1. 仮面の下に、血はまだ熱い
この物語は、仮面をかぶった“ネタ系ダンジョン配信者”が、
ふとした一言から、“かつての自分”と向き合うことになるお話です。
女装、仮面、フリルの奥に隠されたのは、忘れられた過去と、すれ違った家族の記憶。
バズることもなく消えた元・英雄のその後を、ゆっくりと描いていきます。
※なお本作は、カクヨムにて連載中の本編
『バズれ!男の娘ストリーマーの遺構ツアー』の前日譚にあたります。
ダンジョンを支配するのは、張りつめたような静寂だった。
空気はひんやりと肌を撫で、息をするのもためらわれるほどの沈黙が、あたりを覆っている。天井も壁も、うっすらと発光しているようにぼんやりと明るく、ライトを点けなくても足元がわかる程度の光が漂っていた。
その中で、彼はそっと肩のハーネスに手を伸ばし、配信用カメラのスイッチを押す。
【配信開始】
無機質なシステムボイスが、ヘッドセット越しに冷たく告げた。音は機械のくぐもった響きとなって鼓膜に届き、空気の静寂をわずかに震わせる。
視線の先、モニター越しの画面は一切動かない。
配信開始のチャイムが鳴っても、コメント欄は沈黙を保ったまま。視聴者の気配はどこにもない。タイピングの音どころか、電波のざらつきすら感じられないほどだ。
ただひとつ、映像の中央に映っている『白』だけが、ぬめるような動きで、螺旋を描き続けていた。
——白い階段。光を反射する滑らかな表面。手すりのない、どこまでも滑らかな構造。
モニター越しでも異常だと感じ取れる。構造物として存在してはならない、建築的な禁忌がそこにあった。
階段を真正面に捉えたまま、俺はゆっくりと息を吸い込む。
「……行くか」
それだけを呟いて、俺は足を踏み出した。
階段に近づくと、まるで時間が止まったかのように感じた。周囲の空気が重く、緊張感が漂う。視聴者の反応が気になるが、今はそれを考える余裕はない。俺の心臓は高鳴り、手のひらには冷や汗が滲んでいた。
そして、腰のあたりからいきなり始まる階段に飛び移ると、一段、また一段と白を踏みしめる。
不意に、あることに気づく。
足音が、ない。
硬質な階段のはずなのに、靴底が空間に吸い込まれるような沈黙を生んでいる。
(……またか)
俺は薄く息を吐く。いつからだったか、これが普通になっていた。
コメント欄にはまだ反応がない。奇妙な沈黙。まるで、俺の配信がこの世界から切り離されているかのようだ。
「これは……本物か?」
自分でも気づかないほど小さな呟きが漏れた。
その白い階段はどこまでも続いていた。滑らかな螺旋は反響音を吸い込み、俺の足音すら霞ませる。
脳裏に蘇る記憶——ここは、俺があのとき彼女を送り返した場所だった。
最奥の装置。
強制的な転送装置と、拒絶された者への処理装置。
そして、俺だけが残された。
あれから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。目の前にある階段は、再び俺を試そうとしているのかもしれない。
「……よう。久しぶりだな」
機械には伝わらない挨拶を投げかけ、俺はさらに降りていく。
視界に現れたのは、以前と同じ場所——中央に円形の凹み、その周囲に設置された不可解な装置群。そして、赤いレンズのような物体が、こちらをじっと見つめていた。
突如、階段の影がうねり、黒い粘液のような物体が飛びかかってきた。
反射的に、俺は空いている方の手でワルサーを抜いた。
視界を捉えるよりも早く、銃口が持ち上がる。
一発。間髪入れず、もう一発。
9mmパラベラム弾が二度、鋭く跳ねた。
着弾と同時に、粘液体は悲鳴のような音を立てて壁に叩きつけられ、崩れ落ちる。
粘性の高い外殻の内側に、反応性の高い神経核が隠されていたのだろう。
通常の銅で被甲された9mmパラベラム弾だと貫通するはずだが、殺しきるには十分だったようだ。
(……まただ)
ダンジョンの影響だろうか、たまに弾丸が謎な軌跡を描く。
コメント欄が一斉に騒ぎ出す。
『え、今なんか撃った?』
『カメラほぼ動いてないんだけど』
『視線外からの奇襲なのに即応とか意味わからん』
『照準ナシであの反応ってマジ?』
『……この反応、あいつだ』
『鉄狼に似てる……ってか、可愛い鉄狼とか意味わかんねぇw』
『#血に飢えた狼』
P5のリコイルを受け止めた手が、一瞬だけわずかに震える。
だが、視界は微動だにせず階段を捉え続け、俺は無言のまま銃を肩から吊ったホルスターに戻した。
マグナムじゃないから、火力も破壊力も、往時には遠く及ばない。
それでも、迷いのなさと速さだけは、昔のままだ。
それが当時を思い出させる理由だとしたら——皮肉な話だ。
再び視界に現れたのは、以前と同じ場所——中央に円形の凹み、その周囲に設置された不可解な装置群。そして、赤いレンズのような物体が、こちらを見つめていた。
騒がしい。だが、どこか懐かしい。俺は何も言わず、赤いレンズの前に立つ。
心臓が高鳴る。過去の記憶が蘇り、胸の奥がざわめく。
俺がその目前に立った瞬間、レンズが微かに駆動音を発する。
機械の“目”が反応した。
直後、床面が一気に反転し、鋭く跳ねるような杭状の機構が俺の足元を狙って飛び出す。
「チッ──」
咄嗟に重心を後ろへ流し、床と靴底の感覚を滑らせる。
俺の身体はまるで氷の上を走るような軌道で後方へ滑り抜け、杭の鋭端を紙一重で回避した。
回転、着地、静止。同時に取り戻す、足下のグリップ。
ほんの一瞬。
だが、コメント欄は爆発していた。
『今の見た!?』
『今スライドしたよな?』
『床、滑った?』
『動きが過ぎる』
『おいおい、あれネタ配信の動きじゃねぇぞ』
『#血に飢えた狼』
『#アクロバティック鉄狼』
視界を戻すと、杭はゆっくりと格納されていく。
レンズが脈動するように光を瞬かせ、何かを“判断した”かのように沈黙した。
俺は何も言わず、わずかに息を整えると、もう一度その前に立つ。
今度は何も起きなかった。
ブツッ。
ブツッ。
ブツッ。
配信が、一瞬だけ乱れる。
視界が揺らぎ、周囲の音が消えかける。
そして、レンズが再び脈動した。
ブツッ。
その瞬間、ヘッドセットから微かな音声が漏れた。
『……とう、さ……ん……?』
ノイズ混じりの、だが確かに聞き覚えのある、少女の声。
心臓が一瞬止まったような気がした。
だが俺はそれを振り切るように、踵を返す。
「撤退する。今日のネタは……十分だろ」
言いながら、俺はゆっくりと階段を上っていく。
視聴者のコメントは止まらない。だが、誰一人としてこの声の意味を知らない。
俺だけが、それを知っている。
かつて、守りきれなかった“娘”の声を——。
[To Be Continued]
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第一話、いかがでしたでしょうか。
仮面とゴスロリ姿のネタ配信者が、どこか懐かしい声に出会ってしまう。
そのとき、止めたはずの時間が、再び動き出します。
本作は、カクヨムで連載中の本編『バズれ!男の娘ストリーマーの遺構ツアー』と世界を共有しており、
そちらでは他の探索者とのやりとりや、やや文芸寄りの展開も描かれています。
今作では、仮面をつけた父親の姿を通して、過去の重さと現代の軽さが交錯する物語をお届けしていければと思います。
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