32話
時は少し遡る。
独立都市フィーネッジから馬車で数時間。
「帰らずの森」と呼ばれる広大な魔境のほとりに、小さな村はひっそりと存在していた。
村に特産品と呼べるものは何もない。
唯一の収入源はフィーネッジから森を目指してやってくる冒険者たちが落とす宿代と飯代だ。
彼らにとって、この村は魔境へ挑む前の最後の休息地であり、生きて帰れた場合の安息地でもあった。
村人たちは決して森には入らない。
森には悍ましい魔物が跋扈しており一度深く踏み入れば二度と戻れないと先祖代々語り継がれているからだ。
だが、皮肉なことに森には万病に効く希少な薬草や魔術の触媒となるキノコが自生している。
富と名声を求める冒険者たちは、村人の警告を笑い飛ばして森へ入り──半数は二度と村の宿に戻ることはない。
そんな村のとある家の一室。
「ゴホッ……! ゴホッ、ゴホッ……!」
重く湿った咳の音が響いていた。
ベッドに横たわっているのは、この村の村長を務める中年の男ガインである。
痩せこけて顔色は土気色だが骨格は驚くほど太い。
かつては「岩砕きのガイン」と呼ばれ王国の騎士団で分隊長を務めたほどの猛者だ。
引退後は故郷であるこの村に戻り、腕っぷしと誠実な人柄で村をまとめ上げ村人たちからは父親のように慕われていた。
だが今、かつての剛剣の使い手は病魔に蝕まれていた。
「すまない……皆に心配をかけるな……」
「いいえ……あなた、ちゃんと休んで」
ガインは苦しげに呼吸を整え看病をする妻に弱々しく笑いかけた。
彼の病は古い古傷が原因の特殊な熱病だった。本来であれば都市から定期的に届く特効薬を飲んでいれば抑えられる病だ。
しかし、世界情勢が悪化していた。
人間領と魔族領の境界線で軍事的な緊張が高まり、両軍が睨み合っている影響で物流が滞っていたのだ。
特に辺境である村への商隊はもう数ヶ月も来ていない。
「薬さえあれば……」
妻が悔しそうに唇を噛む。
ガインの命を繋ぐ薬の原料となる「赤茸」は皮肉にも目と鼻の先にある帰らずの森にしか自生していない。
だが、今のガインにそれを取りに行く力はなく、村人たちに地獄へ行けと命じることなど彼には決してできなかった。
「良いんだ。これも寿命だ……」
ガインが諦めの言葉を口にしたその時だった。
バンッ! と扉が荒々しく開かれた。
「大変だ!ガイン村長!」
飛び込んできたのは顔面を蒼白にした村の若者だった。
ガインは重い体を起こし、鋭い眼光だけで問うた。
「何があった」
「子供たちが……! あんたの家の末娘と近所のガキどもが数人、どこにもいねぇんだ!」
「……何だと?」
「『お薬を取ってくる』なんて言い残して、森の方へ走っていくのを見たってやつがいて……!」
「馬鹿な……!」
ガインの顔から血の気が引いた。
騎士団を引退した自分ですら単独では命の危険がある魔境だ。 ましてや武器も持たない子供たちが入り込めばどうなるかなど火を見るより明らかだった。
「ゴホッ! ……くそッ!」
ガインはふらつく足で立ち上がろうとし、そのまま床に崩れ落ちた。
「誰か! 腕に覚えのある者を集めろ! 独立都市から来ている冒険者にも声をかけて……ゴホッ、ゴホッ……」
叫ぶガインの声は咳き込みによって無惨にかき消された。
その時、扉が乱暴に開かれた。
「父さん、寝ていて! 私が行くわ!」
凛とした声と共に部屋に入ってきたのはガインの長女、エリザだった。 髪を後ろで一つに束ね、身体には革の胸当てと父が引退時に持ち帰った剣を帯びている。
「エリザ……!? なに、その恰好は……」
母親が悲鳴のような声を上げる。
