夜明け前の追走劇
午前五時三十分。
夜明け前のパティスリー「シロ」の裏手では、潮風が冷たく頬を撫でていた。
城は、特別に手配した大型冷蔵車(保冷バン)のバックドアを開け、その内部を凝視していた。
庫内はケーキの鮮度と強度を保つため、厳密に11度に設定されている。
「……完了だ」
城の声は低い。
その視線の先には、一ヶ月の血の滲むような修練の結晶——三段重ねのウェディングケーキが鎮座していた。
純白の生クリームは、まるで新雪が降り積もったかのような静謐な輝きを放っている。
側面に施されたアイシングのレース模様は、コンマ数ミリの狂いもなく、城が昨夜心血を注いで絞り出した「慈愛の薔薇」たちが、その純白の塔を彩っていた。
「城さん、本当に大丈夫ですか? このルート、海沿いで風が強いですし、道もあまり状態が良くなかった気が‥。
少しの衝撃で、その薔薇は……折れますよ」
助手席に乗り込んだ茉莉が、膝の上のタブレットでルートを再確認しながら言った。
彼女も今日は、普段のラフな格好ではなく、落ち着いた紺色のドレスに身を包んでいる。
後部座席では、同じく正装した柚子が、大事そうに花束を抱えていた。
「分かっている。……このケーキは、照と朱里の人生そのものだ。折れさせないし、指一本、触れさせはしない」
城がエンジンをかける。
重低音の響きと共に、白いバンはゆっくりと港町を走り出した。
式場となる「海が見える教会」までは、車で約四十分。
市街地を抜け、海岸線のワインディングロードに差し掛かった頃だった。
城の「暗殺者としての嗅覚」が、背後に張り付く不快な気配を察知した。
バックミラーに映るのは、スモークガラスの黒いセダンが二台。
一定の距離を保ちながら、執拗に車間を詰めてくる。
「……チッ、鼠か」
「え? 城さん、何か言いました?」
茉莉が不安そうに隣を見る。
城の横顔は、もはやパティシエのそれではない。
かつて数多の修羅場を潜り抜けてきた「死神」の表情だ。
数日前、ハインリッヒを退けたことで、城の生存と「現在の居場所」は裏社会の一部に漏れ聞こえていた。
今日の結婚式を狙えば、城が「手出しできない」と踏んだ小悪党たちが、功名心と報酬を目当てに動き出したのだ。
黒いセダンの一台が加速し、バンの右側に並びかけようとする。
窓が開き、中からサブマシンガンを構えた男が身を乗り出した。
「茉莉、柚子。……伏せろ」
「えっ、きゃあ!?」
城はハンドルを左に微調整しながら、アクセルを一気に踏み込んだ。
だが、単なる加速ではない。ケーキの自重による崩壊を防ぐため、「G(重力加速度)を常に一定に保つ」という変態的なドライビングテクニックを駆使している。
車体は猛スピードで加速しているのに、庫内のケーキは微動だにしない。
城は左手でハンドルを固定したまま、右手を運転席横のコンソールに伸ばした。
そこには、護身用の銃ではなく、昨日焼き上げた「未完成のカチカチに硬いビスコッティ」が詰まった袋がある。
城は窓をわずかに開け、指先でその「礫」を弾いた。
パァン!
乾いた音と共に、ビスコッティは正確にセダンのフロントガラス、その一点に命中した。
特殊な硬度を持たされた砂糖の塊は、強化ガラスにヒビを入れ、ドライバーの視界を一瞬で奪う。
「な、何をしたの今!? 銃声じゃないわよね!?」
「……ッチ、少し焼きが甘かったようだ」
城は冷静に言い放ち、サイドブレーキを引き絞った。
バンの巨体が、慣性を殺しながら鮮やかなスライドを見せる。
追走していたセダンは、ヒビの入った視界で急ハンドルを切り、路肩の砂山に突っ込んでいった。
だが、もう一台のセダンが背後に迫る。
今度はさらに質が悪い。
バイクに乗った二人乗りが左右から挟み込み、バンのタイヤを狙ってきている。
「城さん、このままだと……!」
「茉莉、ケーキの状態はどうだ」 「……え? あ、はい、傾きなし! 薔薇も無事です!」
「なら、問題ない」
教会の門まで、あと一キロ。
城はあえてスピードを落とし、後続を誘い込んだ。
左右から迫るバイク。
一人がバンのドアを無理やり開けようと手をかけた瞬間、城は「あるスイッチ」を押した。
それは、保冷庫の温度を急速に下げるために改造した、液体窒素の噴射ノズルだ。
本来は機械の故障時に使うものだが、城はそのノズルを外部に向けていた。
プシュゥゥゥッ!!
凄まじい白煙がバンの両脇から噴き出す。
瞬間的な視界不良と、路面の凍結。
バイクはスリップし、派手に火花を散らしながら後方へ消えていった。
視界が開けると、小高い丘の上に立つ白い教会が見えてきた。
城は静かにブレーキを踏み、重力に逆らわないよう、滑らかに車を停めた。
式場の裏口。
駆け寄ってきたスタッフたちがバンの扉を開けると、そこには、数分前まで激しいカーチェイスを繰り広げていたとは思えないほど、完璧な姿のウェディングケーキが鎮座していた。
一筋の崩れもなく、一枚の花びらも欠けていない。 純白のクリームは、朝の光を浴びて神々しく輝いている。
「……予定通りだ。納品する」
城はシートに深く背中を預け、ようやく一つ、長い息を吐いた。
その拳は、ハンドルの摩擦でわずかに熱を持っていたが、表情はいつもの無愛想なパティシエに戻っていた。
「……信じられない。城さん、あなた本当に何者なの……?」
腰を抜かしたままの茉莉が、震える声で尋ねる。
「……ただの、親友の結婚式を祝いたい男だ」
城は車を降り、コックコートの襟を整えた。
背後の丘の下では、二台のセダンとバイクが再起不能になっているが、彼は一度も振り返らなかった。
彼の仕事は、殺すことではない。この「純白の塔」を、幸せな二人の元へ届けること。
その任務は、今、完遂された。




