不自然な魔獣の襲来
「あーもう、どこよここ」
とぼとぼと歩きながら、ルシェリアは独りごちる。
襲撃してきた男達は皆気絶させ、どこともわからない場所で馬車も馬も失ったルシェリアは仕方ないので森の中を歩いていた。
「相変わらず腰は痛いし……」
昔から、馬車に乗って外出する際には今回の様に襲われることが多々あった。
その度に何度も撃退しているのに懲りないところを見ると、やはり継母の仕業だろう。殺し屋を送り続けたり食事に毒を入れ続けたりと、殺意が高くて元気だな、とルシェリアは思う。そろそろ諦めてくれてもいいのだが。
本来ならもう本邸に着いていただろうに、今や空は橙色となり、木が生い茂る森は暗くなってきた。流石に野宿はしたことが無いのでなんとかして森を出たい所だ。
「あ、これ。空飛べばいいんじゃないかしら」
困ったように空を見上げた時に、唐突にルシェリアは思いついた。むしろ何故今まで思いつかなかったのか。
そうと思えば早速魔法で森の遥か上空に飛び上がる。
目を凝らすと、遠くに夕日の色を反射して淡く橙色に光る白亜の城が見えた。
どうやら王都の近くではあるらしい。
「…………たぶんこれ、別邸出てから逆方向に進んで行ったわね……最悪」
腰も痛めるし、次から移動する時は馬車を使うのは辞めよう。ルシェリアはそう思った。
幸い、少し先に穏やかな光が集まる町が見えてほっと息をつく。とりあえず野宿はしなくてすみそうだ。
(良く考えれば転移魔法を使えば一瞬で本邸に着くけど…………まぁ、別に好んで行きたくもないし今日はいいわね。お義母さまに会うの気まずいし)
そう思い、町の方向へ進み始めた。
*****
そうして町に降り立ち、宿で一夜を過ごした。
目を覚ましたルシェリアは、眩しい朝日に目を細めながら自らのピンクブロンドの髪を撫でる。
(…………行かなきゃ)
呼び出されている以上、本邸に向かわない訳には行かない。刺客も殺していないから、今頃は継母が襲撃の失敗を知っている所だろう。
(このまま逃げ出したら、自由になれるのかしら)
早朝の雲ひとつ無い、白んだ空を見上げる。
もし、あの家から解放されて、悲願が達成されたら。
町を歩きたい。世界を見たい。部屋に閉じ込められることもない、常に命が脅かされることもない場所に行きたい。
そう願うのは悪いことなのだろうか。
公爵令嬢なのだから仕方ないと思ってきた。
貴族に生まれた以上、義務を果たすべきだと母はよく言っていた。
けれど、ルシェリアは母が亡くなってから一度だって、貴族として扱われたことは無い。それどころか、いつ殺されてもおかしくない状況に晒され続けてきた。
(…………無理ね。また騎士団に連れ戻されるのがオチだわ。逃げきれたとしても、追われる身にはなりたくないし)
ふっと視線を落として、浮かんできた考えを振り払う。
何度も逃げ出そうと思った。
実際に逃げたこともあった。
けれどもやはり第二王子の婚約者だからだろう。ルシェリアが姿をくらませた翌日には王国騎士団が出動しルシェリアの捜索を始める始末。その時にルシェリアは、無理矢理逃げ出すことを諦めた。
「…………行きたくない…………」
手が触れた所から、ルシェリアのピンクブロンドの髪は茶に染まってゆく。このまま町を歩くには、この髪は目立つ。身分を隠して外に出る時はいつも、魔法で見た目を変えていた。
(転移魔法を使えば一瞬で着くから、とりあえず午前中は町でも見て回って、その後行けばいいかしら)
服を着替え、長い髪を編みながらそう考えていると、
「きゃーーッッ!!!」
宿の入口から悲鳴が聞こえた。
「……何?」
素早く服を整えて部屋を出る。そのまま階段を駆け下りて宿の外に出た瞬間。
ぶわっと、不快感を伴う瘴気を感じた。
「…………魔獣?」
なんでこんな所に、と呟くルシェリアの視線の先、町の舗装されていない道路の中央には、禍々しい瘴気を纏った魔獣がいた。
幸い、早朝ということもあり、その魔獣の周りにいる人は少ない。
(……実際に見たのは初めてだけど…………これは)
ちりちりと、頬を差すような嫌な予感がした。
町の住民やその場にいた人々が、魔獣を倒そうと声を掛け合っていた。やがて結束した彼らは武器を持って、魔獣に向かって走り込む。
「……っダメ!!」
思わずルシェリアは叫ぶが、もう遅かった。
「あああああアアアっ!!」
最初は、魔獣の正面に突っ込んだ若い男だった。
次に、その横にいた妙齢の男が。少し後ろに控えていた女剣士が。
頭を抱え、顔を引っ掻き、目を剥いて。
手に持っている武器を振り回しながら、発狂した。
(本で読んだわ!魔獣の纏う瘴気は近くにいる耐性の無い人間の精神を汚染し、狂わせる。対処法は……)
つい先程まで果敢に魔獣に向かっていった者たちが、精神が狂い手当り次第に味方に攻撃する。
響き渡る魔獣の咆哮と、その目の前で始まるおぞましい光景に、ルシェリアの額に汗が浮かんだ。
そしてルシェリアの視界の端に、逃げ遅れたのだろうか、腰が抜けたように座り込む少女と、その少女に迫る男が映る。
(……っ忘れた!もういいわ!)
