定休日と進路と帰り道
パティスリー「シロ」の定休日は、水曜日だ。
城がそう決めたのに、特に深い理由はない。
父のレシピノートの最後のページに「定休日 水」と書いてあったので、そのままにした。
父がなぜ水曜を選んだのかは分からない。今となっては聞けない。
水曜の朝、城は久しぶりに私服で家を出た。
エプロンではなく、紺のジャケット。
靴は革靴。鏡を見て、少しだけ人間らしく見えると思った。
目的は買い物だ。
厨房の消耗品が切れかけている。
ラップ、クッキングシート、タルトストーン。
それと父のレシピノートに出てきた
「バニラビーンズ」というものを、近くのスーパーでは見かけなかったので、少し大きな製菓材料の店まで足を延ばすことにした。
最寄り駅から電車で二十分。
久しぶりの繁華街は、少しだけ騒がしかった。
城は人混みの中を歩きながら、自分が二十年間この種の場所をどう歩いていたかを思い出した。
常に出口を確認する。
死角を把握する。不審な動きに備える。
習慣というのは恐ろしい。
エプロンを外しても、目だけはまだ現役だった。
(バニラビーンズを買いに来ただけだ。落ち着け)
製菓材料の店を見つけて、入った。
材料が棚一面に並んでいる。
バニラビーンズを探しながら、城は父がこういう店に来ていたのだろうかと思った。
たぶん、来ていた。
同じ棚の前に立って、同じように商品を選んでいた。
城は一番状態の良さそうなバニラビーンズを選んで、レジに向かった。
用事は三十分で終わった。
帰りの電車まで少し時間があった。
城はアーケード街をぶらぶらと歩いた。
特に目的はなかったが、なんとなく急ぐ気になれなかった。
ケーキ屋の前で足が止まった。
ショーケースの中に、タルトが並んでいる。
城が先週作ったものとは比べ物にならない、整然とした美しさだった。
城はしばらくそれを見て店に入る。
タルトを一つ買い、外のベンチで食べた。
一口かじって、少し考えた。
(……美味い。俺のとは全然違う。生地の歯触り、クリームの軽さ、全部が一段上だ)
悔しいとは思わなかった。
ただ、次に茉莉が来た時にこれを見せて意見を聞いてみようと思った。
食べ終わって、包み紙を畳んで、城は立ち上がった。
◆
同じ頃。
城のいる繁華街から、電車で十五分。
桐島茉莉は、製菓専門学校の個室面談室にいた。
向かいに座っているのは、担任の瀬尾先生だ。五十代の女性で、現役時代は有名ホテルのパティシエだったという。
業界に顔が広く、進路指導になると目の色が変わる。
茉莉の前に、書類が一枚ある。
進路希望調査票。
茉莉の名前の横の「希望就職先」の欄は、まだ空白だった。
「桐島さん、あなたに正直に言います」
瀬尾先生が書類を見ながら言った。
「うちの学校で、あなたほどの生徒は十年に一人出るかどうかです。技術もセンスも、同期と比べて頭ひとつ以上抜けている」
「……ありがとうございます」
「お世辞じゃありません。だからこそ、進路をちゃんと考えてほしいんです」
瀬尾先生がファイルを開いた。
「東京の有名店に推薦状を書けます。グランメゾン系のパティスリーがいくつか、うちへの推薦枠を持っています。正直、今年のうちの生徒でその枠を埋められるのは、あなただけだと思っている」
茉莉は、書類を見ていた。
「下積みは長いです。最初の三年は雑用が多い。でも、そこを乗り越えれば必ずキャリアになる。三十代には自分の名前が業界に出る。そういう道が、あなたには開けていると思っています」
瀬尾先生が茉莉を見た。
「どう思いますか?」
茉莉は、少し黙っていた。
瀬尾先生の言葉は、全部本当のことだと思った。
嬉しかった。
認めてもらえることは、嬉しかった。
(……でも)
脳裏に、海辺の小さな店が浮かんだ。
白い外壁。木の看板。砂糖とバターの匂い。
無口な男が、
厨房で真剣な顔をして卵を溶いている。
失敗しても、諦めずに黙って挑戦する。
(あの人は、まだ全然できない。マドレーヌのバターの量も安定しないし、カラメルはまだ目を離す。タルトはだって回失敗した。次のフィナンシェだって、絶対に失敗するよね、だから私がいないと、たぶん駄目だ)
そう思って、すぐに気づいた。
(……それは、言い訳だ)
城は私がいなくても、いつか一人でやっていける。失敗してまた試して、それを繰り返せる人間だ。
分かっている。
それでも。
(もう少しだけ、あの店にいたい)
それだけだった。
理由を飾っても仕方がない。ただ、そうしたかった。
「先生」
茉莉は顔を上げた。
「私、地元の洋菓子店に就職しようと思います」
瀬尾先生が、静かに眉を上げた。
「……理由を聞いていいですか?」
「今、指導させてもらっているパティシエがいます。その人がまだ一人立ちできていないので、卒業まで近くにいたい。それと、地元のお店もずっと見てみたいと思っていたので」
「指導、というのは?」
「開店したばかりの小さなお店のオーナーです。菓子作りを最初から教えています」
瀬尾先生が少しの間、茉莉を見た。
「……それは、プロとしての指導ですか」
「そうです。ちゃんとしたパティシエになってもらわないといけないので」
