三話 唄を巡って
頭の中に一つの言葉が浮かび上がった。
――マーフォーク
目の前に居るのは人間じゃない。
怖いはずなのに、私は声をかけてしまっていた。
「あ、あなたがずっと歌ってたんですか?」
マーフォークは勢いよく振り返り、同時に海に潜ろうとする。
「ま、待って!
あなたのこと誰にも言わないから、もう少し唄を聞かせてください!」
そう叫ぶと彼はピタリと動きを止めた。
再び振り返ったその顔は驚きに満ち、見開いた両目が揺れている。
かすかにに肩が震えているようだった。
「……今、何と言った?」
静かな、だけどハッキリと耳に響く低音。
「え……。あなたのこと誰にも言わないから、もう少し唄を――」
「何故、唄が聴こえる!?」
彼は声を荒げ、海面から上半身を乗り出してこちらに近づいてきた。
冷たい夜気と波のしぶきが肌を打ちつけた。
月明かりに照らされた濃い藍色の髪。眼差しは恐れとも驚きともつかない、複雑な光を帯びていた。
彼の様子を見て、キイチさんの忠告を思い出す。
『怪物に引きずり込まれちまうからな〜?』
――私、海に引きずり込まれる!?
慌てて数歩後ずさり、背中が角ばった岩に触れた。
マーフォークは私と人五人分ほど離れた位置で、上半身を水面に覗かせたままじっとしていた。
目つきは警戒と疑いが混ざり、切れ長くなっていた。
「も、もしかしたら気のせいだったかも――」
「気のせいでここまで足を運ぶものか!」
荒々しい声に驚いて全身が跳ねた。
彼は淡い紫色の目で私を見つめると、決まりが悪そうにすっと逸らす。
「すまない……。少々気が荒くなってしまった。
どうやら、君は普通の人間ではないようだな」
――普通の人間じゃない?
訳がわからずに瞬きを繰り返す。
両親はどちらも人間だったのに、彼は何を言っているのだろう。
「だが、理由はどうあれ、ここにいてはいけない。
忘れろ。今夜見たことも聞いたことも、すべてだ」
彼は淡々と言い放つと、背を向けて再び海に潜ろうとする。
「ま、待って!」
慌てて声をかけると彼は動きを止め、私を睨んできた。
瞳に宿っているのは明らかに嫌悪だ。
「……これ以上、私に近づくな」
彼は突き放すような冷たい声を残して、今度こそ小さな水音を立てて海中に姿を消した。
私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
「夢……?」
思わず口に出すけど、頬を撫でる夜風が現実だと伝えてくる。
おとぎ話だけの存在だと思っていたマーフォークが実在した。
でも、彼の言葉が頭から離れない。
『何故、唄が聞こえる!?』
「やっぱり、私がおかしいだけ……?」
だけど、私の問いかけに答える者は何もない。
岩場に立ち尽くしていても仕方がないので、
灯台のぼんやりとした明かりを頼りに、ゆっくりと村へ戻った。