そうしてルシェリアは、かぶりを振って手を振り上げた。
馬車を襲った男達を撃退した時と同じ、鈍い音が響く。
「………………?」
その攻撃に、魔獣の雄叫びが止まった。
その場にいた人々はぴたりと動きを止め、やがてバタリ、バタリと一人ずつ倒れてゆく。
風魔法を叩きつけた力技だが、これで狂った人の意識を刈り取ったのでぐんと被害は減るはずだ。威力は弱めにしたため建物にも目だった被害は無い。
何より。
「人の目が無ければ、好きに魔法が使える」
魔獣の瘴気が届かない遠距離から、ルシェリアは口角を上げる。
地に伏している人々の中で、一人だけ立っているルシェリアに気付いた魔獣は、すぐさま標的を決めた。地を蹴り、ものすごい速さでルシェリアの目の前に突進しーー
「おしまい」
毒々しい体液が飛び散り、首が舞った。
風の刃が通り抜け、どさり、とその巨大な首がルシェリアの横に落ちる。最後に極彩色の異形の瞳がじろりとルシェリアを見据え、やがてその光を失った。
「…………臭うわね」
その体液から漂う臭いに思わず顔を顰めたルシェリアは、改めて辺りを見回した。
(……たぶん目撃者はいないはず……今のうちに退散しようかしら)
この国では、魔法を使える人間はごく限られている。だから人の目がある所で魔法を使うと、皆驚いてしまうし、身分がある程度絞られてしまう。髪を染めた意味が無い。
そうなると色々と面倒なので、誰もいないうちにこの場を去ってしまおうと、ルシェリアは服についた埃を払った。
(でも、こんなところにどうして魔獣が出たのかしら)
魔獣とは濃い魔素に汚染され凶暴化した魔物のことだ。
魔素というのは、大気中に存在する魔力の源とも呼べる存在。魔法を使う際、魔法使いの多くは自身の体内にある魔力を消費するが、魔素を消費して行うことも可能である。さらに言えば魔法を使うために使った魔力は魔素となってその場に霧散する。
つまり、魔素があれば魔法をより使うことが出来るし、魔法を使えば魔素が生まれる、ということ。
魔獣は魔素に汚染されたことで、精神を汚染する瘴気を纏っている。耐性がない者は近づいただけで混乱して発狂し、混乱状態へと陥る。
ルシェリアには『対異常の加護』という、魔法とはまた別の加護があるからその影響は受けないのだが、そのような加護はまず一般人なら授かる機会はないだろう。
だがそもそも、パラメキアには魔素が存在する場所自体も極わずかなのだ。故に、魔法が発達することは今後ないと言っても過言では無い。魔法が無ければ、新たに魔素が生まれることもない。
曰く、「見捨てられた土地」
魔法を神からの祝福だと信じるこの大陸の他国の人間は、パラメキアを嘲笑と共にそう呼ぶ。
魔法も、その源かつ残滓でもある魔素もない。
神々から見捨てられた不毛の大地だと。
故に当然、パラメキアでは魔素の影響を受けた魔獣も限りなく少ない。
こんなところに、というよりはまずこの国に魔獣が出没すること自体異常事態なのである。
そもそも魔獣に対して馴染みが無いから、この町の住人達もそのまま普通の魔物と同じように対処してしまったのだろう。
とはいえ、考えたところで魔獣が現れた理由がわかるわけもない。
魔獣の瘴気は魔獣が死ねばいずれ薄れて無くなるし、精神を汚染された者もしばらくすれば元に戻る。このまま放置していても問題はないだろう。魔獣を倒したのが自分だとバレる前に、ルシェリアはこの町から出ていこうとくるりと身体の向きを変えた。