茉莉は真顔で言った。
瀬尾先生が、ため息をついた。でも怒った顔ではなかった。
「……卒業まで、まだ時間があります。もう少し考えてみてください」
「考えた上でそう思っています」
「そうですか‥」
先生がファイルを閉じた。
「……あなたが決めたことなら、私は応援します。ただ、気が変わったらいつでも言いに来てくださいね」
「はい」
「ちなみに地元の洋菓子店というのは、どこですか」
茉莉は少し考えた。
「……まだ、決めていません」
嘘ではなかった。
正確には「決めていない」と「なんとなく決まっている」の中間くらいだった。
◆
面談が終わった。
茉莉は荷物を持って、校舎を出た。
空が夕焼けに染まっている。
駅までの商店街を歩きながら、茉莉は考え事をしていた。
先生の言葉は正しい。
有名店への推薦は、業界では滅多にない機会だ。
それを断るのは、客観的に見れば愚かな選択かもしれない。
でも。
(私は……城さんのプリンが「合格」から「美味しい」になる瞬間を、見たい)
それだけだった。
すごく単純な話だった。
単純すぎて、少し恥ずかしかった。
茉莉が顔を伏せてぼーっと歩いていた、その時。
どん、と。
誰かにぶつかった。
◆
「っ……すみません、前見てなくて」
顔を上げた。
大柄な男が三人、立っていた。
派手な服。首に太いチェーン。
茉莉を見下ろす目が、最初から値踏みするような色をしていた。
「あー? ぶつかっといて、それだけ?」
茉莉の背中が、すっと冷えた。
「……ごめんなさい。急いでいまして」
「急いでる? 俺たちに謝っておいて急いでるって、どういうこと?」
男が一歩前に出た。
茉莉が一歩下がった。
商店街の人通りは多くない。
夕方の中途半端な時間で、周りに人がいても見て見ぬふりをしていた。
「ちょっと話しようよ。そんな急がなくていいじゃん」
「話すことは何もないです」
「あるよ。慰謝料の話とかさぁ」
男たちが笑った。
茉莉はリュックを握った。
逃げるか、と考えた。三人いる。
荷物もあるし、速く走れる状況ではない。
(まずい、どうしよう‥)
男が手を伸ばした、その瞬間——
「その手、止めろ」
低い声が、した。
全員が振り返った。
商店街の端。
紺のジャケットの男が立っていた。
白い袋を片手に持っている。
製菓材料の店の袋だった。
茉莉が目を見開いた。
「…………城、さん」
男たちが城を見た。
一人が鼻で笑った。
「あ? なんだおまえ」
城は何も言わなかった。
男が近づいてくる。
仲間の二人がそれに続く。城との距離が縮まる。
(逃げて!って言いたいのに声が出ない)
次の瞬間、何が起きたのか茉莉にはよく分からなかった。
そう、気づいた時には。
先頭の男が地面に膝をついていた。
手首を後ろに極められたまま、一ミリも動けない顔をしている。
二人目が飛びかかろうとして、腕を掴まれて壁に押しつけられていた。
三人目が逃げようとして、一歩も動けずに固まっていた。
城は特に急いだ様子もなく、
特に乱暴でもなく、ただ静かに動く。
袋は、床に置いてあった。
地面の男を見下ろして、城が言った。
「失せろ」
一言だった。
三人がは振り返る事なく足音を立てて走り去った。
商店街に、静けさが戻った。
城が袋を拾い上げた。
茉莉を見た。
「茉莉、怪我はないか?」
茉莉は、少しの間、何も言えなかった。
「……ない、です」
「そうか」
城が歩き出した。
「駅、こっちだろう」
二人は並んで歩いた。
茉莉が一歩遅れる形で、城の少し後ろを歩いている。
会話はなかった。
商店街を抜けて、駅前の広場に出た。
夕焼けが建物の間から見えた。潮の匂いが、
ここまで届いていた。
茉莉はずっと俯いていた。
考えていた。
さっきの城のことを。
前に「言えない仕事」と言ったことと、アルバという同僚のことと。
全部がひとつに繋がって、でもそれを聞く気には、なれなかった。
駅の改札が見えてきた頃、茉莉は足を止めた。
城も止まった。振り返る。
「……城さん」
「なんだ」
茉莉は下を向いたまま、少しの間黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……ありがとう、ございました」
城は何も言わなかった。
風が吹いた。茉莉の髪が揺れた。
城がしばらく茉莉を見て、静かに言った。
「一人で帰れるか?」
「……大丈夫です、帰れます」
「そうか」
城が歩き出す。茉莉もその隣に並んだ。
今度は、一歩遅れなかった。
改札で、二人は別々の路線に分かれた。
茉莉が定期を出しながら、横を向いた。
「次、フィナンシェ教えますから」
「分かった」
「絶対失敗しますけど、ちゃんとメモ取ってくださいね!」
「言われなくてもそうする」
茉莉がかすかに笑った。
さっきの顔とは全然違う、柔らかい顔だった。
「……じゃあ、また明日」
「ああ」
茉莉が改札を抜けた。
城は、その背中が見えなくなるまで、そこに立っていた。
特に理由はなかった。
ただ、なんとなく、そうした。
「さて帰るか‥あっ」
(製菓材料の袋が、少し潰れた)
中身を確認して安堵する。
中のバニラビーンズは無事だった。




