理解できない
「さて、明日から調査を開始する訳だが」
そう言ってアルヴェリスは部屋にいる面々を見回した。
その場にいるのはアルヴェリスの他にはルシェリア、クラーテス、シルビアの3人。
ルシェリアとアルヴェリスは質の良い深紅のソファに向き合って座っており、シルビアはルシェリアの、クラーテスはアルヴェリスの背後に立っている。
場所はキルレイン侯爵領にある最上級の宿。その最上階の一室である。
謎の親睦会以降も、ルシェリアはしばらく王城で過ごしていた。
もちろん被害が出ているとはいえ、第二王子であるアルヴェリスと、長年姿を現さなかったルシェリアが王都の外へ出て調査するなど、そう簡単に許可が降りる訳ではないのが実情だ。
当然すぐには調査に移ることはできず、アルヴェリスも公務があるために、しばらくは王城で生活することになった。
その間、ルシェリアは淑女教育を受けていた。
それはルシェリア自身が望んだことだ。アルヴェリスが公務をしている間は暇なので、王宮の図書館で本を読むか、忘れかけていた礼儀作法を再び身につけるかしていた。
アルヴェリスに呼び捨てで呼ばれる様になり、メイドのフェリスとも幾分か打ち解けることができた。未だアルヴェリス相手に敬語は外せないが、フェリスやクラーテス相手には敬語を外して喋れるようになったし、シルビアに少し体術を教わったりもして、意外にも充実した生活を送っていた。
そして1週間ほど前に王城を出発し、今朝、キルレイン侯爵領へと到着したのである。
「被害が主に出ている場所の状況確認は済んでいる。明日からはその場所の近くからイヴェルダの森を調査。その後シェーリエ伯爵領へ移動する」
イヴェルダの森はシェーリエ伯爵領とキルレイン侯爵領にまたがる巨大な森であり、魔獣の発生源と予想される場所。
イヴェルダの森は魔物が多く、また巨木が立ち並ぶため視界が悪い。さらに水はけが悪く湿地であるため足場も悪いという三点盛りで、人の立ち入りは極稀である。故にイヴェルダの森には未探索領域がいまだに存在する。
勿論イヴェルダの森の深部まで調査することになるかどうかはわからない。
だが今の所被害が多く出ているのはシェーリエ伯爵領ではなくキルレインの領地であり、被害の多い場所の近くの森は未開拓であった。
「我々に同行するのは、クラーテス、シルビアと少人数の王国騎士団の精鋭騎士だ。あまり騎士を増やしてしまうとシルビアの邪魔になる」
「それは……そうですね」
シルビアに対して適切な評価をするアルヴェリスに、ルシェリアは苦笑を零し、シルビアは肯定するように瞑目した。
「何より、魔獣の精神汚染に対する抵抗を持っていない人間だと、足でまといになる」
魔獣と魔物の最も大きな違いは、魔獣から放たれる瘴気。それは耐性のない人の精神を狂わせる。
瘴気の有効打としては魔法で結界を張るか、浄化するのが一般的だが、パラメキアでは当然そんなことが出来るのは極小数だ。
だからルシェリアの『対異常の加護』の様に、精神汚染を受けないような加護を持つ人が選ばれているのだろう。実際、ある程度場数を踏んだ戦士などは皆、『対異常の加護』を授かっている場合が多いとシルビアが言っていた。
「魔獣が出た際の対処は私とシルビアで行う。状況からして被害は深刻であり、まず間違いなく魔獣は出没するだろう。ルシェリアは魔力探知で魔獣の発生源を辿ってほしい」
「了解した」
「承りました」
アルヴェリスの言葉に2人はそれぞれ頷いた。
ルシェリアは部屋の面々を見回して思う。
(…………本当に豪華なメンバーね)
主にシルビアとアルヴェリスのせいで、魔獣の調査にしては過剰過ぎるほどの戦力となっている。
その理由もさながら、相変わらず、アルヴェリスの思惑は読めない。
親睦会でタイミングを逃してから今日まで、不自然な人選の理由と彼の真意を知るために探りを入れていたが、全てのらりくらりと躱された。
ルシェリアは、そう簡単にこの人に心を開ける気がしなかった。10年振りの再開で、いきなり弱みを握られた取引をもちかけられたことが軽くトラウマになっているのかもしれない。
張り詰めた思いで、背筋を伸ばす。
そんなルシェリアの思いを知ってか知らずか、そこでふと思い出したようにアルヴェリスが問うた。
「キルレイン侯爵には、会ったことがあるか?」
その質問に、ぱちぱちと瞬いてアルヴェリスを見る。美しいその顔には、少しだけ苦々しい思いが滲んでいた。
