泡沫の恋人でしたが、婚約破棄されたので水の精霊に還ります~前世は水質検査員、異世界で愛された記憶は全部“泡”だったらしい~
「お前のような“泡沫の女”を、私の隣に置いておくわけにはいかない」
王太子アルヴィンの声が、大広間の大理石に反響した。
シャンデリアの光が、居並ぶ貴族たちの好奇と侮蔑の視線を照らす。その中心、階段上に立たされているのが――私、公爵令嬢レティシア・ド・アクアフォンテ。
(残留塩素濃度は正常値なのに、なぜこの男の頭はこんなに濁っているのかしら)
前世の職業病というのは、こういう場面でも発動するらしい。
私はかつて日本の水質検査員だった。名前は水無瀬れい。過労で倒れ、気づけばこの異世界の――湖のほとりに浮かぶ“泡”から生まれた令嬢に転生していた。
正確には、転生ではない。
私は本物のレティシアではない。五年前に水難で命を落とした本物の公爵令嬢の身代わりとして、湖の水精霊が“泡沫”で象った、仮初の存在。いわば――『泡沫の恋人』だ。
「レティシア。聞いているのか」
アルヴィンが苛立たしげに眉を寄せる。金髪碧眼の、見栄えだけは良い青年。だが中身は、pH試験紙より薄い。
「聖女シルフィが、本物の癒しの力を持つと発覚した。もはやお前のような偽物は不要だ」
彼の傍らで、桃色の髪の少女がしなを作って微笑む。聖女シルフィ。大きな瞳に涙を溜め、いかにも「か弱い私」を演出している。
「ごめんなさい、レティシア様……わたくし、望んでこうなったわけでは……」
(あの涙、表面張力の限界を攻めてるわね。よく落ちないこと)
観客席では、継母ドロテアと義妹ミレーユが扇の陰でくすくすと笑っている。
「まあ、拾われた身の程知らずが。とうとう化けの皮が剥がれましたわね」
私は、静かに彼らを見下ろした。
喚きもせず、涙も見せず。
その落ち着きが、かえって周囲をざわめかせる。「不気味だ」という囁きが、さざ波のように広がっていく。
――ざわめけばいい。
あなたたちは、まだ知らないのだから。
この五年間、王都の水源を毎朝浄化し続けてきたのが誰なのか。あなたたちが澄んだ水を当たり前に飲めていた理由が、何なのかを。
◇
「何とか言ったらどうなの、レティシアお姉さま?」
ミレーユが甲高い声で煽ってくる。次期王太子妃の座を狙う、母娘ともども浅慮な瞳。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
断罪の場の隅。無愛想な強面の男が、こちらをじっと見ている。辺境の竜人将軍ガレス・ヴォルドレイク。二メートル近い偉丈夫で、黒銀の角と鋭い金瞳。部下すら震え上がる『辺境の黒竜』。
その彼が、なぜか懐を気にしている。
(……あの人、また蜂蜜菓子を忍ばせているわね。この緊迫した場で)
彼だけが知っている。私の正体と、私の献身を。
毎朝、私が精霊の力と前世の水質知識――濾過、pH管理、病原菌の理解――を融合させ、この国の水を守ってきたことを。彼が「絶対に譲らない」と言い張る、朝一番の茶の味の秘密を。
「レティシア、返答は?」
アルヴィンが尊大に問う。
私は、微笑んだ。
湖面のように、波立たない微笑を。
「わかりました。では、還らせていただきます」
一瞬、広間が静まり返った。
泣き縋るとでも思っていたのだろう。想定外の返答に、貴族たちが顔を見合わせる。
「還る、だと? どこへだ」
「さあ。あなたには関係のないことです」
私は階段を、一段ずつ降りていく。
ドレスの裾が、水のように床を滑る。
継母の前を通り過ぎるとき、私はほんの少しだけ足を止めた。
「この国の水、飲めなくなる前に――お別れです」
「……なんですって? 水が、どうしたと言うの?」
ドロテアの怪訝な声を背に、私は大広間を後にした。
(毎朝の浄化を担う者が、いなくなる。それだけのこと。分かっていて、私は還る)
私が去れば、水は元に戻る。濁り、澱み、疫病を運ぶ。
だって――泡沫の存在は、役目を終えれば消える運命なのだから。
扉が閉まる直前、私は背後に、大きな足音が一つ、追いかけてくるのを聞いた。
◇
王都の外れ、湖のほとり。
月光が水面に反射して、私の身体を淡く照らしている。
よく見ると、指先が――透けはじめていた。
(あら。思ったより、早いのね)
役目を解かれた泡沫は、光に還る。それが摂理だ。恨みもない。前世で過労死したときより、ずっと穏やかな最期だと思う。
「待て」
低い声。
振り返ると、ガレスが立っていた。息を切らして。国宝級の武人が、走ってきたらしい。
「将軍。こんなところまで、何の御用です」
「お前……消える気だな」
ずばりと言い当てられて、私は少し驚いた。
「気づいていたのですね」
「当たり前だ」
彼は、ぶっきらぼうに続けた。
「お前が浄化した水で淹れた茶。あれが、俺の一日で一番の楽しみだった」
「……菓子ではなく?」
「菓子もだ。だがそれは別の話だ」
真顔で言うので、思わず頬が緩んだ。この人は、こういう人だ。
ガレスは古傷の刻まれた頬を、少しだけ赤らめて、視線を逸らした。
