完全な愛
「ねぇねぇ、お父様」
「ん?なんだい?アイリス」
そう言って、ベルンシュタイン公爵ーーザオルドはアイリスを見て微笑んだ。
ベルンシュタイン公爵家の王都の邸宅では、家族3人で夕食を取っていた。
『冷酷宰相』という呼び名を持つザオルドが微笑むのは、この世界でたった2人、アイリスとその母、メリーしかいないだろう。
普段の冷たい顔からは想像できないほどの柔らかい表情を浮かべて目を細める父に、アイリスは可憐に微笑み、少しはしゃいぐように言った。
「この前お父様が買ってくれたドレス、皆に可愛いって褒められたわ。ありがとう!」
「ああ。アイリスが可愛いのは当たり前だからな」
「ええ。貴方は私達の自慢の娘よ」
「本当?!嬉しい!ありがとう、お父様、お母様」
アイリスがそう言ってにこりと笑えば、ザオルドもメリーも同じ微笑みを返す。
控えるメイドや執事は皆、それを微笑ましそうに見守っている。
どこからどう見ても理想的で、幸せな家族だった。
妻と娘を愛する父に、美しく微笑む母。
優しい両親と、家の使用人達。
そんな環境に置かれて、アイリスは愛らしく微笑み続ける。
まさにそこにあるのは完全な愛ーー
「……………………」
遠い昔。
自分は幸せだと、アイリスは本気でそう信じていた。
ベルンシュタイン公爵家に来てからずっとこの環境下にいたアイリスは、愚鈍だったからだ。自分の置かれた状況に気付けない盲目だったからだ。
きっとこの場にいない人間に出会わなければ、ずっと幸せに酔えていられただろう。
アイリスが最初にこの家族を不審に思ったのは、異母姉ーールシェリア・イル・ベルンシュタインの姿を目にした時。
(ピンクブロンドの髪に、琥珀色の瞳ーー)
彼女を見たのは数えるほどだが、その美しさに目を奪われ、同時にその容姿の特徴に眉をひそめたのを覚えている。
ただの思い違いかもしれないが、彼女の容姿に対し、不審に思わざるを得なかった事情があったのだ。
そして次は、義兄ーーヴィンセント・イル・ベルンシュタインに会った時。
ベルンシュタイン公爵であるザオルドの子は、アイリスが来た時にはルシェリアのみで、男児はいなかった。
家督を継ぐものがいないが故に、一人の青年が養子としてベルンシュタイン家の一員となった。それが兄ヴィンセントである。
彼は現在、宰相として王都から離れられないザオルドに代わり、公爵領を統治している。
故に彼とは滅多に会うことがなく、ルシェリアと同様に相対したのは数える程。けれど、初めてヴィンセントと会った時、彼はアイリスにこう言った。
「もう少し自分の周りをよく見た方がいい」
と。それだけ言って、彼はアイリスに背を向けた。
その時は、その意味がわからなかったが、その直後に彼が零した呟きを、アイリスは正確に聞き取ってしまった。
「家族ごっこに巻き込まれるなんて御免だ」
ヴィンセントは、義兄は、確かにそう言った。
それからだ。
気付くようになってしまったのは。
ザオルドもメリーも、本当はアイリスなんか見ていないことに。
可愛い、自慢の娘だといいながら、その瞳にアイリスなど欠片も写っていないことに。そこに慈愛など存在しないことに。
ここには居ないもう1人の公爵令嬢、ルシェリア・イル・ベルンシュタイン。
この家族は、彼女の名前を口にしない。
ヴィンセントは、その立場にも起因するだろうが、まだ時々話題に上る。ザオルドも、彼とは偶に顔を合わせているようだ。けれど、ルシェリアという人は、この家族の中に存在してはいけない。
恐らくそれは家族間だけではなく、社交界ですら暗黙の了解だ。アイリスは友人に、対面したことのない異母姉のことを聞かれた記憶がない。
アイリスは知っている。