*****
目の前のダークブラウンの重厚な扉が、ルシェリアの心の重さを表していた。
あの後町を離れたルシェリアは、そのまま別の町を訪れて時間を潰した。その後昼過ぎ頃に、重たい足を引き摺って――実際には、転移魔法を使ったので足は使っていないが――ベルンシュタイン公爵家本邸を訪れたのである。
今は茶に染めた髪も、服も元に戻っている。
(なぜ、今呼ばれたのかしら。もしかしたら婚約が解消されたのかもしれない、そう考えたい所だけれど)
扉の傍に佇む執事の、早く入れと言わんばかりの刺すような視線を無視して、ため息をつく。
この先は父の書斎だ。恐らく中には継母と、異母妹のアイリスもいる。
実はルシェリアは、継母にもアイリスにも直接会ったことは無い。アイリスは見かけたことはあるが、それでもちゃんと対面するのは初めてなのだ。
ベルンシュタイン家の面々と顔を合わせるのは初という訳で、あまりにも気が重い。心做しか胃がキリキリするほどだ。
ピンクブロンドの髪をかきあげて、ドアをノックする。
「お父様。ルシェリアです」
「入り給え」
「失礼します」
短いやり取りを終えて扉を開く。
予想通り、ルシェリアの父であるザオルドと、継母のメリー、そしてその娘のアイリスが三者三様にしてそこには居た。
ザオルドは険しい顔で机の上で腕を組み、その後ろに立つメリーは隠しきれていない殺気が漏れ出ている。そして少し離れたところで、アイリスはただくちびるに笑みを浮かべ、壁際に佇んでいた。
ルシェリアはザオルドの正面に立ち、彼を見据える。
(お父様のこの感じ、絶対婚約解消ではないわね。もしそうならもっと嬉しそうな顔をするはずだもの。そして、お義母様はわかりやすいわ。やっぱり私の食事に毒を盛っていたのはこの人みたい。アイリスは…………)
ちらりと、異母妹の方を一瞥する。
静かに佇む少女と一瞬目が合い、そしてすぐに彼女はその笑みを深めた。
それは一見、目が合った時に無邪気に笑う子供のようにも見える。けれど、ルシェリアは見逃さなかった。
(一瞬だけれど、この子の瞳に恐怖の感情が映った。やはりこの子も私の魔法に怯えている?………でも単なる怯えとは少し違う気もするわ。それにこの笑顔、作り笑いのような不自然さがある。なんだか………)
「ルシェリア」
「っはい」
ザオルドの声で思考の海から引き戻される。
反射で顔を上げると、こちらを睨みつけるザオルドの顔が見えた。
ベルンシュタイン公爵家は、仲が良いことで有名だ。もちろん、その公爵家の面子の中にルシェリアは含まれてはいない。けれど今のこの三人の様子を見る限り、少し訳ありそうだとルシェリアは感じた。
詳しいことを知りたい気持ちはある。が、今は散々遠ざけられてきたルシェリアが呼び出されるという一大事なのだ。
(正直、婚約解消でないならば十中八九ろくな事ではないと思うけれど……)
心の中で小さく息をつく。父の見慣れた冷たい顔に、屈するはずもなく。
極めて平坦な声で言った。
「何でしょうか、お父様」
「お前に、登城の指示が。………第2王子、アルヴェリス殿下からだ」
ザオルドはそう忌々しそうに吐き捨てた。その瞬間、彼の背後に控えるメリーの殺気が更に増す。
アイリスが静かに目を伏せるのが、視界の端に映った。
キリキリだった胃痛が、ギリギリに変わる。
やはり、ルシェリアの予感は的中した。
これがろくな事にならないのは、火を見るより明らかだから。