第五話
「よし」
悟は最後の段ボールを床に置いて軍手を取ると大きく伸びをした。
四十五歳になった悟達は細胞分裂機の小型化に成功した。分裂機の動力以外の部分を調べ、それぞれのメーカーの知り合いに連絡を取り、最新のより小型の物に取り替えて行くと、業務用の冷蔵庫二台分程の大きさがある分裂機は、最終的に芝刈り機ほどの大きさにまで小型化する事に成功した。
分裂機を持ち出せる大きさに変えた悟は、郊外の中古の一軒家を買って引っ越した。家を買うのはもはや庶民には高い買い物だったが、悟から見れば大した額ではない。他の家からは離れているので、これで周囲を気にすることなく分裂できる。
二人でタンクを部屋に運び込み、分裂機やパソコンを取り付けると作業を切り上げ、コーヒーを入れて一息ついた。
「残りの部屋は交代しながら片付けよう」
「ああ。記憶を諦めるのはまだ早い。自分の意識のまま不滅になるのが理想だからな。が……六十になったらもう一体作りだして引継ぎしよう」
「ああ」
引っ越しをすませ、研究所の部屋で書類を整理していると所長がやって来た。
「ちょっといいかな」
「はい……どうかしましたか?」
さり気なくモニター上の研究が表示されているウィンドウを消しながら答えた。
「いや、僕は今月で退職だから。新しい所長は渡辺君に任せようと思ってね」
はっとして悟は所長を見つめた。所長はすっかり頭髪は薄くなり、残った髪も真っ白だった。
「そう……ですか。時の経つのは早いですね。いつの間にそんなに老けたんですか?」
「それハラスメントだよ。ふふ、君もすっかりおじさんだね」
「そうですね、研究に夢中で気が付きませんでした」
「はは、君らしいな。家買ったんだって?」
「ええ。これからは頼まれた仕事だけこっちで済ませて、自分の研究は家でやろうと思いまして。僕が生きているうちに終わるかは分かりませんが」
「そうか、君がそんなに時間をかけるんなら人類にとってさぞ素晴らしい研究なんだろうね」
「そんな大袈裟な物じゃないですよ」
「君が謙遜したら他の人が気の毒だよ。まあいいか、用件はもう一つ。いいかな?」
所長は近くの椅子を指差すと悟は頷き、所長は静かに座ると、鞄から束になった書類を綴じたファイルを取り出した。
「君には今まで言わなかったがね、僕は数年前ガンになったんだ」
「え?」
「君の研究から実用化された治療で僕はガンを治すことができたんだ」
「そうだったんですね」
「君のおかげで僕はこうして今生きている。本当に感謝しているんだ」
面と向かって礼を言われて悟は少し気恥ずかしさを覚えた。
「それは……どうも」
「だからね、弁護士や医療団体、その他の色んな人に声をかけて、君の特許とその周辺の技術を整理した。今後その治療が行われた場合、医療機関から報酬が君に支払われるように契約を手配しておいたよ。これがその書類だ。この同意書にハンコだけ押してくれればそれで完了だ」
そう言って所長はファイルと同意書を悟に渡した。悟はざっと目を通した。確かにそのような事が書いてある。こんな時に疑ってしまった自分を恥じながら印鑑を押して同意書を返した。
「これは私から弁護士と渡辺君に渡しておく。心配はいらないよ。もし君がここを去ったら、今後はそれを研究資金に充てるといい。おそらく生きているうちには使い切れないと思うがね」
「それは……ありがとうございます」
所長が立ち上がって手を差し出すと、悟も立ち上がって遠慮がちに握った。
「世話になったな」
「こちらこそ」
「渡辺君には僕から伝えておくよ。君は研究に集中するといい」
「……はい」
部屋を出て行く所長の背中は小さかった。