失敗のち、フィナンシェ
木曜日の朝。
城は一人で仕込みを始めた。
そうだ、茉莉が来る前に、一度フィナンシェを作ってみようと思った。
父のレシピノートを開く。
フィナンシェ
無塩バター 100g
薄力粉 40g
アーモンドプードル 60g
粉砂糖 120g
卵白 3個分
はちみつ 10g
バターを焦がしてブールノワゼット(焦がしバター)を作る。
粉類を合わせ、卵白とはちみつを加えて混ぜる。
そして焦がしバターを加えてよく混ぜ、型に流して焼く。
城は何度もレシピを読んだ。
今回の罠は分かりやすかった。
「バターを焦がす」だ。
茉莉が言っていたな、ちょうどいいところで止めるのが難しいと。
(カラメルで焦がした経験がある。あの時は火が強すぎた。今回は同じ失敗はしない)
鍋にバターを入れた。
中火。
バターが溶け始める。泡が立つ。
城は目を離さなかった。
泡が大きくなる。白い泡から、細かい泡に変わる。
そして色が変わり始めた。
薄い黄色から、少しずつ濃くなっていく。
城が鍋を揺らした。
均一に色がつくように。
香ばしい匂いがした。
ナッツのような、温かい匂い。
(これだ。この色でいい。止める——!)
鍋を火から外した。
完璧なタイミングだと思った。
三分後。
鍋の底を確認するとなぜか真っ黒になっていた。
(……なぜだ‥あぁ、余熱か)
火から外しても、鍋の熱でバターが焦げ続けていた。
カラメルと同じ仕組みだった。
外した瞬間がゴールではなかったと言う事だ。
城はメモに書いた。
「余熱に注意、外すタイミングは目標の一歩手前、油断禁物」
◆
改めて挑戦する。
今度は一歩手前で火を止めた。
さらに早めに外した。
氷水を張ったボウルを用意して、鍋底を冷やした。
そう、余熱を止めるためだ。これは自分で考えた。
(これでどうだ!)
琥珀色に仕上がった。
(……いい色だ。香りも悪くない)
次の工程に進んだ。
粉類を合わせ、卵白を加える。
はちみつを加えて混ぜる。
焦がしバターを加えてよく混ぜた。
それを型に流す。
そしてオーブンに入れた。
百八十度で十二分。
そしえ焼き上がり。素早く型から外した。
きちんとした形のフィナンシェが並んだ。
城は一つ手に取り割って断面を見る。
しっとりしている。香りがいい。
一口食べた。
悪くなかった。
しかし何かが違う気がした。
具体的に何が違うのかは分からなかった。
(茉莉に聞くか‥)
それだけ考えて、城は残りの仕込みに戻った。
◆
午後二時丁度に、勝手口のベルが鳴る。
茉莉が入ってきた。
エプロンをつけながら厨房に入って、カウンターの上のフィナンシェを見た。
一瞬、止まった。
「……城さん焼いたんですか?一人で」
「練習した」
茉莉が眉を上げた。
「一回目は余熱で焦がした。二回目に氷水で鍋を冷やしたら上手くいった」
茉莉がフィナンシェを手に取り割った。
断面を確認して一口食べる。
少しの間、考える顔をした。
「合格……なんですけど」
「が?」
「焦がしバターが少し浅いですね、色が琥珀色で止めましたよね?」
「‥それは正しくないか?」
「惜しいんです」茉莉がもう一口食べた。
「フィナンシェって、バターをもう少し濃い茶色まで焦がした方が香りが深くなるんです。ナッツっぽい風味が出て、それがアーモンドプードルの香りと合わさって複雑になる。今のは綺麗なんですけど、少し大人しい感じなんです」
城は、それをメモした。
「色の基準は」
「ヘーゼルナッツ色、というか」
茉莉が少し考えた。
「……飴色より一段濃い。でも黒になったら駄目。その中間の、香りが一番立つ瞬間で止める」
「香りで判断するのか」
「最後は香りです。目より、鼻の方が正確なんです。ナッツの香りがぶわっと来て、一瞬煙に変わりそうになる手前、みたいな」
城は難しい顔をする。
「……難しい基準だな」
「最初はそうです。でも城さんなら」
茉莉がフィナンシェを皿に並べた。
◆
三回目の挑戦。
茉莉が横に立つ。
城が鍋にバターを入れて、火をつける。
「見てていいですか?」茉莉が言った。
「ああ、好きにしてくれ」
バターが溶ける。泡が立つ。
城が鍋を揺らす。
茉莉が鍋を覗き込む。
城と茉莉の距離が、自然と近くなる。
「色が変わり始めました」
「分かってる」
「焦らなくていいです。香りを嗅いでください」
城が鼻を近づけた。
バターの香りの中に、別の何かが混ざり始めた。深い、温かい匂い。ナッツというより、もっと複雑な何か。
「今、いい匂いがする」
茉莉が少し驚いた顔をした。
「……分かりますか?」
「分かる。これが一段濃くなったら止めるんだな」
「そうです。でももう少し、あと——」
香りが、ぱっと変わった。
焦げる手前の、ぎりぎりの境界線。