「自警団のみんなには声をかけたわ。手の空いている若手は全員来るって。冒険者の手配なんて待っていられない。今すぐ助けに行かないと、あの子たちが……妹たちが森の奥に入ってしまう!」
エリザは早口でまくし立てながら、ブーツの紐をきつく締め直した。
「馬鹿なことを言うなッ!」
ガインがベッドから身を乗り出し怒鳴った。 その拍子に激しく咳き込み再び枕に突っ伏す。
「ゴホッ! ……あの森は……自警団ごときがどうにかできる場所じゃない! お前たちまで死ぬ気か!」
ガインは知っていた。あの森の生態系は異常だ。
村の自警団などせいぜい森の浅瀬でウサギやボアを狩るのが関の山。 オークやリザードマンの群れに遭遇すれば全滅は免れない。
「じゃあどうしろって言うの! 父さんは動けない、冒険者は金の話ばかりですぐには動かない! 誰かが行かなきゃ、あの子たちは確実に死ぬのよ!」
エリザの瞳から涙がこぼれ落ちた。
彼女とて、恐怖を感じていないわけではない。 村人たちが「帰らずの森」と恐れる場所だ。足が震えるのを必死に気丈な振る舞いで隠しているのだ。
「エリザ、待ちなさい! お願いだから!」
母親がエリザの腕を掴もうとする。
「ごめんなさい、母さん。でも私は姉だから」
エリザは母親の手を振りほどいた。 そして苦悶の表情を浮かべる父を一瞥し、唇を噛み締めて背を向けた。
「必ず連れ戻す。……行ってきます!」
「待て! エリザッ!」
ガインの絶叫も虚しくエリザは部屋を飛び出していった。
外からは彼女の号令とそれに呼応する村の若者たちの緊張した声が聞こえてくる。
駆け足の足音が遠ざかり森の方角へと消えていった。
残されたのは病床の元騎士と、泣き崩れる妻だけだった。
♢ ♢ ♢
エリザは蔦の絡まる獣道を先頭に立って進んでいた。 森は不気味な静けさを際立たせていた。
後ろに続くのは村の自警団──といっても大半は鍬や斧を持っただけの農夫や、行方不明になった子供たちの父親や兄弟だ。
彼らの顔には、疲労と隠しきれない恐怖が張り付いている。
「おい、隊列を崩すなよ……」
「分かってる。もしゴブリンが出たら、三人がかりで囲むんだ。一人で相手しようなんて思うな」
若者の一人が震える声で仲間を戒める。 悲しいかな、これが現実だった。
物語の英雄ならゴブリンなど雑魚扱いだろうが、訓練を受けていない一般人にとってはゴブリン一匹であっても命懸けの死闘になる。
錆びた剣や農具ですばしっこい悪意の塊に勝つのは一苦労なのだ。
「オークが出たら……どうする?」
「馬鹿、やなことを言うな!」
「だってよ……オークなんて、一匹でも手練れの冒険者が数人がかりでやっと倒せる化け物だぞ。俺たちが出くわしたらそれこそ……」
男たちは言葉を濁した。
全員が理解していたからだ。もしオークに遭遇すれば、それは全滅を意味すると。
「……」
エリザは唇を噛み締め剣の柄を握る手に力を込めた。 脅威は魔物だけではない。
(このまま進めば……大河アムネジアに近づいてしまう)
この森の深奥を流れる巨大な河。そこは魔族領との実質的な境界線でもある。
稀にだが、河を渡って魔族の冒険者が素材採取にやってくることがあるという。 人間と魔族は長きにわたり敵対関係にある。
言葉が通じる分、意思疎通ができない魔物よりはマシかもしれないが森の中で鉢合わせれば問答無用で襲い掛かってくる可能性もある。
それでも、足は止められない。
「いたか……!?」
子供の父親の一人が巨岩の陰を覗き込んで叫んだ。
「いや、いない!」
別の場所を探していた男が絶望的な声を上げる。
「クソッ……あれほど森の奥に行くなと言ったのに……」
焦りと疲労が捜索隊の空気を重く押し潰そうとしていた、その時だった。
ガサガサッ……!
