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S級暗殺者、パティシエになる ースイーツのスの字も知らない男の奮闘記ー  作者: 仁科異邦


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パティスリー「シロ」開店

 開店まで、三ヶ月かかった。

 その間に城がやったことを列挙する。


 まず父のレシピノートを全ページ読んだ。

 プリン、クレームブリュレ、マドレーヌ、フィナンシェ、タルト、ガトーショコラ——二十三品目が几帳面な字で並んでいた。


 読んだだけで作り方が分かるとは思っていない。

 ただ、まず全体像を把握することにした。

 前職の習慣だった。

 次に厨房の設備を確認した。

 父のオーブンは古いが現役だった。

 冷蔵庫も動いている。足りないものをリストアップして、最低限だけ買い揃えた。


 茉莉が週に三回来た。

 「一回だけ」とは何だったのかは聞かなかった。

 聞いたら本当に来なくなりそうだったので。


 茉莉の指導のもと、城が作れるようになったものは次の通り。


 1.プリン

 2.マドレーヌ

 3.ガトーショコラ

 この三品だ。


 茉莉の評価は毎回「合格」か「もう一回」の二択で、「すごい」とか「美味しい」とかは滅多に言わない。

 言ったとしても、すぐに「別にそんな大したことじゃないですけど」と付け加える。

 城はその採点基準を「厳しいな」と思っていた。


 後になって柚子に「茉莉ちゃんって城さんのスイーツだけ合格出すの遅いよね」と言われるのだが、この時点ではまだ城には意味が分からなかった。


 開店一週間前、城は看板を注文した。

 白い木の板に、黒い文字。

 Pâtisserie 「シロ」

 父と同じ名前にした。特に迷わなかった。



 開店当日。

 朝六時に起きて、仕込みを始めた。

 プリンを十二個。マドレーヌを十六個。

 ガトーショコラを二ホール分。


 これが今日の全ラインナップだった。

 茉莉に言ったら「少なすぎます」と言われた。


 城が「これしか作れない」と答えたら「

 ……まあ、最初だから仕方ないですね」と言われた。

 九時に扉を開け開店した。

 ‥誰も来なかった。


 十時。

 もちろん誰も来なかった。

 城は厨房の椅子に座って、コーヒーを飲んでいた。

 (まあ、そうだろう)


 宣伝は何もしていない。

 SNSというものを持っていない。

 看板を出しただけだ。

 依頼を待っていれば仕事が来ていた前職とは、構造が根本的に違う。

 (客というのは、こちらから取りに行くものか。……勉強になる)


 ただ、どうやって取りに行けばいいのかは、今のところ分からなかった。


 十一時。

 扉のガラス越しに、人影が止まった。

 城が顔を上げる。

 外に、若い女性が立っていた。


 ジョギングウェアに、肩にかけたカメラバッグ。

 明るい茶色の髪が風に揺れている。

 ショーケースのプリンをじっと見て、看板を見て、また中を覗いて。

 ふと、城と目が合った。

 女性がぺこりと頭を下げた。


 城も小さく頷く。

 店の扉が開いた。



「す、すみません、今開いてますか?」

「開いている」

「やった!」

 女性が入ってきた。

 店内をぐるりと見回す。

 ショーケースを見る。プリンを見る。マドレーヌを見る。ガトーショコラを見る。

 その目が、じわじわと輝いていく。

 城はそれを、黙って観察していた。

 (ターゲットは食に対して、純粋な反応をする人間だな)


「あの‥全部食べていいですか?」

「全部?」

「あ、一個ずつ、という意味で! 全種類という意味で!」

 城は少し考えた。


「構わないぞ」

「やった!」

 女性がカウンター席に座った。バッグからノートとペンを取り出す。準備がいい。


「プリンから食べていいですか」

「ああ、好きにしてくれ」

 城がプリンを皿に盛る。カラメルを少し足して、出す。

 女性がスプーンを手に取る。一口食べる。


 「——んん!!」


 城が少し眉を上げた。

「んん、って何だ?」

「んん、は感嘆詞です! 美味しいって意味です!」

「非常に分かりにくいな」

「でも本当に美味しいんですよ!」

 女性がノートに何か書き始める。


「えっと、プリンなんですけど、卵の風味がしっかりしてて、カラメルの苦みとのバランスが……なんか、素直な味なんですよね。変な主張がない。でもちゃんと美味しい」

 城は、その言葉を静かに聞いていた。

 (素直な味)