「‥今です!」
城が鍋を外した。同時に氷水に当てた。
鍋の底を確認した。
濃い茶色だった。
ヘーゼルナッツ色、と言われれば確かにそうだった。
型に流して、焼いた。
十二分後に取り出した。
茉莉が手に取って一口食べた。
少しの間があった。
「……美味しいです」
「合格」じゃなかった。
城は、その言葉の違いに気づいたが、何も言わなかった。
「香りが全然違います。さっきのより、ずっと複雑で、深い。アーモンドとバターが一緒に来て、後味が長い」
「そうか」
「正直、一回でここまで変わるとは思わなかったです」
「香りで判断しろという意味がやっと分かった」
茉莉がフィナンシェを持ったまま、城を見た。
「……城さんって、嗅覚が良いんですか?」
「仕事柄、鍛えた」
「前の仕事で?」
「そうだ」
茉莉がまた一口食べた。それ以上聞かなかった。
◆
その日の夕方、柚子が来た。
定期的に来るようになって、もう二週間が経っていた。
「城さん! 今日は何か新しいものありますか」
「フィナンシェができた」
「フィナンシェ!!」
柚子が目を輝かせてカウンターに座った。
茉莉がフィナンシェを皿に盛って出した。
「あ、茉莉ちゃんが出してくれるんだ」
「城さんが厨房片付けてるので」
「いつも来るたびに仲良くなってるね、二人」
茉莉が少し眉を動かした。
「……仲良くはないです。師弟関係です」
「どっちが師匠?」
「私がです」
「え!? 年上の城さんに教えてるの!?」
「菓子作りの話ですよ」
「では早速‥」
柚子がフィナンシェを食べた。
「——んん!!」
「美味しですよ! なんかこれ、いつものより香りが深くないですか!?」
「焦がしバターを今日調整した」
「分かるもんなんですね! なんか、温かいナッツの香りがずっとするというか、噛むたびに香りが変わっていく感じがします!」
茉莉が柚子の言葉を聞いて、ノートに何かを書いた。
城が厨房から顔を出した。
「メモしているのか」
「柚子さんの言葉、参考になるので」
「俺へのアドバイスに使うのか」
「そうです」茉莉がノートを閉じた。
「柚子さんの言葉は食べた人の正直な感想だから、私が気づかないことが入ってるんです」
柚子がそれを聞いて、少し照れた顔をした。
「そんな、参考になってる!?」
「なってますよ」茉莉が素直に言った。
「柚子さんの言語化は、結構すごいと思います」
「茉莉ちゃんに褒められた!!」
「……褒めたわけじゃないです。事実です」
◆
閉店後。
柚子が帰って、茉莉が後片付けをしていた。
城がフィナンシェを皿に二つ乗せて、カウンターに置いた。
「食べながらでいい」
「……そうします」
二人で並んでカウンターに座った。
茉莉がフィナンシェを食べた。
城もコーヒーを飲む。
しばらく、静かだった。
「城さん」
「なんだ」
「一つ聞いていいですか?」
「内容による」
茉莉が少し考えた。
「……焦がしバターを止めるタイミング、最初から香りで分かったんですか」
「まあ、教えてもらってからはすぐ分かった」
「一回で覚えたんですね」
「メモがあったからだ」
「でも香りはメモできないじゃないですか」
城は少し考えた。
「体に覚えさせた。一回嗅いだら忘れない」
茉莉がそれを聞いて、黙った。
「……城さんって、そういうところが普通じゃないですよね」
「そうか?」
「一回で体に覚えさせる、って普通の人は言わないです」
「茉莉の教え方がいいから覚えられる」
また静かになった。
茉莉がフィナンシェの最後のひとかけらを口に入れた。
ゆっくりと噛んで、飲み込んで、手のひらをエプロンで拭いた。
「城さん」
「なんだ」
「今日のフィナンシェ、本当に美味しかったです」
合格、じゃなかった。
城はそれを、静かに受け取った。
「……ありがとう」
「お礼は言わなくていいです」茉莉が立ち上がった。
「当たり前のことを言っただけなので」
「当たり前ではない」
「……っ、そ、そういうことをさらっと言わないでくださいよ」
茉莉がエプロンを外してリュックに押し込んだ。いつもより少し早かった。
「次は何を教えるか、考えておきますね」
「分かった」
「じゃあ帰ります」
「ああ、気をつけて帰れ」
茉莉が、勝手口に向かいながら足を止めた。
振り返らずに言う。
「……城さんも休んでくださいね、体調が」
扉が閉まった。
城は、カウンターに残ったフィナンシェを見た。
一つ、手に取って一口食べた。
香りが、長く続いた。
父のレシピノートを開いた。
フィナンシェのページを探した。
几帳面な字で材料と手順が書いてある。
城はその横に、今日の日付と一言書き添えた。
「三回目で美味しいと言ってもらえた。」
それだけで、十分だった。




