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S級暗殺者、パティシエになる ースイーツのスの字も知らない男の奮闘記ー  作者: 仁科異邦


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3/16

お菓子作りは行間を読むべし


「……なんか、焦げ臭いですね」

 勝手口から、声がした。


 扉を開けると、少女が立っていた。

 茶色の髪を一つにまとめて、私服の上に白いエプロンをかけている。

 リュックを背負って、腕を組んで、城を見上げていた。

 その顔に、見覚えがあった。


「……照の、妹か」

「そうです」

 少女——桐島茉莉は、むすっとした顔でそう答えた。


「桐島茉莉です。十九歳。製菓専門学校に通ってます。お兄ちゃんから、城さんが困ってるって聞いて」


 城は厨房を振り返った。

 カラメルの鍋が二つ、流しに沈んでいる。

 穴だらけのプリンが台の上にある。


「……見ての通りだ」

「見ての通りですね」

 茉莉がつかつかと上がり込んでくる。

 城が止める間もなかった。

 厨房に入り、惨状を一通り確認して、茉莉は城を見た。


「何回やったんですか」

「三回」

「何がうまくいかなかったか、分かりますか?」

「全部だ、全部分からん」

 茉莉は一瞬、目を丸くした。それからため息をついた。


「……別に、城さんのせいじゃないと思いますけど」

「どういうことだ」

「座ってください。説明しますね」

 城は素直に丸椅子に腰を下ろした。

 茉莉はリュックから小さなノートを取り出した。



「まず、プリンが固まらなかった件ですが」

 茉莉がレシピノートを指差す。

「『卵を溶く』って書いてあったとき、どうしましたか」


「泡立て器でしっかり混ぜた。均一になるまで」

「どのくらい?」

「二分ほど。空気が入るまで」

 茉莉が目を閉じた。何かをこらえているような間があった。


「……それが原因です」

「空気が問題だったのか」

「プリンの卵液って、空気を入れちゃいけないんですよ、気泡が入ったまま蒸すと、中に穴が開く。だから『溶く』はあくまで『ほぐす』っていう意味で、泡立てたら駄目なんですよ」


 城は、少し考えた。

「レシピには書いていなかった」

「書いてないのが普通なんです」

 茉莉がノートにさらさらと書きながら続ける。


「お菓子のレシピって、ある程度作ったことがある人が読む前提で書かれてることが多くて。当たり前すぎることは省かれてるんです。

だから城さんみたいに初めての人が読むと、行間が全部抜け落ちた状態になっちゃう」


「そうだったのか‥」

俺は二十年、依頼書の行間を読んで生きてきた。書かれていないことを読み取ることが仕事だった。なのに、菓子のレシピ一枚の行間が読めなかった。

(……なるほど。これは、俺がまだルールを知らない世界だということだ)


「次、カラメルです」

 茉莉が続ける。


「強火にしましたね」

「弱火では時間がかかる。論理的に考えて——」


「砂糖は焦げるのが早いんです。弱火でじっくりやっても、一瞬で黒くなる。だから弱火でゆっくり、目を離さずに、なんです。強火にしたら一瞬で終わりです」


「……目を離さずに、か」

「色が変わり始めてから、鍋を揺すって均一にしながら止めどきを見極めるのが大事なんです。これは数字じゃなくて、目と経験なので」


 城は黙って聞いていた。

 茉莉の説明は無駄がなかった。

 余計なことを言わず、原因と対策だけを話す。

 教えることに慣れているのが分かった。

「最後、三回目の“す“入りです」


「プリン液を温めてから型に注いだ。固まりやすくなると思ったが」

「逆効果です」

卵液を高温にしすぎると、型に注ぐ前に卵が固まりかけて、蒸したときにぼこぼこになるんです。プリン液は人肌より少し温かいくらいで使うのがいい。あと」


 茉莉がレシピノートの一行を指でなぞる。

「『漉す』の意味、ちゃんとやりましたか」

「もちろんザルで濾した」

「網目の細かいザルですか」


「……網目?ラーメンとかを湯切る普通のザルだが‥」

 茉莉がまたため息をついた。今度は少し大きかった。


「漉すのはね、卵の白いひも状のやつ——カラザっていうんですけど、それを取り除くためなんです。残ってると食感が悪くなる。目の細かいストレーナーか、なければキッチンペーパーで漉すんです」


「……書いていなかった」

「書いていなかったですね」

 二人の間に、少しの沈黙が落ちた。

 茉莉がノートを閉じる。


「まとめると、城さんは全部レシピ通りにやろうとしたのに、書いてある言葉の意味を違う意味で受け取っちゃってたんです。城さんのせいじゃないです。説明不足なレシピが悪い」


