一話 唄を聞く少女
村には、夜な夜な不思議な声が響いている。
だけど、私には唄を歌っているように聞こえた。
静かででもどこか引き込まれて、ずっと聞いていたいような唄。
そのことを村の人に話すと「唄なんて聞こえない」「不吉だ」と言われて、
誰も信じてくれなかった。
私は十六歳になった今も、たった一人で"唄"を聞き続けている。
***
私の住む潮梛村は、三〇〇人ほどの小さな村だ。
西側には古びた灯台がそびえ、長い年月、漁に出る船を見守ってきた。
漁業が盛んで、獲れた魚は近隣の町や遠くの港へも運ばれている。
中央にある市場では、今日も威勢のいい声が飛び交っていた。
魚を並べる人、値を競い合う人、荷車を押す人。
潮と人の匂いが混ざり合い、活気が村を包んでいる。
そんな賑やかな声を聞きながら、私は北にある小川に天秤を持って向かった。
既に先客が何人もいて、談笑しながら水を汲んでいる。
私は縁に行き、二人組の女性に緊張しながらも挨拶をした。
「お、おはようございます。カイさん、エイコさん」
「あら、おはよう、リオナちゃん。今日もいい天気ね」
「そ、そうですね。絶好の漁日和で……」
答えながら腕を捲り、桶に水を汲んだ。
水は冷たく一瞬身震いしたけど、すぐに慣れた。
満杯になった二個の桶を天秤の端に吊るし、肩に担ぐ。
「一度帰ってまた来ますね。
今度はキイチさんの所に水を運ばないといけないので」
「ああ。じゃあ、またね」
「はい……」
二人に背を向けて帰路につく。
歩きながら彼女達の声がかすかに耳に入った。
「それにしてもリオナちゃんは偉いねぇ。
自分の水汲みだけじゃなくて、キイチさんの所もやってあげてるなんて」
「本当ねぇ。
それにしても……あの不気味な声はいつになったら聞こえなくなるのかねぇ。
もう十数年も聞いて耳がどうにかなりそうだよ」
私の胸がドキリとなった。
そう、唄と認識しているのは私だけで、他の人には不気味な声にしか聞こえていない。
私は逃げるように走って家に帰った。
少しして、私は汲んだ水を持ってキイチさんを訪ねていた。
室内は木材と潮風と魚を焼く匂いが混ざって変な空気だ。
彼は村で唯一の宿屋兼食堂を営んでいて、朝から掃除や仕込みの準備でバタバタと動き回っている。
「キイチさん、おはようございます」
「おお、リオナちゃんか!おはよう。
いつもありがとうな!」
厨房から、白い三角巾に割烹着を身に着けたキイチさんが顔を覗かせる。
だけど、顔は日に焼けて真っ黒だ。
なんでも、ここを始める前は漁師だったらしい。
「いいえ。お水、いつもの所に置いておきますね」
「ああ、ありがとうよ!
そうだ!今ちょうど焼き上がったばかりなんだ。食べていってくれよ!」
そう言ってキイチさんは、小皿に一匹の焼き魚を出してくれた。
白い湯気がモクモクと上がっていて、表面の皮はいい焦げ色がついていた。
「頂いていいんですか!?」
「もちろんだ!毎日毎日水を汲んで来てもらって助かってるんだからな。
お礼だお礼!」
「じゃあ、いただきます」
席についてさっそく口に運ぶ。
身は魚とは思えないほど甘く、すぐに溶けてしまった。
「美味しいです!」
思わず叫ぶと、キイチさんが歯を見せて笑う。
「そうだろう!明け方に獲れたばかりなんだ。脂が乗ってるだろ?」
「はい!」
熱々の内に魚を平らげた。小腹が空いてきた頃だったので、ちょうどよい。
私は立ち上がるとキイチさんに声をかける。
「私、そろそろ行かないと。昼から網の補修作業があるので」
「おう!気を気をけてな!
そうそう、夜の浜辺には近づくんじゃねぇぞ〜?
怪物に引きずり込まれちまうからな〜?」
脅すように両手をダラリと下げて、低く言うキイチさん。
「行きませんよ!小さい時から言われてますし」
村には子どもの頃からよく聞かされる昔話があった。
マーフォークという、上半身は人間で下半身は魚のヒレになっている生物の話。
彼等は人間を食べ、夜に陸に上がっては彷徨いている子どもを海に引きずり込むという。
たぶん、村の人達が夜の不気味な声を恐れているのも、その話からきているのだろう。
「はははっ!だよな!