エリザたちの進行方向数メートル先の茂みが大きく不自然に揺れた。
風ではない。明らかに何かがこちらに向かって歩いてきている。
「ッ!? 全員、構えて!」
エリザが叫び父の剣を抜き放つ。 村人たちも悲鳴を呑み込み震える手で農具を構えた。
茂みが割れ全貌が露わになった瞬間。
「!?」
エリザと全ての村人たちの心臓が凍りついた。
「ひ……っ」
誰かの喉から空気の漏れるような音が漏れた。
そこにいたのはオーク一匹などという生易しいものではなかった。
先頭に立つのは巨大な銀色の狼。隣には剣を携えた凄まじい覇気を纏うゴブリン。
さらにその後ろには整然と列を組んだオークたち、巨大な顎を持つ蟻の魔物、無数の狼の群れ。 それらは不気味なほど静かに統率されていた。
(嘘……)
エリザの手から力が抜け剣先が震える。
こんな軍勢相手に鍬や錆びた剣で勝てるわけがない。 戦うことすらおこがましい。瞬きの間に全員殺される。
だが。静寂を破ったのは場違いなほど明るい声だった。
「あ! お父さんだ!」
「おーい! ここだよー!」
「え……?」
エリザが呆然と顔を上げる。
巨大な銀狼の背中から、ひょこっと小さな頭が幾つも飛び出したのだ。
「お姉ちゃん!」
その中にはエリザの妹の姿もあった。
子供たちは狼のふかふかの毛に埋もれながら、きゃっきゃと楽しそうに家族へ向かって手を振っていたのだ。
巨大な銀色の狼が、ゆっくりと腰を落とした。 それに倣うように、周囲の狼たちも伏せの姿勢をとる。
「ありがとう、狼さん!」
子供たちは柔らかな毛皮から滑り降りると一目散に家族の元へと駆け出した。
「パパ! ママ!」
「お姉ちゃん!」
村人たちは切っ先を震わせたまま身動きが取れずにいた。
目の前の光景が彼らの常識をあまりにも逸脱していたからだ。 だが愛する我が子が飛びついてきた温もりで、ようやく我に返った。
「あ、あぁ……! 生きてる、生きてる……!」
「よかった……本当によかった……!」
武器が手から滑り落ちる音があちこちで響いた。
父親たちは子供を抱きしめ、その場に泣き崩れた。エリザも飛びついてきた妹を強く抱きしめていた。
「馬鹿! どうしてこんな奥まで……! もう会えないかと思ったのよ!」
「ごめんなさいお姉ちゃん……」
妹の無事を確認し、エリザは涙を拭いながら恐る恐る視線を上げた。
目の前には依然として圧倒的な威圧感を放つ魔物の軍勢が鎮座している。
普通なら人間が隙を見せた瞬間に襲いかかってくるはずだ。 しかし彼らは動かない。
銀色の狼も、騎士のようなゴブリンも凶暴なはずのオークさえも。ただ静かにこちらを見つめているだけだ。
ゴブリンは弱く狡猾でオークは残虐で愚か。それがこの世界の理のはずだ。
人間を背に乗せ、送り届ける魔物など聞いたこともない。
「お姉ちゃん、聞いて!」
妹がエリザの袖をぐいと引っ張った。
「この魔物さんたちはね、私たちを守ってくれたの!」
「守って……くれた?」
エリザは言葉を反芻する。
「うん! 悪い豚の魔物が来て食べられそうになった時にね、凄い速さで助けてくれたの! そこの豚さんも悪い豚さんをやっつけてくれたんだよ!」
他の子供たちも口々に親たちへ説明していた。
優しかったこと。強かったこと。赤いキノコをくれたこと。
「魔物が……人を助けたって?」
「そんな馬鹿な……それに赤茸もくれたなんて」
村人たちは困惑し顔を見合わせた。 だが目の前の事実は揺るがない。
子供たちは傷一つなく、魔物たちは敵意を見せず、ただそこに佇んでいる。
エリザは剣を握る力を緩め、震える声で問うように彼らを見つめた。
「あなたたちは……一体……」
白銀の狼と騎士のようなゴブリンはエリザの問いかけには答えなかった。
彼らは怯える大人たちを一瞥しただけだった。
瞳に宿っていたのは獲物を見る捕食者の色ではなく敵を見る憎悪の色でもない。
フン、と銀狼が鼻を鳴らす。それが合図だった。
彼らは一斉に背を向けた。 統率された動きで音もなく森の奥へと歩き出す。
厳ついオークたちも不気味な蟻たちも人間を襲おうとはせず、主の待つ場所へと帰っていく。
「あ……」
エリザは去り行く彼らの背中に手を伸ばしかけ止めた。
かける言葉が見つからなかった。
呆然とした静寂の中で、子供たちの明るい声だけが木霊する。
「ありがとうー!」
「ばいばーい! またねー!」
「元気でねー!」
無邪気な子供たちは大きく手を振っていた。
森の深い闇に溶けていく異形の英雄たちへ向けて、満面の笑みで見送っていた。