 城は、その言葉を聞いて少し目を細めた。

「……フォローか、すまんな」

「違います。本当のことです」

 茉莉がぷいと横を向く。耳が少し赤かった。


「も、もう一回やってみますか。今度は私が横についてます。別にいいですけど、一回だけですよ」



 四回目の挑戦。

 茉莉が横に立ち、城が手を動かす。

「卵を割って。泡立てないように、の字を書くようにほぐしてください」

 城が卵をそっと溶く。静かに、丁寧に。


「……そうです。それでいいです」

「砂糖を加えて、同じように混ぜます。白っぽくなったら大丈夫です」

「牛乳は六十度くらいに温めて——温度計使ってください、棚の右から二番目にあるはずです」


 城が棚を探す。父の温度計。目盛りが少し薄くなっている。

「……あった」

「牛乳が温まったら、少しずつ。一気に入れると卵が固まります。混ぜながら足していってください」


 城が牛乳をゆっくり加える。

 茉莉が覗き込む。

「それでいいです。次、漉します。キッチンペーパー、持ってきました」

 茉莉がリュックから取り出す。


「持ってきたのか」

「……準備してきただけです。別に気を遣ったわけじゃないです」

 城は何も言わなかった。

 ゆっくりと漉したプリン液を型に注ぐ。

 透き通った黄色い液体が、静かに流れ込んでいく。

「カラメルは、私がやります。初日に覚えることが多すぎますからね」


 茉莉が鍋に砂糖と水を入れ、コンロの前に立った。

 弱火。じっと待つ。鍋を時折揺らす。

 砂糖が溶け、透明になり、やがてうっすらと色がつき始める。

 茉莉の目が、鍋から離れない。


「……今」

 鍋を外して型に注ぐ。

 流れ込むカラメルは綺麗な琥珀色だった。

「あとは蒸します。天板に型を並べて、お湯を張って、百六十度のオーブンで三十五分」


 城が指示通りにやってオーブンの扉を閉める。

 二人は並んでオーブンを見ていた。

 茉莉が腕を組んで、目を細めている。

 城はまっすぐオーブンを見ている。


「……城さんって、昔から静かな人でしたよね」

「そうか」

「お兄ちゃんの友達の中で、一番無口でした」

「迷惑だったか?」

「……そんなこと言ってないです」

 また沈黙。今度は悪くない種類の沈黙だった。


「城さん、なんで急にパティシエになろうと思ったんですか」

 城は少し考えた。

「あーうん、親父に頼まれたから」

「……それだけで?」

「それだけで十分だ」


 茉莉が何か言いかけて、止めた。

 チン、とオーブンのタイマーが鳴った。



 型から外す。

 皿に伏せて、持ち上げる。

 ぷるん、と揺れた。

 カラメルがとろりと流れ出す。

 琥珀色が白い皿を染める。す入りもない。気泡もない。

 城は、しばらくそれを見ていた。

 茉莉がスプーンを二本用意する。


「食べてみてください」

 城がスプーンを入れる。滑らかに刃が入る。掬い上げる。口に運ぶ。

 甘かった。

 素直な甘さだった。卵の風味が、バニラの香りと混ざって、後口が柔らかい。


 父が好きそうだ、と思った。

 いや、父が作っていた味だから当然だ。

「どうですか?」

 城は答えるまで少し間があった。

「……旨い」

「初めてにしては、ちゃんとしてますよ」

 茉莉がスプーンを口に運ぶ。少し目を閉じて、味わう。


「合格です。お父さんのレシピ、ちゃんと生きてます」

 その一言が、思っていたより胸に来た。

 城は、それをおくびにも出さずに頷いた。

「……ありがとう」


「べ、別にお礼とかいいです」

 茉莉がスプーンを置いてエプロンを外す。リュックを肩にかけて、勝手口に向かう。


「一回だけって言いましたから。じゃあ、帰ります」

「また来るか?」

 茉莉が振り返る。

 少し、間があった。

「……城さんの腕前を見ましたが、来なかったら店が潰れる気がするので来ますよ」


 それだけ言って、出て行った。

 勝手口の扉が閉まる音がした。


 城は一人、プリンの残りを見た。

 まだ食べてないプリンが二つある。

 城は皿を二枚出して、型からプリンを外した。

 その内一皿を窓際に置いた。

 誰に向けるわけでもなく、ただそこに置いた。


 潮風が、白いカーテンを揺らす。

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