第二話
悟が研究所に入ると、オフィス越しに見える同僚や廊下ですれ違う人と挨拶だけして通り過ぎた。お互い人手が欲しい時は協力を頼む事はあるが、それ以外は友達のように仲良くするという事はせず、ビジネスライクな距離を保っている。
悟はコーヒーを入れてカップを持ちながら研究室に向かって歩くと所長と出くわした。所長はオールバックの髪を撫でながらにこやかに挨拶した。
「やあ悟! 元気かね?」
「ええ」
「君のおかげで我が社は安泰だ。色んな病院と契約が取れたからね。僕の古かった車もようやく買い直せました。いやー感謝感謝」
「それは良かったですね。ずいぶん走ったみたいですからね」
「ああ。記者会見ももう無いし世間も落ち着いた所だ。そろそろ新しい研究に挑戦するんだろ?」
「ええ。といっても前回のような物じゃないですよ。現状のパフォーマンスを上げるような研究ですから」
「うんうんそうかそうか。ならよろしく頼むよ! 君は既に我が社に十分な貢献をしてくれたからね。スキャンダルさえ無ければそれで良し!」
悟は軽く肩をすくめた。
「大人しくしてますよ、大丈夫です」
「君は本当に頭がいいな! はっはっは! じゃあな!」
そう言って所長はうんうんと頷いて去って行った。
所長は化学については素人だ。経営陣とはそんなものかもしれないが、悟は利益を出せば余計な口を挟んで来ない所長が結構気に入っていた。
(あとは所長が退陣するまで大人しくしてろって事ね)
悟は研究室に入ると照明を点けた。一般的なオフィスビルの丸々一階分程ある広い研究室で、パーテーションで手前と奥の二つに区切ってある。悟は手前の空間に置かれたデスクに座るとモニターに映し出された株価チャートを眺めた。政府からもらった金の一部を投資に回し、暗号資産も一千万円分程買ったので多少は興味が湧いて見るようにはなった。
(投資なんてつまんないもんだな。確たる理論も無いし……)
悟は株のサイトを閉じるとコーヒーを飲み干してカップをゴミ箱に捨てた。
「ま、詐欺には引っ掛からないように勉強にはなったかな」
悟はスマホを操作して佐藤隆に電話をかけた。
「もしもし」
「悟か」
「ニュース見たよ。残念だったな」
「ああ、あれはさすがに堪えたけどな」
「なんていうか……大丈夫なのか? 責任取らされたりとか、色々あるだろ?」
「大丈夫だ。役員にはだいぶ失望されちまったがそんなのはいつもの事だ。それに熱意があるスタッフが残ってくれてる。類は友を呼ぶって奴だな。予算は減らされちまったけど、俺は諦めないよ」
「そうか。凄いな」
「お前程じゃないよ」
「いや、俺はたまたま上手く行っただけなんだ。嫌味に聞こえるかもしれないが本当だ。それに頑張ったのは自分のためだ。お前みたいに人類のために頑張った訳じゃない」
「俺はまだ何も結果を出せてないけどな。世界に一人ぐらいそんな奴がいたっていいだろ?」
「ああ、頑張れよ」
「じゃあな。未来のヒーローに何かおごれよ」
「月見うどんならな」
通話が切れると悟は椅子に背を預け、しばらく目を瞑った。
(人類のため……か。分からないな)
悟が立ち上がって部屋の奥に行くと、パーテーションの奥に人間がまるごと入れる大きな円筒状のタンクが姿を現した。中の液体がコポコポと小さく泡立っている。悟はキーボードを操作して数値を調整すると楽しそうにタンクを眺めた。
「もちろん大人しくしてるさ。これを他人に知られるなんてもったいない。フ……フフフ……」