この家族がこうも歪なのは、彼女のせいだということを。
「そういえば、貴方。今度の夜会のことだけれどーー」
メリーが微笑みながらザオルドに話しかける。妖艶で美しい彼女の唇は弧を描くが、その瞳はおおよそ愛する者に対して向けるものではない。
アイリスのことを娘として見ていないように、メリーはザオルドのことも愛する夫として見ていなかった。ザオルドも同様であることに、数年前にアイリスは気が付いた。
「……………………」
アイリスは恐ろしい。このベルンシュタイン公爵家が、この歪な家族が。
誰もアイリスをアイリスとして認識してくれないこの家で、どうすることが最適解なのか、アイリスにはわからない。
だから、媚びるしか無かった。アイリスは、ザオルドとメリーに嫌われないように振る舞うことで精一杯だった。
顔を上げる。
口角を上げる。
皆がアイリスに求めている表情を、作り上げる。
ただ権力を渇望する者。
歪んだ愛に目を細める者。
そして、生きる為に偽りの笑みを張り付ける者。
完全な愛に溢れた家族の間には、ほんの小さな、けれど確かな歪みが存在していた。
******
「………………これ、魔法石、よね」
ジークが去った後。
ルシェリアはジークがくれたネックレスを眺めていた。
海の様な群青に輝く石。当然の様に最上級のものだが、問題はそこじゃない。いや、それもあるが、それ以上に問題なのは。
(治癒魔法が、込められている……)
ある特定の宝石に魔法を込めた物を、魔法石という。込められた魔法の種類に応じて、身につける者に効果があるものだ。
そしてジークがくれた魔法石には、治癒魔法が込められていた。
(治癒魔法なんて、私でも使えない…………本当にあの人、何者?)
そもそも魔法石自体が貴重だ。それに治癒魔法が込められているものを持っていて、魔力探知を習得している。ジークはあまりにも素性が謎すぎる。
魔力持ちは、この国において本当に珍しい。
このパラメキア王国で魔力を持つ血筋はルシェリアの母であるアリアナの生家、シェーリエ伯爵家のみである。それもシェーリエ伯爵家は元々は亡国の人間の血筋で、本来パラメキアに魔力を持つ血筋は存在していなかったのだ。
本来、他国の人間は皆大なり小なり魔力を持って生まれるし、空気中には魔力の源である魔素がある。だが何故かはわからないが、パラメキアではそのどちらもが皆無に等しい。
過去にシェーリエ伯爵家から王家に嫁いだ者もいるため、王家にも稀に魔力持ちが産まれるが、彼らはシェーリエの血筋に比べると微々たる量の魔力しか持たない。
だからパラメキアにいる魔力持ちは、他国から流入した人か、シェーリエの血が流れる人間のみと言っても過言では無いのだ。
そしてそのシェーリエ伯爵家ですら、治癒魔法を扱えるものが生まれたことは無い。
治癒魔法自体は、他国では扱う者も存在はする。それでも治癒魔法が込められた魔法石など、恐ろしく法外な値段に違いない。
(そう考えると、現時点で考えられるジークの素性は………他国の貴族か魔法使い、またはとんでもない大金持ち、ぐらいかしら)
窓から差し込む陽の光に魔法石をかざすと、それに呼応するように魔法石は輝いた。
「………………というか、これ、私に渡してもいいの?」
そして、こんな貴重な物を、そう簡単に赤の他人に渡すのはどうなのだろうか。
(…………私が毒のことを明かしたから)
治癒魔法であれば、毒を盛られてもそれを分解できるし、その後も自然に回復する。
だからあのタイミングで渡してきたのだろう。
「…………………理解できないわ」
窓を閉め、ネックレスをベッドテーブルに置いてから、ぽすんとベッドに倒れ込む。
(………………ジークの目的は何?私に取り入って、彼になんのメリットが?)