 茉莉は「合格」と言った。

 この人は「素直な味」と言った。

 同じことを別の言葉で言っている気がした。


「次にマドレーヌも食べていいですか?」

「どうぞ」

 女性がマドレーヌを手に取る。一口かじる。

 少し、考える顔をした。

「……美味しいんですがちょっと、バターが重いかな。しっとり感はすごくいいんですけど、後味が少しだけ、もたれる感じがします」


 城がノートに目を落とした。正確な言語化だった。自分では気づいていなかった部分だった。

「……正直に言うんだな」

「あ、嫌でしたか!?」


「いや」城は首を振った。「助かる」

 女性がほっとした顔になった。

「よかった。あの、なんか嬉しいこと言ってもらえるの待ってる人には言えないんですよね。美味しいのに美味しいしか言えないの、もったいないじゃないですか」


 城は、少し面白いと思った。

「君、名前は?」

「あ! 朝霧柚子といいます。フードライターをやってて、湘南エリアのお店を紹介するブログを書いてるんです。

あの、もしよければ記事にさせてもらっていいですか?」

「‥記事?」

「はい! 写真も撮っていいですか?」

 城は少し考えた。


「どんな記事になる?」

「えっとですね」柚子がノートを見る。

「『謎のパティシエがひっそり開いた、海辺の小さなお店』みたいな感じで……あ、嫌ですか」

「謎のパティシエ」


「オーラがあるんですよ! 良い意味で! なんか、普通のパティシエじゃないというか」

 城は答えなかった。

 柚子が慌てて付け足す。


「あ、職歴とか聞きません! 書きません! スイーツのことだけ書きます!」

「……好きにしてくれ」

「やった!」



 柚子が帰った後、城は一人になった。

 ショーケースを見る。

 プリンが三個減った。マドレーヌが二個減った。ガトーショコラが一切れ減った。

 今日の売り上げ、一日目の全てだった。

 城はそれを、手帳に書き留めた。


 夜。

 携帯に通知が来た。

 知らないアカウントからのリンクだった。

 開くと、ブログの記事が表示された。


【湘南】謎のオーラを持つパティシエ発見。海辺の隠れ家パティスリー「シロ」に行ってきた

正直に言います。

最初は通りすがっただけでした。

でも看板を見て、なんとなく足が止まって、中を覗いたら、すごく静かな人がいて。

食べたら、美味しかった。

素直な美味しさというか、変な主張がないのに、ちゃんと心に残るんです。

プリンが特に好きでした。 上手くはないけど、何かあるお店です。 また来ます。


 城は、画面を閉じた。

 上手くはないけど、何かある。

 正直な評価だ、と思った。

 怒る気にはなれなかった。むしろ——

 (次に来た時には、もう少し上手くなっていたい)

 生まれて初めて、そういうことを思った。



 翌日。

 午前十時、店の扉が開く。

 若い女性二人組の(ターゲット)が入ってきた。

「ここ、昨日ブログに出てたとこだよね」

「そうそう。プリン食べたい」

 城はショーケースの前に立った。


「いらっしゃいませ」

 二人が少し驚いた顔をした。

 背が高くて、無口で、どこかただならぬ空気を持つ男が静かに立っている。

「……ぷ、プリン、ください」

「二つか?」

「は、はい」

 城がプリンを二皿用意した。

 二人がテーブルに座って食べる。


「あっ、美味しい」

「ね、なんか……美味しいね」

 小さな声だったが、城の耳には届いた。


 昼前に、また(ターゲット)が来た。

 夕方にも来た。

 閉店時刻の六時、ショーケースは空になっていた。


 城は厨房の椅子に座って、手帳を開いた。

 今日の数字を書く。

 少し、考えた。

 父がここに立って、毎日これをやっていたのだ。

 菓子を作って、客に出して、「美味しい」という顔を見て。

 10年間、城がやってきたことと、何もかもが違う。

 なのに。

 (悪くない)

 なぜかそう思った。


 その夜、茉莉から短いメッセージが来た。

「ブログ見ました。上手くはないけど、って書いてありましたね」


 城は少し考えてから返信した。

「正しい評価だ」

 しばらくして、返信が来た。


「……次来た時はもう少し上手くなっててください。じゃないと私の指導が恥ずかしいので」


 城は、それを読んで、かすかに口の端が上がった。

 自分でも気づかないほどの、ほんの少しだった。


 潮風が、窓を叩いた。

 こうしてパティスリー「シロ」の、最初の二日間が終わった。


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