2. 声は届かないと思っていた
前回、配信中に流れた一言──『お父さん?』
それは“かつての名前”で呼ばれた、たった一つのノイズでした。
今回は視点を変え、仮面の裏にいる男ではなく、
その“声”を送ったかもしれない少女の側から物語が始まります。
届かないと思っていた声。
でも、もしかしたら、あの人に──届いていたのかもしれない。
スマートグラスの画面に、階段が映っていた。
白く、異様に滑らかで、どこか現実感を欠いた構造物。
画面の奥にいる誰かは、その階段を淡々と降りていく。
見るたびに胸がざわつくのは、なぜなのか。
「……やっぱり、似てる」
独り言のように呟いた声は、録画配信を流すだけの静かな部屋に吸い込まれていった。
部屋の主、インゲン・ブレイドはソファに沈み込んだまま、動かない。
髪はくしゃくしゃで、脚を抱えて丸くなった姿はどこか少女のようにも見えた。
自分がこんなにも弱かったことを、最近ようやく認められるようになってきた。
だからこそ、あの人に似た誰かの配信を、繰り返し見てしまうのかもしれない。
……亡くなったはずの父。
「でも、そんなわけないよね」
グラス越しに流れた映像の中で、階段の前に赤いレンズのようなものが現れた。
その直後、カメラが一瞬ブレる。まるで……空間が歪んだような動きだった。
コメント欄が爆発する。
『今の回避ヤバすぎ』
『動きが人間じゃない』
『滑った?浮いた?』
『#血に飢えた狼』
「……血に、飢えた、狼……」
口に出してみたその名前が、やけに胸に残った。
そして、もう一つ。
そのコメントの中にひとつだけ、ぽつんと流れた短い一文。
『父さん……?』
再生が止まり、グラスのレンズに黒が戻る。
インゲンはゆっくりと起き上がった。
少し俯き、ぽつりと呟く。
「……今日のネタは、十分かな」
それが、偶然にも彼と同じ言葉だと、彼女は知らない。
続けるように、囁くように付け加えた。
「……会いたいな、パパ」
言葉にした途端、胸の奥がじんわりと熱くなった。
会いたい——そう思った瞬間、記憶の底に沈んでいた光景がふっと浮かび上がる。
「パパ、行こっ!」
小さな自分が、父の大きな手を引っ張っていた。
満員電車の中でへとへとになって帰ってきたその人は、ほんの少しだけ目を細めてから、疲れた体を起こした。
「もうちょっと、休んでからじゃダメか……?」
「やだ!今!」
「……じゃあ、ちょっと待って。顔洗ってくる」
その背中が、重そうなのに、どこか嬉しそうだったのを覚えてる。
休日出勤の代休が取れた日には、ふたりで電車に乗って遠くの水族館へ行った。
駅までの道を歩いているとき、ふざけて「父さん!」と呼んでみたら、少しだけ困った顔をしてから笑われた。
「なんだ、いきなり。急に距離あるな」
「だって、お姉ちゃんっぽいでしょ?」
「……俺にとっては、ずっとパパなんだけどなあ」
そう呟いていた横顔を、なぜか忘れられなかった。
けれど、それはもう、昔のことだ。
両親が離婚したのは、小学校高学年のときだった。
理由は、仕事ばかりで家庭を顧みなかったから——ということになっていた。
母は「あの人はお金さえ送ってくれればいい」と言い放ち、ほとんど会話をしなくなった。
それでも父は、月に一度の面会日に必ず来てくれた。
どんなに疲れていても、自分の好きな場所に連れていってくれた。
そのたびに笑顔が少しぎこちなくて、でも一生懸命だった。
新しい父親ができたのは、そのすぐ後だった。
母が再婚した相手は、話しやすくて、優しい人だった……表面上は。
でも、違った。
あの人は、手を繋いでもどこか冷たかった。
声は穏やかでも、自分の好きなものにはまるで興味を示さなかった。
何より——自分を「娘」として見ていなかった。
転機は、ダンジョン適性の検査だった。
高校への進学を控えていた頃、私は勉強も運動もぱっとせず、自分の将来に漠然とした不安を抱えていた。特にやりたいこともないまま、流されるように日々を過ごしていたある日、面会に来たパパが、ぽつりと呟いた。
「ごめん、これからあんまり会えなくなるかも」
突然の言葉に、胸の奥がざわついた。
