第十話
悟は六十五歳となり定年を迎えた。所長室をノックして入ると新所長の渡辺はため息をついた。
「そうか。君の研究は終わらなかったか。もう一度世間を喜ばせるニュースが聞きたかったが、残念だな」
「ご支援ありがとうございました」
「うちもあと何年保つかはもう分からないんだ。君の発表以来、目立った功績は無かった。うちはもう投資家達にも期待されていない。援助を打ち切るそうだ。会うのはこれで最後になるだろうね」
「そう……ですか。残念ですね」
「君がもしこれから先、また何か発表する事があれば、この研究所を続けて良かったと思えるだろう。期待しているよ」
「ありがとうございます」
握手をして研究所を去り、悟は帰って来るとため息をついた。
(発表ね)
正直研究は行き詰まっていた。確かに細胞分裂の試験は何度も繰り返したおかげで安定性は格段にアップした。より小さい細胞から増やせるようになり、これなら今後、新しい悟を生み出し続けるのに問題は無いと考えてよかった。しかし、やはり記憶の引き継ぎは不可能だった。
「所長の所に行ってきたのか?」
シャドウがオリジナルに声をかけた。
「ああ。研究所への援助が打ち切られるそうだ。若が俺達くらいの年になる頃にはもう無くなっているだろうな」
「……そうか。茂の就職先にいいなと思っていたから残念だ」
「若はどうしてる?」
「二階の資料室で本を読んでいるよ、ちっとも降りてこない」
「何かひらめきになる物を探してるのかもしれない」
「ああそうだな」
シャドウはしばらく何か考えていたが、やがて昼食を作るためキッチンに戻った。オリジナルはシャドウを見て思う。もしかして記憶は引き継げない方が良いのかもしれない、と。
(シャドウは俺とはだいぶ考える事が違って来た。もし彼のような悟の記憶をどんどん引き継いで行ったら、やがて人格に問題が発生するかもしれない)
昼食を摂っているとシャドウのスマホが鳴った。現在スマホは二台ある。一台は元々のスマホ、そしてもう一台は連絡用だ。最近外出するのはシャドウばかりのため、最初の一台はほぼシャドウ専用になりつつある。
シャドウが画面を見ると佐藤隆の妻、詩織からだった。
「詩織さんからだ。隆が入院したらしい。病院に行って来る」
「入院? 大丈夫なのか?」
「過労だそうだ。あいつももう年だからな」
シャドウが病室に行くと隆は割と元気そうで、詩織と茂の三人で話していた。
「やあ悟」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。医者も念の為に入院してけって言ってただけさ」
「ならいいけどな」
「それより聞いてくれよ、ロケットが完成したんだ!」
「本当か?」
「ああ。あとは発射実験をするだけさ。早く退院しないと」
「今日入院したばかりでしょ。まったくもう」
和やかな病室の中で茂だけが浮かない顔をしていた。
「じゃあ俺は帰るよ」
「ああ。すまなかったな」
「茂、帰る前にジュースおごってやる。カフェに行くぞ」
「え?」
「そんな! 悪いわよ」
「いいからいいから。行くぞ茂」
「あ、うん」
シャドウは茂を連れ出すとカフェでジュースを買い、自分はコーヒーを頼んで一口飲んだ。
「それで? 何かあるのか?」
「え?」
「何か心配事があるって顔してるぞ」
「お見通しですか」
「ああ」
茂はジュースが入ったカップを包み込むように持ってうなだれている。
「金が要るんです」
「金? 隆の入院費か?」
「いえ、父さんは関係ありません。僕自身の問題です」
茂は一度深呼吸して話し出した。
「皆も知っての通り父さんはかなりの変わり者です。人のため、人類のためだといつも言って働いてます」
「ああそうだな」
「でも僕はそういう父さんが好きで。僕も父さんの後に続こうと思って勉強してたんですが、どうも上手く行かなくて」
「まだ高校二年だろ。そんな物これからはいくらでも挽回できる」
「ええ。けど三年前の僕はまだ中学生。そんな事も分からずに思い詰めてしまい、投げやりになってしまって。それで不良グループに一時期入ってた事があるんです」
「ああ……しばらく家に行っても見ない時期があったな。グレてたのか。すまない、気付かなかった。バイクでも乗り回してたのか?」
「まあたむろしてたりとかですが。実はその時度胸試しで……運び屋をやった事があるんです」
「何?」
「それで……まあその時は上手く行ったんですけど、見張られていたみたいで。そこから足がついてしまってその時のリーダーが逮捕されたんです」
「警察が仕事するなんて珍しいな」
「その時の警察官も薬が欲しかったとかで狙われてたみたいです」
「とんでもない世の中になったもんだ」
許可を取れば(どんな許可なのかなんて知りたくもないが)飲食店でも多少のリスク有りの物が手に入ってしまう今では、運び屋なんてやった所で捕まる事はほとんど無い。それでも法律は残っているため汚職警官が薬物を手に入れるために法律を悪用して捕まえる事がある。運び屋は不良の間で流行っている一種の儀式みたいな物だった。
「それでグループは無くなったんですが。先月、そいつが出所したんです。で、そいつから落とし前をつけろって連絡が来たんです」
「それで金か」
「はい。といっても別にそいつは更生プログラムとかいうので別の街で人生をやり直すそうなんです。だから僕を殺すとかそういうつもりじゃなくて、ただ落とし前として金で決着しろと」
「信用はできないな。まあいいや、それで?」
「来週、二百万払えって言われました。バイトして貯めた百万円はあるんですが残りがどうしても間に合わなくて」
「それで隆に打ち明けようか悩んでたって訳か」
「はい。でもこんなタイミングでは父さんに負担がかかると思って。言えませんでした」
「そうか。心配するな、残りは俺が出してやる」
「え? いやでもそんな」
「隆が元気になったら折を見て話せばいい。まずはその金がいるんだろ」
シャドウはコーヒーを飲み干した。
「お前は大事な友達の息子だ。誰にでも間違いの一つや二つはあるもんだ。そんな事はさっさと済ませて前に進もう」
「ひょっとして悟おじさんも変わってますか?」
「ノーベル賞の人間を捕まえてその質問は無いだろ」