彼の素性も目的も、別にルシェリアにとって重要ではなかった。ジークが何者であろうがルシェリアには関係ないし、彼も自分の身分には何も言及しなかったから、それでいいと思っていた。あくまで彼は他人で、無関係な人物であるから。
ただ偶に一緒にお茶を飲んで、お喋りをする。そこには利害関係なんてものは無かったし、だからこそ安心できた。
公爵令嬢、という身分関係なく話すことができるのは彼だけだから。
けれどさすがに、こんなものを与えてくるとなると話が違う。ジークはどういう意図でルシェリアの元へ来ているのか。それを考えざるを得ない。
(…………正直、ジークの素性が気にならない訳じゃない。私は、話しては行けないことを彼に話しすぎている。彼の思惑次第で、私の目的の邪魔になる可能性もある………)
ジークの身分は恐らくルシェリアにとって有用である。エリュール地方の銀食器を頼んだのも、生きる為とはいえ彼を利用した。
けれどそれは、ジークが他国の人間である場合に限る。
他国に比べて魔法がほぼ発達してないパラメキアの王家は、魔力持ちの力が欲しい。
そしてルシェリアは、公爵令嬢であり、幼い頃から何度も魔力暴走を起こす程度には魔力量が多い。故にルシェリアは魔力があることが王家に知られてから、直ぐに第二王子との婚約が決まった。
恐らく未だに第二王子アルヴェリスとの婚約が解消されないのも、それが原因である。
今のところジークは他国の人間である可能性が高いが、もしこの国の人間ならば、今更だろうがもう会わない方がいい。
なにせルシェリアは、第2王子との婚約解消を望んでいるのだから。
(今の私は、悲願の為に生きている。それを成し遂げる為に、全てを利用する。そう決めた)
そうでもしない限り、ルシェリアはこの場所から逃げられない。
「………………」
ルシェリアは、焦っていた。
この家を出るための手立てがない。
婚約を解消する手立てがない。
家を燃やしまでしたのだ。それでも尚王家は婚約を解消しない。婚約が解消されなければ、この家からは逃げられない。
(…………どうすればいい?王家がここまで魔法に執着するなんて、正直誤算だったわ………それに、ジークも)
ジークに関しても、今後の接し方を考えなければならない。
目を閉じると、彼の柔らかい笑顔と空色の瞳が思い浮かんで来る。
(……………友人のままでいることは……難しいかもしれない)
本当は、わかっていた。
衣服の質などから、彼が高い身分の人物であることは予想はできていた。
本当は公爵家の事情なんて、話してはいけないこともわかっていた。
けれど、ジークはルシェリアにとっては唯一の話し相手で、唯一の友人と呼べる存在なのだ。
寝返りを打つ。視界の端に、先程渡された海色の宝石が映った。
窓の外で、梟が鳴いている。真っ青だった空の色は暗くなり、ネックレスの宝石よりも幾分か暗い。窓枠に切り取られた景色の端に、大理石の城が見えた。
(……しっかりしなければ、願いの為にも。次にジークが来た時に魔法石を返して………そして、もう会わないと伝える)
きっとそれは、とても寂しいことだ。
今までの彼との時間は、とても楽しいものだったから。
それでも。
ルシェリアには、やらなければならないことがある。
*****
コンコン、という控えめなノックの音で目が覚めた。
どうやら眠ってしまっていたらしい。起き上がってふと窓の外を見ると、外は明るかった。
(え…………朝?)
