不思議な友人
ジーク。
彼がそう呼べと言ったから、ルシェリアはそう呼んでいる。
今のルシェリアと唯一まともに会話をしてくれる人間だけれど、出自も、本名も何もわからない。その容姿はとても美しく、それでいて快活で、それですら本物かどうか確証はない。
ただ彼とのお茶会は、数年前に彼がルシェリアの部屋の窓をノックした時から、不定期に、こっそりと開催されていた。
「それで?」
優雅に紅茶を嗜みながら、目の前の麗人は首を傾げる。
その動作に伴ってさらりと揺れた薄茶色の髪が、彼の肩先で跳ねた。
その瞳は何があったのか、どうしてルシェリアがこんな所にいるのか早く知りたいと言外に語っている。
ルシェリアは少しきまり悪い思いで髪を指で軽く梳き、嘆息する。
「…………部屋を、燃やしたのよ」
ぽつりとそう呟いた時、目の前の人の、ティーカップを持ち上げる手がピタリと止まった。
ぱちぱちと瞬いて、しばらくしてから彼は口を開く。
「……………えっと。あの部屋、最上級の魔法遮断能力を持つ素材でできていたよね」
「ええ。というか、ここに来る過程で見たんじゃないの?あの部屋の惨状を」
先程「屋敷に居ないと思ったら」と言っていたので、屋敷を見に行ったのかと思ったが。反応を見るにそうでは無いらしい。
目の前の人は顎に手を当てて、部屋を見上げながら答える。
「魔力探知だよ。ルーシェの魔力はわかりやすいから、あの部屋にいないことも、ここを探すのも容易かった」
「ああ……」
ジークは、魔法に秀でている。
そもそも魔力を持って生まれること自体が珍しいこの国で、魔力探知を正確に使いこなせる人はこの国では両手で数えられるほどだろう。
(本当に何者なのか疑問だけれど、聞いても答えてくれないもの)
髪をいじりながら少し視線を下げると、彼の柔らかな声が降ってくる。
「よくやるねえ、まさか部屋を燃やすとは」
「ここまでしてもまさか隔離されるだけとは思わなかったわ」
「ははっ。ルーシェの憧れる自由な生活とやらは、だいぶ道のりが遠そうだね」
そう言ってジークは、こちらのことなどお構い無しに楽しそうに柔らかく笑う。
その綺麗な顔を見て、なんだか複雑な気持ちになった。
(……………はぁ)
心の中でそっとため息をつき、目の前に用意した、彼からプレゼントされたティーセットのスプーンに触れる。
「……………本来、公爵令嬢たる私に“自由な生活”は無縁なもの。望むことすら烏滸がましいこと。けれど」
ルシェリアはそこで息を吐いた。
スプーンをすくい上げ、元々置いてあったルシェリアのティーカップの中の紅茶に、ゆっくりとそれを浸す。
「これじゃあ、しょうがないわよね」
「……………ルーシェ」
ジークが軽く目を見張ったのが、見なくてもわかった。
紅茶に浸した部分のスプーンははっきりとどす黒く変色している。
この紅茶は、昼食時にメイドが用意したものだ。
ジークが飲んでいるのは、ルシェリア自身が用意したものなので、当然毒は無い。
少しの沈黙の後、はぁ、とため息をつきながら、ジークはガシガシと頭を触る。
「まさかエリュール地方のティーセットが欲しいと言っていたのは、このためだったの?」
「毒の類は香りや勘である程度判別はできるし、私には『対異常の加護』があるから誤って飲んでしまってもあまり聞かないけどね。最近はどこから仕入れているのか、分かりずらい上に強力な物が増えて困ってたのよ」
「どうりで。君が物を欲しがるのは珍しいと思った」
エリュール地方は精巧につくられた銀食器が有名である。
以前ジークがルシェリアの元を訪れた時、近々エリュール地方に行くと言っていたのでそれをお願いしたのだ。
「……………これを命じているのは」
「十中八九お義母さまでしょうね。お父様はここまで軽率に私を殺そうとはしないもの」
本邸にいた頃から、毒を盛られるのは珍しいことでもなんでもない。むしろ日常茶飯事とまで言える。
恐らくコレの主犯である継母は、最初は魔法薬を使ってしっかりと殺しに来ていた。
しかし、魔法薬とは薬の形とはいえ魔法が関連しているもの。魔力探知を習得していれば嫌でも気付いてしまう。結果、ルシェリアは魔法薬が含まれた料理を何回も窓から捨てなければならなかった。
