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S級暗殺者、パティシエになる ースイーツのスの字も知らない男の奮闘記ー  作者: 仁科異邦


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凄腕暗殺者、暗殺家業を引退する

新作書きました。

よろしくお願いします。

 深夜二時。

 廃工場の屋上に、男は伏せていた。

 月のない夜だった。

 闇の中に溶け込むように、漆黒の装備で地に張りつく。

 呼吸は一分に八回。心拍は四十台。

 どこかの狙撃手が聞いたら卒倒するような数字だが、片桐城にとってはいつも通りだった。


 スコープの先、三百メートル。

 標的が窓際に立っている。

 某国の武器商人。

 胸に十四件の暗殺依頼が積まれた男。

 依頼主は三カ国にまたがり、報酬総額はざっと二億を超える。

 城はそういった事情に興味がない。

 依頼を受けたら遂行する、それだけだ。


 引き金に指をかけた、その瞬間——

 ブブブ、と胸ポケットが震えた。

 城は動きを止めた。


 着信を無視するのは簡単だ。

 仕事中の携帯はサイレントにしてある。

 震動すら気配に出さないのが鉄則で、携帯を持ち込むこと自体、業界では禁忌に近い。

 それでも城が持ち込んでいるのは、たった一つの理由からだった。


 画面をわずかに傾ける。

 発信者:親父

 城は三秒、考えた。

 仕事中だ、本来出るべきではない。

 しかし嫌な胸騒ぎがした。


「……もしもし」

『片桐城さんですか。お父様の携帯からかけさせていただいております。私、湘南記念病院の——』

 そこから先の言葉は、あまり覚えていない。


 心臓発作‥搬送時にはすでに‥ご臨終。

 そういうことが、丁寧な声で告げられた。

 城はスコープから目を離した。


 標的は、まだ窓際に立っている。

 城は銃をケースに収め、屋上から立ち上がった。

 仕事の途中だったが、正直どうでもよかった。


 片桐清治、享年六十一歳。

 男手ひとつで城を育てた父親の、あっけない最期だった。



 葬儀は小さく済ませた。

 弔問客は十数人。父の知り合いらしき老人たちと、近所の人間が何人か。城には父の交友関係の詳細を知らなかった。

 当然だ、と思う。

 城が最後に父と会ったのは三年前だ。

「仕事が忙しい」と言って、それきりだった。

 どんな仕事かは話していない。父も聞いてこなかった。

 骨を拾いながら、城はそういうことを考えていた。

 喪服が、潮風に揺れた。


 葬儀の翌日、担当弁護士から連絡が入った。

 遺産の話だという。

 事務所に出向くと、眼鏡をかけた初老の男が書類を広げた。

「片桐清治さんのご遺産ですが、預貯金はほぼございません。負債もなし。残ったのは、こちらになります」

 差し出された書類に、住所と、建物の名称が書かれていた。


 パティスリー「シロ」——神奈川県某市、海岸沿い

「……パティスリー?」

「ええ。お父様が五年ほど前から営まれていたようです。小さな洋菓子店です。建物は古いですが、土地込みで所有されておりました」

 城は書類を見つめた。


「親父が……菓子屋を?」

「趣味が高じて、ということだったようです。ただ、ここ一年ほどはご体調の問題で休業されていたとのことで」

 城は何も言わなかった。

 父が菓子作りをしていたのは知っていた。

 老後の趣味だと聞いていた。

 まさか店を出していたとは、一切聞かされていなかった。



 その日の夕方、城は初めて「シロ」を訪れた。

 海岸線から少し入った路地の角。白い外壁に、小さな木製の看板。潮風でペンキが剥げかけているが、丁寧に補修した跡がある。

 鍵を開けて、中に入った。

 砂糖とバターの匂いが、かすかにした。

 もう随分使われていないはずなのに、その匂いだけは残っていた。


 ショーケースは空だ。木の床は古いが、掃除が行き届いている。カウンターの上には、手入れされた道具が並んでいる。

 泡立て器。シリコンのヘラ。

 小さなタルト型。どれも使い込まれて、でも丁寧に扱われてきたのが分かるものばかりだった。


 城は厨房に入った。

 業務用とは程遠い、家庭用に毛が生えたようなオーブン。でも磨き上げられている。

 父がここに立っていたのだ、と思った。

 それだけで、なぜか息が詰まった。


 引き出しを順番に開けながら遺品を確認していると、一番奥の引き出しの底から、封筒が出てきた。

 茶封筒。表に、一言だけ書いてある。


 城へ——

 城は、しばらく封筒を持ったまま動けなかった。


 やがて、封を切った。


城へ——

おまえが何をやって生きているか、父さんはずっと薄々分かっていた。

だが言わなかったのは、おまえの選択を信じていたからだ。それだけだ。

急ですまんが頼みがある。 この店を頼む。


お菓子は、人を笑顔にする。

難しいことを言っているわけじゃない。

ただ食べた人に笑って欲しい、それだけのことだ。

おまえにも、そういう仕事をしてほしかった。

父さんの我が儘だと思ってくれ。

片桐清治


「っ、親父ぃ‥」

 城は、涙を堪える事が出来なかった。

 仕事では感情の起伏はタブーだ。

 だから最後に泣いたのがいつだったか、もう思い出せなかった。


 誰もいない小さな店の中で、父の遺したエプロンを手に、しばらくの間、声も出さずに。



 翌朝、城は一本の電話をかけた。

「鴻上だ」

 低い声が応じる。城が10年間仕えてきた組合の元締め、鴻上義則。

 業界では「黒幕の黒幕」と呼ばれる男だ。

「城か。例の仕事の件だが——」


「悪い、辞める」

 沈黙。


「……なんだと?」

「引退する。廃業届は書面で送る。組合への返還物はリストアップして、明日中に届ける」


「待て。おまえはS級だぞ。そう簡単に——」

「俺の親父が死んだ」

 また沈黙。

「……知っている。だからといって‥」


「俺は恩返しを、一つもできなかった」

 城は続けた。

「10年以上、それだけを先送りにしてきた。もうこれ以上、同じことはしたくない」


「……止めても、無駄か」

電話口の向こうで、鴻上が長い息をついた。


「すまないな、迷惑をかけて」

「そうか。……達者でな、城」


 電話が切れた。

 城は携帯をテーブルに置く。


 窓の外、海が光っている。

 父の遺したエプロンを手に取る。

 白い布地の所々にスイーツのシミがついていた。

 城は、それを腰に巻いた。

 サイズが合っていない。

 父は城より細かった、でも構わない。

 今日から俺は、パティシエだ。



 問題は、スイーツの「ス」の字も知らないということだったが——それはこれから考えることにした。


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