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S級暗殺者、パティシエになる ースイーツのスの字も知らない男の奮闘記ー  作者: 仁科異邦


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8/16

定休日と進路と帰り道

 パティスリー「シロ」の定休日は、水曜日だ。


 城がそう決めたのに、特に深い理由はない。

父のレシピノートの最後のページに「定休日 水」と書いてあったので、そのままにした。


父がなぜ水曜を選んだのかは分からない。今となっては聞けない。

 水曜の朝、城は久しぶりに私服で家を出た。


 エプロンではなく、紺のジャケット。

 靴は革靴。鏡を見て、少しだけ人間らしく見えると思った。

 目的は買い物だ。

 厨房の消耗品が切れかけている。

 ラップ、クッキングシート、タルトストーン。

 それと父のレシピノートに出てきた

 「バニラビーンズ」というものを、近くのスーパーでは見かけなかったので、少し大きな製菓材料の店まで足を延ばすことにした。


 最寄り駅から電車で二十分。

 久しぶりの繁華街は、少しだけ騒がしかった。

 城は人混みの中を歩きながら、自分が二十年間この種の場所をどう歩いていたかを思い出した。

 常に出口を確認する。

 死角を把握する。不審な動きに備える。

 習慣というのは恐ろしい。

 エプロンを外しても、目だけはまだ現役だった。

 (バニラビーンズを買いに来ただけだ。落ち着け)

 製菓材料の店を見つけて、入った。

 材料が棚一面に並んでいる。

 バニラビーンズを探しながら、城は父がこういう店に来ていたのだろうかと思った。


 たぶん、来ていた。

 同じ棚の前に立って、同じように商品を選んでいた。

 城は一番状態の良さそうなバニラビーンズを選んで、レジに向かった。


 用事は三十分で終わった。

 帰りの電車まで少し時間があった。

 城はアーケード街をぶらぶらと歩いた。

 特に目的はなかったが、なんとなく急ぐ気になれなかった。

 ケーキ屋の前で足が止まった。

 ショーケースの中に、タルトが並んでいる。


城が先週作ったものとは比べ物にならない、整然とした美しさだった。

 城はしばらくそれを見て店に入る。

 タルトを一つ買い、外のベンチで食べた。

 一口かじって、少し考えた。

 (……美味い。俺のとは全然違う。生地の歯触り、クリームの軽さ、全部が一段上だ)

 悔しいとは思わなかった。


 ただ、次に茉莉が来た時にこれを見せて意見を聞いてみようと思った。

 食べ終わって、包み紙を畳んで、城は立ち上がった。



 同じ頃。

 城のいる繁華街から、電車で十五分。

 桐島茉莉は、製菓専門学校の個室面談室にいた。


 向かいに座っているのは、担任の瀬尾先生だ。五十代の女性で、現役時代は有名ホテルのパティシエだったという。

 業界に顔が広く、進路指導になると目の色が変わる。

 茉莉の前に、書類が一枚ある。

 進路希望調査票。

 茉莉の名前の横の「希望就職先」の欄は、まだ空白だった。


「桐島さん、あなたに正直に言います」

 瀬尾先生が書類を見ながら言った。

「うちの学校で、あなたほどの生徒は十年に一人出るかどうかです。技術もセンスも、同期と比べて頭ひとつ以上抜けている」


「……ありがとうございます」

「お世辞じゃありません。だからこそ、進路をちゃんと考えてほしいんです」

 瀬尾先生がファイルを開いた。


「東京の有名店に推薦状を書けます。グランメゾン系のパティスリーがいくつか、うちへの推薦枠を持っています。正直、今年のうちの生徒でその枠を埋められるのは、あなただけだと思っている」


 茉莉は、書類を見ていた。

「下積みは長いです。最初の三年は雑用が多い。でも、そこを乗り越えれば必ずキャリアになる。三十代には自分の名前が業界に出る。そういう道が、あなたには開けていると思っています」

 瀬尾先生が茉莉を見た。

「どう思いますか?」


 茉莉は、少し黙っていた。

 瀬尾先生の言葉は、全部本当のことだと思った。

 嬉しかった。

 認めてもらえることは、嬉しかった。

 (……でも)


 脳裏に、海辺の小さな店が浮かんだ。

 白い外壁。木の看板。砂糖とバターの匂い。

 無口な男が、

 厨房で真剣な顔をして卵を溶いている。

 失敗しても、諦めずに黙って挑戦する。

 (あの人は、まだ全然できない。マドレーヌのバターの量も安定しないし、カラメルはまだ目を離す。タルトはだって回失敗した。次のフィナンシェだって、絶対に失敗するよね、だから私がいないと、たぶん駄目だ)


 そう思って、すぐに気づいた。

 (……それは、言い訳だ)

 城は私がいなくても、いつか一人でやっていける。失敗してまた試して、それを繰り返せる人間だ。


 分かっている。

 それでも。

 (もう少しだけ、あの店にいたい)

 それだけだった。

 理由を飾っても仕方がない。ただ、そうしたかった。


「先生」

 茉莉は顔を上げた。

「私、地元の洋菓子店に就職しようと思います」

 瀬尾先生が、静かに眉を上げた。

「……理由を聞いていいですか?」


「今、指導させてもらっているパティシエがいます。その人がまだ一人立ちできていないので、卒業まで近くにいたい。それと、地元のお店もずっと見てみたいと思っていたので」


