出しながら振り返った。離れた場所で立ち止まるエティに届くよう、口の横に手を当てて声を張る。


 「エティさん、俺、明日も来ていい!?」

 「っ……」


 一瞬の間を置いて、彼は頷いたように見えた。


 「じゃあ、また!」


 頭上で大きく手を振ってから、がさがさと生垣に入り込む。来たときよりずっと楽に通り抜ける事ができたが、よく整えられた生垣に派手な穴を開けた事に少しの罪悪感を覚える。

 口の中に入ってきた小さな葉を吐き出して、暗い道を焦れつつも早足で歩いた。出来る事なら走り出してしまいたかったが、真っ暗闇の中そうするわけにもいかず、端末の灯りだけを頼りに来た道を戻る。

 高校に入学してからはじめて門限を、それもたかだか十分程度破ったとしても、恐らく叱られる事もないだろう。とはいえ、余計な心配は出来るだけ掛けたくはないのだ。

 ほんの一瞬だけふっと体が浮くような感覚と共に、周囲の景観が見慣れきったものに戻る。明るさに目が眩みながら上を仰ぐと、塀の隙間から夕焼け空が覗いていた。


 「……え?」


 今度こそ走って路地を抜け、元の通りに抜ける。呆然としつつ手元の端末に視線を落とした。電波表示は通信可能、時刻は――午後五時十五分。念のため日付にも目を遣るが、何の異常もない。


 「……嘘? どゆこと?」


 路地を振り向いて呟いた。掌に残る細い肩の感触を確かめるように、軽くその右手を握りながら。





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