ルシェリアが対面したことのある貴族は少ない。アルヴェリスもそれをわかっている。それでも彼がその質問をしたのは、会っていてもおかしくはないからだ。
キルレイン侯爵領は、『パラメキアの穀倉』とも呼ばれるほど、肥沃で重要な土地である。故にキルレイン侯爵の地位は公爵に及ぶほど高い。
「キルレイン侯爵ですか………幼い頃、それこそ殿下と婚約する以前でしょうか。1度だけ、見たことがあります」
「そうか………キルレイン侯爵とベルンシュタイン公爵令嬢である君を合わせるのは少しやめた方がいいと思ってな。できるだけ私だけで対応しよう」
そういうアルヴェリスに、ルシェリアも納得してこくりと頷いた。
キルレイン侯爵家とベルンシュタイン公爵家は、社交界では仲が悪くて有名だ。
キルレイン侯爵の娘は、かつてアルヴェリスの婚約者の筆頭候補であった。キルレイン侯爵令嬢はアルヴェリスの2歳年上。ルシェリアの母アリアナは、数年間ルシェリアが魔力を持っていることを隠していたので、順当に行けばキルレイン侯爵令嬢はアルヴェリスと婚約するはずだったのだ。
だがルシェリアが膨大な魔力を持っていることが王家に露呈した時、王家は瞬時にルシェリアとアルヴェリスの婚約を結んだ。
さらに言えば、キルレイン侯爵とベルンシュタイン公爵であるザオルドは同期であり、共に宰相の地位を目指していたが、キルレイン侯爵は敗れザオルドが宰相となった。
だからキルレイン侯爵は、ベルンシュタイン公爵家を目の敵にしている。
「お心遣いありがとうございます」
そんな貴族関係の縺れを何年ぶりかに思い出して、辟易しながら感謝を伝える。貴族社会からずっと離れていたルシェリアにとって、アルヴェリスの気遣いは素直にありがたかった。
そんなルシェリアを見て、アルヴェリスは再び顔を曇らせ、「だが………」と続ける。
「1週間後、キルレイン侯爵家主催の夜会があるらしい。今日彼に状況確認の為に会った際に、婚約者と是非、と押され、理由がなかったため断れなかった。面倒かもしれないが把握しておいてくれ」
「…………はい」
面倒かもしれないが、というか、面倒以外の何物でもないその知らせに、ルシェリアはわかりやすく口を噤んだ。
その様子を見て、シルビアが小さくと笑みを零す。
「もしかして、ルシェリアは夜会は初めてじゃないか?」
「もしかしなくてもそうよ」
「えっ」
「少し考えればわかるだろう……」
シルビアの発言に、思わずといったように驚きの声をあげるクラーテスと、それを横目にため息をつくアルヴェリス。
アリアナが亡くなったのはルシェリアが9歳の時。それからはずっと隔離されていたので、茶会などに出席したことはあっても、当然、夜会の経験はない。
つくづく、今までの生活がいかに楽だったかを実感させられる。
気をつけなければならないのは食事にたまに混ぜられている毒のみで、それ以外は何をしても良いし、 ほぼ一日中放置されていたので抜け出しても食事の時間に戻れば良いという自由っぷり。少しアルヴェリスの提案に乗ったことを後悔してしまうくらいだ。
シルビアはそんなルシェリアを見て穏やかに微笑む。
「夜会のマナーやダンスについては空いた時間で私が教えよう」
「シルビアが?」
「私とて最低限の礼儀作法は身についている。命を賭して戦場に立つタリスの人間が、ダンスのステップを踏めなくて馬鹿にされるなどあってなるものか」
そう言い捨てるシルビアに、ルシェリアは瞬いて苦笑した。
そしてふん、と胸を張って不敵に笑う。
「私だって、この数日間で昔叩き込まれたものをある程度は思い出しているわ」
「じゃあ余裕だな」
「ええ」
自分とは違ってシルビアの前では年相応の姿を見せるルシェリアに、アルヴェリスは微笑ましく感じて目を細めた。
「すまないな。頼りにしている、ルシェリア」
そう素直に信頼を告げたアルヴェリスに。
ルシェリアは驚いたように瞠目し、そしてまた、不敵に笑った。
****
風が揺れる。
濃紺の空の底に、散りばめられた星が輝く。
「…………………」
自室に戻ったルシェリアは、静かにその窓を開け放った。首に提げているネックレスの、魔法石を握りしめる。
刹那、突風が突きぬけた。
「やぁ」
「………本当に、来るのね……」
小さくため息をついたルシェリアの前に現れたのは、薄い茶の髪を跳ねさせる快活な青年だ。
「入れてよ」と言いながら返事を待たず窓から入ってくる唯一の友人に、ルシェリアは口を噤む。
「何で今日僕が来るってわかったの。お得意の勘?」
「そう」
「勘かあ」