「指導、というのは?」

「開店したばかりの小さなお店のオーナーです。菓子作りを最初から教えています」

 瀬尾先生が少しの間、茉莉を見た。


「……それは、プロとしての指導ですか」

「そうです。ちゃんとしたパティシエになってもらわないといけないので」

 茉莉は真顔で言った。

 瀬尾先生が、ため息をついた。でも怒った顔ではなかった。


「……卒業まで、まだ時間があります。もう少し考えてみてください」

「考えた上でそう思っています」

「そうですか‥」


先生がファイルを閉じた。

「……あなたが決めたことなら、私は応援します。ただ、気が変わったらいつでも言いに来てくださいね」

「はい」


「ちなみに地元の洋菓子店というのは、どこですか」

 茉莉は少し考えた。

「……まだ、決めていません」

 嘘ではなかった。


 正確には「決めていない」と「なんとなく決まっている」の中間くらいだった。



 面談が終わった。

 茉莉は荷物を持って、校舎を出た。

 空が夕焼けに染まっている。


 駅までの商店街を歩きながら、茉莉は考え事をしていた。

 先生の言葉は正しい。

 有名店への推薦は、業界では滅多にない機会だ。

 それを断るのは、客観的に見れば愚かな選択かもしれない。

 でも。

 (私は……城さんのプリンが「合格」から「美味しい」になる瞬間を、見たい)

 それだけだった。

 すごく単純な話だった。


 単純すぎて、少し恥ずかしかった。

 茉莉が顔を伏せてぼーっと歩いていた、その時。


 どん、と。

 誰かにぶつかった。



「っ……すみません、前見てなくて」

 顔を上げた。

 大柄な男が三人、立っていた。

 派手な服。首に太いチェーン。

 茉莉を見下ろす目が、最初から値踏みするような色をしていた。


「あー? ぶつかっといて、それだけ?」

 茉莉の背中が、すっと冷えた。

「……ごめんなさい。急いでいまして」

「急いでる? 俺たちに謝っておいて急いでるって、どういうこと?」


 男が一歩前に出た。

 茉莉が一歩下がった。

 商店街の人通りは多くない。

 夕方の中途半端な時間で、周りに人がいても見て見ぬふりをしていた。


「ちょっと話しようよ。そんな急がなくていいじゃん」

「話すことは何もないです」

「あるよ。慰謝料の話とかさぁ」

 男たちが笑った。

 茉莉はリュックを握った。

 逃げるか、と考えた。三人いる。

 荷物もあるし、速く走れる状況ではない。

 (まずい、どうしよう‥)

 男が手を伸ばした、その瞬間——


「その手、止めろ」

低い声が、した。


 全員が振り返った。

 商店街の端。

 紺のジャケットの男が立っていた。

 白い袋を片手に持っている。

 製菓材料の店の袋だった。

 茉莉が目を見開いた。


「…………城、さん」


 男たちが城を見た。

 一人が鼻で笑った。

「あ? なんだおまえ」

 城は何も言わなかった。

 男が近づいてくる。

 仲間の二人がそれに続く。城との距離が縮まる。

 (逃げて!って言いたいのに声が出ない)


 次の瞬間、何が起きたのか茉莉にはよく分からなかった。

 そう、気づいた時には。

 先頭の男が地面に膝をついていた。

 手首を後ろに極められたまま、一ミリも動けない顔をしている。

 二人目が飛びかかろうとして、腕を掴まれて壁に押しつけられていた。


 三人目が逃げようとして、一歩も動けずに固まっていた。

 城は特に急いだ様子もなく、

 特に乱暴でもなく、ただ静かに動く。

 袋は、床に置いてあった。


 地面の男を見下ろして、城が言った。

「失せろ」


 一言だった。

 三人がは振り返る事なく足音を立てて走り去った。


 商店街に、静けさが戻った。

 城が袋を拾い上げた。

 茉莉を見た。


「茉莉、怪我はないか?」

 茉莉は、少しの間、何も言えなかった。

「……ない、です」

「そうか」


 城が歩き出した。

「駅、こっちだろう」


 二人は並んで歩いた。

 茉莉が一歩遅れる形で、城の少し後ろを歩いている。

 会話はなかった。

 商店街を抜けて、駅前の広場に出た。

 夕焼けが建物の間から見えた。潮の匂いが、

 ここまで届いていた。


 茉莉はずっと俯いていた。

 考えていた。

 さっきの城のことを。

 前に「言えない仕事」と言ったことと、アルバという同僚のことと。


 全部がひとつに繋がって、でもそれを聞く気には、なれなかった。

 駅の改札が見えてきた頃、茉莉は足を止めた。

 城も止まった。振り返る。


「……城さん」

「なんだ」

 茉莉は下を向いたまま、少しの間黙っていた。

 それから、ぽつりと言った。

「……ありがとう、ございました」

 城は何も言わなかった。


 風が吹いた。茉莉の髪が揺れた。

 城がしばらく茉莉を見て、静かに言った。

「一人で帰れるか?」

「……大丈夫です、帰れます」


「そうか」

 城が歩き出す。茉莉もその隣に並んだ。

 今度は、一歩遅れなかった。


 改札で、二人は別々の路線に分かれた。

 茉莉が定期を出しながら、横を向いた。


「次、フィナンシェ教えますから」

「分かった」

「絶対失敗しますけど、ちゃんとメモ取ってくださいね!」

「言われなくてもそうする」

 茉莉がかすかに笑った。

 さっきの顔とは全然違う、柔らかい顔だった。


「……じゃあ、また明日」

「ああ」


 茉莉が改札を抜けた。

 城は、その背中が見えなくなるまで、そこに立っていた。

 特に理由はなかった。

 ただ、なんとなく、そうした。


「さて帰るか‥あっ」

 (製菓材料の袋が、少し潰れた)

 中身を確認して安堵する。

 中のバニラビーンズは無事だった。


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