44話
村長の家、ガインの寝室には張り詰めたような静寂が満ちていた。
部屋に入りきらない自警団の男たちや村人たちが開け放たれた扉の外や窓から、祈るような表情で中の様子を窺っている。
「……父さん」
エリザは震える手で小瓶の蓋を開けた。 部屋の中に甘く、そして清涼な香りが漂う。
それは腐臭と薬草の煮詰まった臭いが染み付いていた病室の空気を一瞬で浄化するような瑞々しい香りだった。
エリザの手にあるのは銀色の巨狼が持たせてくれた、透き通るような紅色の液体が入った小瓶だ。
(信じる。あの子たちを救ってくれた、あの存在を)
エリザは覚悟を決め、やせ細ったガインの上体を抱き起こすと唇に小瓶を当てた。
ゆっくりと一滴もこぼさぬように紅い輝きを流し込んでいく。
「……」
意識のないガインの喉が動き、液体が飲み込まれていく。
周囲で見守る母親や薬師、村人たちが息を呑んだ。
──事は数刻前に遡る。
森の入り口でウルフたちと別れ、村へ急行したエリザたちは持ち帰った『赤茸』と『謎のポーション』をすぐさま村一番の老薬師に見せた。
籠の中身を見た瞬間、老薬師は腰を抜かさんばかりに驚愕した。
『馬鹿な……! こ、これは最高品質の赤茸……! それにこの瓶は!?』
薬師は震える手でポーションの小瓶を透かして見ると、信じられないものを見る目でエリザを見上げた。
『……ありえん。この純度、この魔力の輝き……。王都の宮廷錬金術師でもこれほどの物は作れまい』
『先生、それは……毒ではないのですね?』
『毒!? とんでもない! これは赤茸の効能を極限まで……いや、それ以上の何かで抽出した、正真正銘の特効薬……いや、霊薬に近い代物じゃ!』
薬師は興奮のあまり唾を飛ばして巻き立てた。
『ワシが赤茸を煎じたとしても、ここまで濃い薬効は出せん。……これを飲ませればガインの病は劇的に良くなる!』
その言葉がエリザの背中を押したのだ。
──そして、今。
最後の数滴がガインの口の中に消えた。 エリザは空になった小瓶を置き、祈るように父の顔を見つめる。
「……」
一秒。二秒。 永遠にも感じる静寂。
ドクン、とガインの胸が大きく波打った。
「あ……」
変化は劇的だった。 土気色で死人のようだったガインの顔に、見る見るうちに赤みが差していく。
荒く浅かった呼吸が深く力強いものに変わり、脂汗が引いていく。枯れ木に水が染み渡るように生命力が戻ってくるのが目に見えて分かった。
そして──。
「……ん……」
ガインの喉から苦悶ではない、意識を持った声が漏れた。 ゆっくりと瞼が持ち上げられる。
そこにあったのは以前のような混濁した瞳ではない。 かつての理知と力強さを宿した瞳だった。
「……エリ、ザ……?」
「父さん……! 父さんッ!!」
エリザは父の胸に顔を埋め、堪えきれずに泣き崩れた。
「おおぉ……!」
「村長が……ガイン様が目を覚ましたぞ!」
「奇跡だ……!」
部屋の外で見守っていた村人たちから歓声と安堵のため息が爆発した。
母親もベッドの脇で泣き崩れ、薬師も涙目で何度もうなずいている。
そんな喧騒の中。
部屋の隅に置かれた荷物の上で、場違いなほど鮮やかな色彩を放つプルプルとした塊──[UC]アルケミー・スライムが、不思議そうにその光景を見つめながら、「プヨヨン」と小さく跳ねた。
「これは……」
ガインは自らの掌を何度も握りしめ、開いてはまた握りしめた。 節くれだった太い指に力がみなぎってくるのが分かる。
数分前まで死の淵をさまよい、指一本動かすのも億劫だった倦怠感が嘘のように消え失せていた。
「……信じられん」
ガインは上体を起こし自らの身体を見下ろした。
古傷の痛みも肺を焼くような熱も全てが消えている。それどころか現役の騎士だった頃のような活力さえ身体の奥底から湧き上がってくるのを感じていた。
「エリザよ。今の薬は一体……?」
ガインの問いに、エリザは涙を拭いながら、正直に答えた。
「森の……ダンジョンの魔物にいただいてきたの」
「……なに?」
「父さんの言う通り、敵意がないことを示すためにお礼を持って行って……。ついでに、厚かましいとは思ったけれど、どうしても父さんを助けたくて、お願いしてみたの。そうしたら……」
エリザは言葉を詰まらせながら、事の顛末を語った。
決死の覚悟で森へ入ったこと。狼たちが友好的だったこと。そして、この赤い秘薬と赤茸を彼らが惜しげもなく与えてくれたこと。
話を聞き終えたガインは──。
「……」
無言で両手で顔を覆い、深く、深く頭を抱えた。
「父さん?」
「……エリザよ。俺は確かに『敵対するな』とは言った。言ったが……」
ガインは顔を上げ、呆れと安堵が入り混じった複雑な表情で娘を見た。