「泡だろうと何だろうと……俺の飲む茶を、毎朝一番美味くしてくれたのはお前だ。それだけは、誰にも譲らん」
不器用な言葉が、胸の奥の、消えかけた何かを揺らした。
「嬉しいですけれど……もう、間に合いません。私は仮初の存在。実体を持たない泡ですから」
「実体なら」
ガレスの金瞳が、鋭く光った。
「――俺が、くれてやる」
彼の背から、黒銀の翼が広がった。角が伸び、鱗が輝く。竜化。辺境の黒竜が、その本性を現す。
「その角、その翼……竜化ですか」
「竜人の番契約は、魂を実体に縫い留める。古の契約魔法だ」
(……巻物集めが趣味って、まさかこのため? 伏線が、今、回収された)
「消えるなら」
巨大な竜が、私を優しく見下ろす。
「俺の“番”として消えろ。……いや、消えるな。生きろ、レティシア」
◇
竜化したガレスの、古の言葉が湖畔に響く。
光が、私の身体を包んだ。消えるための光ではなく――繋ぎ留めるための光。
透けていた指先に、確かな温もりが戻ってくる。
心臓が、初めて“本物”として脈を打った。
「……あたたかい」
私は、自分の手のひらを見つめた。泡ではない。もう、還らない。仮初ではない、私の身体。
人間の姿に戻ったガレスが、そっと私を抱き寄せた。
「これで、お前は俺の番だ。文句あるか」
「文句だなんて」
私は笑った。前世でも今世でも、こんなに素直に笑えたことはなかった気がする。
「……泡沫の恋人、実体化しました――ですね」
◇
そして、翌日から。
噂通り、王都の水源が濁りはじめた。
井戸は澱み、川面には泡が浮く。聖女シルフィの派手な癒しの奇跡は、傷は治せても水は浄化できない。疫病の兆しが、都に忍び寄る。
「なぜだ、なぜ水が濁る! 井戸が澱み、川に泡が浮いている!」
王太子アルヴィンが青ざめる。
「わたくしの癒しの力では……傷は治せても、水は、どうにも……ごめんなさい、わたくし、何もできませんの……」
シルフィの涙は、もう誰の心も動かさなかった。表面張力の限界を攻めた涙は、疫病の前ではただの水滴だ。
継母ドロテアの領地は、真っ先に干上がった。
「な、なぜわたくしたちの領地が真っ先に干上がるのです!? あの娘は、ただの身の程知らずだったはずでしょう!?」
そんな中、王城の書庫から、一束の書類が発見される。
『水質報告書』――五年分。
pH値、濁度、病原菌の推移。毎年欠かさず、几帳面な筆跡で提出されていたそれは、レティシアが前世の知識でこっそり作成していたものだった。
「この報告書は……pH値、濁度、病原菌の推移。五年分……几帳面な、あの女の筆跡……」
この国の水を、国土を、たった一人で支えていた真実。
「偽物などでは……なかった、というのか……私は、この国の守り手を、自ら追放したのか……」
手のひらを返す貴族たち。だが、もう遅い。
泥水を啜りながら、王太子は辺境へ使者を送った。
◇
辺境の砦。
「将軍、また菓子の在庫確認してる……レティシア様の茶が飲めなくなるのがそんなに怖いんですか」
伝令兵コルクが呆れ顔で言う。
「当然だ。あれ以上の茶は、この世に存在しない」
「うわ、菓子の話になると急に饒舌……っと、将軍、門に王都の使者が来てます! めっちゃ助けを求めてますけど!」
門の外。王都からの使者が、必死の形相で叫んでいた。
「どうか! どうかレティシア様のお力を! 王都をお救いください! 民が、疫病で倒れております!」
ガレスは、隣で澄んだ湖を眺めているレティシアを一瞥した。彼女は、新しい浄化装置の設計図を広げ、優雅に茶を啜っている。
(残留塩素も、病原菌も、ゼロ。……ここの水は、私が守る)
「将軍、どうします? レティシア様、新しい浄化装置の設計図広げて優雅に茶ぁ啜ってますけど」
将軍は、澄んだ金瞳をわずかに細めた。
かつて自分の茶を毎朝一番美味くしてくれた娘。誰にも気づかれず、この国の水を、命を、たった一人で担っていた娘。
それを「偽物」と嘲笑い、泡のように捨てた王都に――くれてやる情など、一滴もない。
ガレスは、たった一言。
「――だが、断る」
「っしゃ! いただきましたァ!」
コルクが門の上で高らかに復唱する。
「聞いたか使者ども! 将軍いわく――『だが、断る』!」
レティシアは、湖面のように静かに微笑んで、茶を一口。
「王都の泥水と、辺境の清水。……どちらを選ぶかなんて、答えは決まっていましたもの」
泡沫だった娘は、いま確かに、この澄んだ辺境で息をしている。
「茶が冷める。戻るぞ、レティシア」
人間の姿のガレスが、大きな手を差し出す。
私は、その手を取った。透けない指で、温かい手を握り返す。
「ええ。……今日の水も、正常値です。将軍」
王都の泥水は、しばらく澄むことはないだろう。
でも、それはもう、私の管轄外。
泡沫の恋人だった私は、今日も辺境の澄んだ湖のほとりで、番の淹れる――いや、私が淹れて番が飲む茶の湯を沸かす。
残留塩素も、病原菌も、ゼロ。
この水だけは、この幸せだけは、二度と、誰にも濁らせない。