理由を聞くと、会社のリストラで退職せざるを得なくなり、養育費を払うためにダンジョン探索者の資格を取ったという。
「本来なら関係ない部署なんだけど……なんか、責任押しつけられてさ。まあ、しょうがないよな」
そう言って笑ったパパの顔は、どこか無理に作ったような笑顔だった。たどたどしい説明の中から、理不尽な現実と悔しさが滲み出ていた。
でも──私は、思った。
これはチャンスかもしれない、と。
もし私もダンジョン探索者になれたら、パパと一緒に探索に行ける。配信だってできるかもしれない。あの人の背中を、もう一度近くで見られるかもしれない。そう思ったら、心が少しだけ前を向いた。
私はすぐに、政府が推進していた「ダンジョン適性評価制度」に応募した。
──そして、すべてが変わった。
検査は、医療データによる身体的・精神的な適性の確認。そこで、思いもよらない事実が明らかになった。
DNAの一致。
それは病気や素質ではなく、もっと根源的で、避けがたい現実を突きつけてきた。
「一致率:99.7%──親子関係と判定されます」
無機質なAIの音声が、感情のかけらもなくそれを告げる。
でも、周囲の誰もその言葉に疑問を抱かなかった。
親と子なら、DNAが一致するのは当然。
──そう思い込んでいるから。
誰も知らないのだ。
今の父親は、母の再婚相手だということを。
心の奥で、焦燥がじわりと広がる。私は、必死に平静を装いながら、探索者として登録されている──つまり「パパ」とのDNA検査を依頼した。
「遺伝情報一致率は0.1%未満です」
結果は、あまりにも冷酷だった。
……その瞬間、心が何かに殴られたようだった。
あまりにも静かで、あまりにも強烈な衝撃。
声も、涙も、何も出てこなかった。
誰も教えてくれなかった。
母も、新しい父も──そして、本当のパパは、そのときすでに、私の前から姿を消していた。
けれど、もっと胸を締めつけたのは……。
パパに、なんて言えばいいのだろう。
私の中で「本当の父」だった人に、これを伝えたら、あの人はどんな顔をするのだろう。
インゲンは深く息を吸い、ソファの肘掛けに額を押しつけた。
泣きたいのに、涙は出なかった。
今の自分は、誰の娘なのだろう。
遺伝子?書類?それとも──一緒にいた時間?
「……やっぱり、私は、パパの娘だよ」
そう呟いた声は、ひどくかすれていた。
グラスの中に、通知が浮かぶ。
【コラボ提案:トレンド上昇中・ネタ枠系新進探索者】──Even Laive
その名前を見た瞬間、心臓が跳ねた。
画面にサムネイルが表示される。それは、階段だった。白く、滑らかで、異様なまでに静かな構造物。
「……また、あの階段……」
指が震える。けれど、そのまま画面を睨みつけるように見つめた。
グラスに流れる情報の欄に、視聴者タグが複数表示されている。
『#血に飢えた狼』
『#滑るネタ枠』
『#死角からの神回避』
インゲンは、そのうちの一つを指先で弾いた。
『#血に飢えた狼』
「……狼って、パパだけでいいんだよ……」
呟いた言葉に、自分でも驚くほどの棘が混じっていた。
思考が混乱し始めていた。
通知の画像は、全く違う。無骨さも力強さも感じさせない、ナヨナヨした同世代の男の娘。
パパとは似ても似付かない。
インゲンはそっと視線をそらし、もう一つの通知を開く。
【企業案件:商業探索チーム編成希望/推薦候補:Ingn Bleid】
読み慣れた言葉が、冷たい現実を連れ戻す。
──今は、考えるのをやめよう。
彼女は、ため息をついて通知を閉じた。
会いたいのは、お金じゃない。求めているのは、数字でもなければ、案件でもない。
……私は、パパに会いたいだけなのに。
[To Be Continued]
お読み頂きありがとうございます。
第二話は、娘側──インゲンの視点でお届けしました。
「父の死を乗り越えたつもりだった娘」が、偶然出会った配信者に揺らぎを見せる話です。
仮面の下にいる“かもしれない人”と、
仮面越しにしか伝わらない“かもしれない想い”。
次回は再びイーヴンの視点へ戻ります。
彼があの声にどう向き合うのか、ぜひご期待ください。
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