ぼすん、と行儀悪くソファに座ったジーク。
未だ窓の傍から動かないルシェリアを見て、ふと神妙な顔で言った。
「君の勘って、本当に勘なの?」
「え?」
「………うーん何でもない。気づいてないみたいだし。それでも困んないから……座らないの?」
そう言って、こてんと首を傾げる青年は、まるで無邪気な子供のようだった。
ルシェリアはそれを見て、ますます苦しくなって俯いてしまう。
ゆっくりとジークの正面に座って、首元で輝いていたネックレスを取った。
ジークの視線を感じながらも、手の中にある海色の輝きから目を離せない。
そして、しばしの沈黙。
冷たい風に揺られて、目の前の男の薄茶の髪が揺れた。
顔を上げる。
「これ、返したいの」
「なんで?」
発するのにかなり勇気を要した発言に対し、顔色を変えず即座に返され、ルシェリアはまた口を閉じてしまう。
そんなルシェリアを見て、ジークは優しく微笑んだ。
「怖くなった?」
「………っ」
「僕の正体、気になる?」
「……………」
「それとも、こんな高価な魔法石を渡してきた理由が知りたいの?」
見透かされている。そう、思った。
畳み掛けるように続くジークの声は、いつも通り柔らかいけれど、そこに鋭い棘のようなものを感じてしまった。
彼の空色の明るい瞳が、何故か影を呈しているように見えた。
それになんとなく恐怖を感じた。
そんなルシェリアを見て、ジークは嘆息。
そしてやはりまた、静かに微笑んで、今度は棘を潜めた声で言うのだ。
「僕達は友人。僕はそう思ってたよ。僕がただルーシェを心配して、それを渡した。それだけじゃだめ?」
「………………なんで」
そう、震える声で零した言葉は、誰にも受け止められずに重力に従い地に落ちた。
ジークが、明るく輝く空色の瞳ではなく、影が差した海色の瞳でじっとこちらを見ているのがわかった。
(友人だからって、なんでっ)
ルシェリアは理解出来ない。
ジークは、ルシェリアにとっては唯一の友人。
けれど、ジークにとってはそうではない。
お互いのことをあまりにも知らなすぎるし、数ヶ月に一度会ってお茶を飲むだけの仲だ。
それなのにこんな高価な物を渡されて、どうしてその意図を疑わずにいれるだろうか。
ルシェリアは人の心を、愛を知らない。
友愛も、敬愛も、恋愛も。
ルシェリアにとって唯一触れられた愛は、血の繋がったアリアナと、シルビアのものだけで。
何の関係もない、深い繋がりがある訳でもない他者が自分を心配する状況が理解出来ない。
そんな愛の形も存在することは、知っていても受け入れることが出来ない。
「……………ごめんね」
そう言ったジークは傷付いたような目をしていた。
彼が何に対して謝っているのかルシェリアは理解できない。しかし、彼の空色の瞳に滲む感情は、痛みと悲しみと、そして諦観だということは、わかった。
その空色の目を見て、何故かルシェリアの方が泣きたくなってしまう。
「………ごめん」
もう一度、ジークが口にする。
二回の謝罪の言葉は結局、誰にも受け止められずに地に落ちた。
「………………」
静寂。
ただ部屋に吹き込む弱い風が、ゆらゆらとカーテンを揺らしていた。
その時間が、あまりにも長く感じられた。
けれど。
「………………それは」
その沈黙を破ったのは、ジークだった。
「その魔法石は、今は受け取れない。これだけは譲れない」
「…………な、んで?」
ジークの放った言葉に、ルシェリアは困惑を隠せない。
それは彼の頑固な、脈絡のない主張に対してもだが、それ以上に彼の様子が先程とは、今までとは打って変わっていた。
ジークのその空色の瞳には強い光が宿っていて、声には有無を言わせない響きがあった。
その喋り方や佇まいに、何故か既視感を覚え、よりルシェリアを当惑させる。
「いつか必ずそれが役に立つ時が来る。僕が信じられないというなら、僕はその石が役目を果たすまで君には会わない」
「…………貴方は」
既視感の正体を思い当たったルシェリアは、最後に。
「貴方は、何者なの?」
ずっと感じていた疑問を、気付けば口にしていた。
「………………」
そう問われたジークはそこで口を噤んだ。
が、しばらくして、ふるふると首を振る。
「……今後の貴方の幸運を祈ろう」
ルシェリアの質問には答えず、ただ社交辞令的な言葉を口にした。
それっきり、彼はルシェリアに背を向ける。
「………………」
今までとはまるで違う口調で話す彼に、ルシェリアは遂に一言も声を出すことが叶わなかった。