その事実に驚いて一気に目が覚めた。
時刻を確認すると朝と言うよりもむしろ昼近くである。
今までだれもこの部屋を訪れなかったのか。流石に職務怠慢では?と思ってしまう。というか寝すぎでは?とも。
もう一度、ノックの音が響く。
少し身なりを整えてから入室の許可を出すと、戸惑うような沈黙の後、失礼します、という声と共にメイドか入室した。変わらず怯えるような動作で部屋にいるルシェリアを見たメイドに問う。
「どうしたの?」
そしてメイドは少し視線を落として言った。
「…………旦那様が、お呼びです」
*****
ガタガタ。ガタガタ。
(……………)
ガタガタ。ガタガタ。
(………あー)
ガタガタ。ガタガタ。
「腰いった………え、王都の中よね?何でこんなに揺れてるの?」
ルシェリアの腰は、馬車が揺れる度に来る衝撃に限界を訴えていた。
本邸へ行くために別邸を出発してから1時間は経っただろうか。
窓の無い馬車。着いてくるようなメイドもいないため当然一人。やることもないから少し寝ようかと目を閉じても、衝撃が頻繁に来すぎて全く眠くならない。
王都内の移動であるから道は舗装されているはずなのだが。
(なんか、嫌な予感するのよね。というかこれ、たぶん)
口元に手を当てて、普通なら窓があるはずの壁に視線を向ける。
その時。
馬車に、今までより一層強い揺れが走った。
「いたっ」
馬の鳴き声が聞こえ、その揺れをもろに受けたルシェリアの腰は悲鳴をあげる。
バタバタという音が響き、激しい揺れが続いた。
(痛すぎる……)
涙目になりながらなんとか腰の痛みに耐えていると、しばらくしてその揺れは止まり、馬車の中は不自然に静まり返る。
だが、むしろ揺れだけではなかった。馬車そのものが止まっている。馬車を引いているはずの馬の気配も、御者の気配も無い。
「あー………」
そして、その直後。
風を切る音が聞こえ、二度目の強い揺れとともにルシェリアの乗っていた馬車は、全方位から串刺しにされた。
無数の長剣の刃が、馬車の外から直接中に突き刺さる。鋭く光る切っ先が、馬車の壁からその顔を出してルシェリアの眼前に迫り来る。
「あばよ」
馬車の外から、そう言った男の声が聞こえた。
*****
「やったか?」
確認するような、男の声。
馬車を取り囲む黒衣を纏った複数の男が、息を飲んでその剣先を見つめている。
腹を刺されて暴れていた馬の瞳から光が消え、深い森の中、辺りはしん、と静まり返った。
男たちは馬車から目を逸らさない。時が止まったかのように誰もが身動きを取らずに静止している。
しばらくして、その止まった時を動かすように、空を飛んでいた黒い鴉が鳴いた。
男達は剣を握っていた手を緩め、ふぅ、とため息をつく。
「やったか……」
「やめた方がいいわよ、そのセリフ」
「っ!?」
響いた声に、黒衣の男たちはあたりを反射的に見回す。
とん、と地に足をつける音がした。
ふわりと舞うのはピンクブロンドの髪。
「やっぱり、こんなことだと思ったわ。どこよ、ここ」
男達は、自分達がさっき殺したと思っていた人物を見て、呆然と目を見開く。
中心に降り立った琥珀の瞳の美しい少女は、周りを見渡して顔を顰めた。
「私の勘って本当に冴え渡ってるわ。毎度お勤めご苦労様。貴方達も大変ね」
「っなんで」
「私、魔法使えるの知ってるでしょ?」
動揺する男が言った言葉に、少女はそう言ってパチンと指を鳴らす。
次の瞬間、少女は場から姿を消し、一人の男の背後に出現した。
「っ?!」
「お義母様もそろそろ学習しないのかしら。毎回毎回貴方達を殺さないように調節するの、面倒なんだけど」
ドッという鈍い音がして、少女の周りに立っていた男数人が倒れた。
衝撃波のようなものだろうか、同時に近くにあった馬車が粉々に崩れ落ち、木々が騒々しくさざめいた。
意識を失った男達の間を通り抜け、少女は歩み、恐怖に震える男達が後ずさる。
「ひっ」
「化け物が!」
「んー、まぁ部屋を燃やしたのは化け物かもしれないけど、貴方達をちゃんと生かして返してあげてるのは優しいと思わない?もうちょっと感謝してくれてもいいのよ。これで何回目かしら?」
少女はそう言って、弧を描く唇を緩めて、手を振り上げた。
もう一度鈍い音がして、今度こそ静寂が訪れた。