そうして魔法薬の毒が意味を成さないことに気付いた継母は、オーソドックスに普通に毒薬を盛るという手段に出た。
そうなると判定が難しいものも出てくるのだ。
ルシェリアは元来神がかっている『勘』を持つ。『加護』という特別な能力のうち、ルシェリアの持つ『対異常の加護』によって、なんとか重傷は回避出来ていたが、流石に心もとない。
ジークを利用する形になったのは申し訳ないが、銀食器を入手出来たのは非常に嬉しいことだ。
「なるほど、ここまでされていたらそりゃこの家から逃げたくなる訳だ。そして、そのためには第2王子との婚約解消が必須だと 」
「………………」
そう納得したように言うジークにルシェリアは沈黙する。
この家を出ること。
それが今のルシェリアにとって最優先事項であり、それを阻む第2王子との婚約をまず何とかしなければならない。
けれど、それだけではない。
(私には、家を出てやるべき事ーー悲願がある)
本当の目的はそのもっと先にある。
もちろん、しょっちゅう食事に毒が盛られるようなこんな家にずっといるなど考えたくもないが、それ以上にルシェリアには、やらなければならないことがあった。
ルシェリアは別のティーカップに新たに自分の紅茶を入れる。だがそこで、先程まで楽しげに笑っていた声が聞こえない事に気がついた。
「…………………」
「……………ジーク?」
黙り込んだジークは先程までとは違い、神妙な顔で変色したスプーンを見つめている。
俯きがちだからか、その瞳には長いまつ毛の影が重なり、明るい空色が海の色のように見えた。
「………………思ったより」
「どうしたの?」
「………………いや、何でもない」
ジークがここまで真面目な顔をしているのは珍しい。先程の楽しそうな笑顔を浮かべていた青年と同一人物とは思えない。
(なにか考えているようだけど。その姿ですら絵になる)
年頃の令嬢なら間違いなく見惚れてしまうような美貌を持つ彼は、そこでふと視線を上げた。ぴたりと目が合い、彼の海色の瞳に心臓が跳ねる。
「急用ができた。今日はここで失礼するよ」
「え、急ね」
「また来るから」
そうして席を立った彼はやはりいつもとどこか違う。少し焦っているような、憤っているような、そんな様子が見て取れた。
(………やっぱり安易に話さない方が良かったかしら)
そう思って、変色した銀のスプーンに視線を落とす。
彼はルシェリアとは完全に無関係だからこそ、気負いせずに話すことが出来る。ルシェリアは長年話し相手がいなかったから、普通はそう簡単に話してはいけないようなことも、話してしまっているのは自覚している。
(けれど流石にコレは、重かったか)
公爵令嬢が隔離され、毒を盛られているなど好んで知りたいようなことでは無い。
今度からもう少し、話す内容は選ぼうと、そう思っていると突然視界が暗くなった。
驚いて顔を上げると、すぐ目の前にジークの顔があった。見れば見るほど整っているその顔と瞳を、吸い込まれるように見つめてしまう。
「目、閉じて」
いつもとは違う、そう囁くような低く掠れた声に、またもや心臓が跳ねる。有無を言わせないような響きを含むその声に、ルシェリアはむしろ抵抗なく目を閉じた。
そうすると、カサリと音がして、首に何かをかけられたような気がした。
「開けていいよ」
そう言われて胸元を見下ろすと、そこには海の様な青色に輝く宝石のネックレスがある。
一目でわかるその高価な物に瞠目し、勢いよく顔を上げてしまう。
「お守り、つけてて」
けれど、安心する柔らかい声が降ってきて、視線を目の前の瞳に合わせた。彼はふっと笑ってルシェリアの髪を掬いあげる。
戸惑いがちに目を伏せながら、視界にその青の輝きを収めてルシェリアは問う。
「………………これは」
「まってて」
けれどルシェリアの声を遮って、彼はそう言った。
自分の問いには答えず、変わらず有無を言わせない声でそう言うジークを、ルシェリアは見つめることしか出来ない。
少しの沈黙の後、彼の顔に柔らかな笑みが浮かんだ瞬間、開け放った窓から突風が吹いた。
驚いて目を閉じ、そして開いた時には、ジークの姿はもう無かった。