「『交易』をしてこいとまでは言ってないぞ……。ましてや『施し』を求めるとは……」
ダンジョンとは本来「人類の敵」だ。 いくら知性があるとはいえ、「薬をください」と頼むなど常識で考えれば自殺行為も程がある。
もし相手の機嫌が悪ければエリザだけでなく、同行した村人たちも皆殺しにされていてもおかしくなかったのだ。
「無茶をしやがって……馬鹿娘が」
ガインの声は震えていた。
それは怒りではなく、娘を失うかもしれなかった恐怖とそれほどの危険を冒してまで自分を救おうとしてくれたことへの感謝だった。
「……すまなかった。そして、ありがとう」
ガインはエリザの頭にゴツゴツとした手を置き、くしゃりと撫でた。
そして村人たち、そして事の発端となった子供たちの方を向いた。
「みんなも俺一人のためによくぞ危険な森へ行ってくれた。……子供たちよ、お前たちが最初にあそこへ行かなければ俺は助からなかっただろう。礼を言う。……だが、もう二度と危険な真似はしないでくれ」
「村長……!」
「よかったぁ……!」
子供たちが泣きじゃくりながら駆け寄ってくる。
ガインは彼らの頭を一つ一つ撫でてやり、村全体が温かな空気に包まれた。
その時だった。
「……ん?」
ガインの鋭い眼光が、部屋の隅にある異質な存在を捉えた。 荷物の上に鎮座する、プルプルとした色鮮やかな物体。
「……おい。あれは?」
ガインの声色が瞬時に「戦士」のものへと変わる。
スライム。最弱の魔物とはいえ、魔物は魔物だ。なぜこんな家の中に魔物が入り込んでいるのか。
ガインが身構えようとした瞬間、エリザが慌てて割って入った。
「待って父さん! 悪い子じゃないの!」
「悪い子じゃない……?」
「この子は……その、私たちが帰る時に狼さんがよこしてくれたの。……くれたのか護衛につけてくれたのか、よくわからないんだけど……」
エリザが手招きすると[UC]アルケミー・スライムは「プヨッ!」と嬉しそうに跳ね、エリザの足元に擦り寄った。
その動きには敵意など微塵も感じられない。むしろ愛嬌すらある。
「そうだよ村長!こいつ、帰り道もずっと大人しくしてたんだ」
「荷車に乗せてやったら、嬉しそうに揺れてたよ」
「ほら、プヨちゃん、こっちおいでー」
村人の一人が干し肉の欠片を差し出すとスライムは嬉しそうに飛びつき、体内に取り込んで溶かし始めた。
その様子を見て、周囲の大人たちも頬を緩ませている。
「……」
ガインは呆気に取られた。 村人たちが魔物に餌付けをしている。 一件、危険極まりない行為だが──
──彼の「魔物感知」の勘が告げている。 目の前のスライムからは殺気や悪意といったものが一切感じられない。
純粋な好奇心と、友好の意志だけが伝わってくる。
(……ダンジョンの使い魔、か)
ガインはため息をつき、肩の力を抜いた。
「……分かった。お前たちがそう言うなら、害はないのだろう」
ガインはベッドから降り、ふらつく足でスライムの前まで歩み寄った。
そしてしゃがみこみ冷たくてプニプニした頭(?)を、恐る恐る指先でつついた。
「プヨヨ~ン♪」
スライムは気持ちよさそうに震え、ガインの指に吸い付くように甘えた。
「変わった奴だ……」
ガインの口元に、微かな笑みが浮かぶ。
部屋の中は久しぶりに戻った平穏と、新しい小さな仲間への歓迎ムードで満たされていた。 [UC]アルケミー・スライムは村人たちの手から手へと渡され、愛嬌を振りまいている。
「あはは! くすぐったいぞ!」
「よく食うなぁ、お前」
だが──と、ガインは思う。
(魔物は、魔物だ)
ガインの目は笑ってはいなかった。 話に聞く巨大な狼。そして背後にいるであろうダンジョンの支配者。
彼らは知性がある。理性的だ。だからこそ、恐ろしいとも言える。
(なぜ、このスライムを寄越した?)
単なる愛玩動物としてプレゼントしてくれたのか? それとも……我々の動向を探るための「監視」の目なのか。あるいは、もっと別の意図があるのか。
この愛らしいスライムが、ある日突然豹変しないという保証はどこにもない。
ガインは自分の掌を見つめた。 生命力が脈打っている。赤い秘薬がなければ、今頃自分は亡骸となっていただろう。
(……まぁいい。命を救われたのは確かだ)
疑えばキリがない。
今は娘のエリザが、妻が、そして村の者たちが笑っている。その事実だけで十分ではないか。
ガインは深く息を吐き、沸き上がる不安を胸の奥底へと沈めた。
(願わくは……このまま、何も起きないことを望む)
ガインは笑顔でスライムを撫でるエリザたちの輪を見つめながら心の中で静かに祈った。
それが脆い均衡の上に成り立っている平和であることを、元騎士の勘が告げていたとしても。