念の為だ!念の為!」
「し、失礼します」
私の感覚がおかしいのかもしれない。
皆が不気味だ不吉だと言っている声を、唄だと思っているのだから。
複雑な気持ちで私は宿屋を後にした。
昼からは漁網の補修作業。
漁から帰った網が浜辺に広げて干してあるので、女性を中心に破れがないか確認する。
三〇人ほどで網を膝に広げ、編針を通して一目ずつ結んでいく。
破れた部分を探しては、丁寧に糸をくぐらせ、ぎゅっと引き締める。
途切れないさざ波の音と、糸が擦れる小さな音だけが辺りに響いていた。
網の半分ほど進んだところで、村一番の長寿のサエコおばあちゃんが立ち上がる。
「さて、ちょっと休憩しようか。皆疲れただろう?」
彼女の呼びかけにあちこちから賛同の声が上がる。
すぐに皆は複数の輪になって談笑を始めた。
「最近は日照りが多いから嬉しいねぇ」
「そうそう。洗濯物もよく乾くし」
「晴れてると海が荒れる心配もしなくていいものね」
私は皆の声を広場の隅っこで聞いていた。
補修作業組の中には私と年の近い人たちもいるけど、緊張しやすい事もあって入っていって話す気には慣れない。
顔を上げると、深い青の海面が目に映った。
日差しを反射させてキラキラと宝石の方に輝いている。
――やっぱり今日も唄は聞こえるんだろうな。
ふと、軽く肩を叩かれた。
振り向くとサエコおばあちゃんがニコニコと笑っている。
「隣に座ってもいいかい?」
「はい。どうぞ……」
彼女は腰に負担をかけないようにゆっくりと座った。
「リオナちゃんはいつも一人だねぇ。寂しくないのかい?」
「寂しい……かどうかはわかりませんけど、話すの得意じゃなくて……」
「今は私と話せてるじゃないか」
「緊張してないからだと思います……」
サエコおばあちゃんの目を見ながら言う。彼女は七〇近いといわれているのに、年の功を感じさせないぐらい元気だ。
――サエコおばあちゃんなら、唄を信じてくれるかな
そういう思いが頭をよぎった。
ずっと黙ってきていることとはいえ、一人で抱えているのは辛い。
「リオナちゃんは悩みとかないのかい?」
「悩み、ですか?」
まるで心の中を見透かされたような質問に、思わず声が裏返った。
サエコおばあちゃんは穏やかな笑みを浮かべている。
「そうだよ。一人で抱え込むなんて、よくないからねぇ」
「…………………………」
唄のことを言ってしまいたい。でも他の大人と同じように取り合ってもらえないかもしれない。
いきなり唄のことを聞く勇気はなかったので、昔話について聞くことにした。
「あの、サエコおばあちゃんは、昔話って信じてますか?
マーフォークの……」
「あぁ……。その話かぁ。信じてるとも……」
「本当ですか!?」
つい、勢いで身を乗り出してしまった。
サエコおばあちゃんは驚いたように瞬きを繰り返している。
「あ、あぁ……。しかし急にどうしたんだね?」
「あっ、ごめんなさい……」
急いで姿勢を正した。恥ずかしさと興奮とで顔が熱い。
「……昔話のことで悩んでるのかい?」
まっすぐ見つめられて、小さく頷いてしまった。
もう、こうなったら話すしかない。
「笑ってもらって構わないんですけど……私、不気味な声が唄に聞こえるんです」
私の言葉を聞いたサエコおばあちゃんは小さく口を開けたまま、動きを止めてしまった。
しかしすぐに我に返ると、私の両肩をしっかりと掴む。
長寿とは思えない力だ。
「リオナちゃん……それは今も聞こえるのかい?」
「はい。かすかに聞こえる程度ですけど」
「そのことを誰にも話してないだろうね?」
「幼い時に話しましたけど、皆信じてくれませんでした」
すると、サエコおばあちゃんは大きく息を吐いて、私の肩から手を離す。
しかし目つきは真剣なまま。私は思わずつばを飲み込んだ。
「いいかい、そのことは誰にも言っちゃいけないよ」
「え?サエコおばあちゃんは何か知って――」
「サエコさーん!そろそろ時間だよー!」
響いてきたカイさんの大声に私達は飛び上がった。
「……また、今度な」
サエコおばあちゃんはそう言うと、一足先に皆の所に戻っていった。
「絶対、何か知ってるよね?」
そうでなければ、誰にも言ってはいけないなんて言わないだろう。
気になって仕方がなかったけど、今度話してくれることを信じて、頭の片隅に追いやった。
作業が再開される。
かんかんと照りつける日差しの中、私たちは黙々と手を動かし続けた。




