第一話
『日本の若き天才化学者、世界を変える大発見!』
遠山悟は電車のつり革を掴む手に体重を預け、窓の外を流れて行く昼のビル群をぼんやりと眺めながら、今までの人生で一番注目を浴びた時間を思い出していた。
(カメラのシャッター音が気持ち良かったな)
「たった二十二歳の日本人がノーベル生理学・医学賞を受賞しました!」
悟がレッドカーペットの上を歩きながら外国人のセレブ達と握手をし、にこやかに挨拶する所を、美人のレポーターが興奮気味にまくしたてる映像は、思い出すと今でもニヤついてしまう。
「彼は天才ですよ! 数百年に一度のね。彼がいなかったら文字通りあと百年は医学は止まっていたでしょう」
「彼はついにガンを克服したんです!」
「人類を救った報酬はいくらだったんですか!?」
悟の細胞分裂の速度制御と遺伝子に関する発見はしばらく世間を騒がせた。
悟は自分ではメディアで紹介される程の天才ではないと思っている。苔の一念何たらという奴で、専門の分野をAIや技術を駆使して研究を続けた結果、本当に偶然、努力が実を結んだのだと。しかし結果を出すまで狂気的な努力と試行錯誤を苦と思わない悟は、紛れも無い天才の一人だった。
悟の成果は大きい物で、一か月後に有名タレントの不祥事が報じられるまでは天才イケメン化学者などと持ち上げられ、どこもかしこも悟の話題で持ちきりだった。政府から贅沢しなければ一生困らない程の金をもらい、美人タレントがSNSで次々と自分をフォローして来ると最初はいい気分だったが、毎日毎日スマホの通知がひっきりなしに鳴るようになり、嫌になった悟はアプリをアンインストールした。残った通知はまとめて横にスライドして表示をスルーした。それでおしまいだ。悟には今自分のフォロワーが何人なのか分からなかった。
メディアも悟の天才エピソードなどを掘り出すのに苦労していたのか、視聴者の興味が薄れて来たのを察するとさっさと取材を切り上げ、世間の悟への興味は静かにフェードアウトした。
悟が車内を見回すと乗客の数はまばらで、座っている誰もが皆下を向いて自分のスマホの画面に夢中になっている。電車の吊り広告がぷらぷらと揺れ必死に存在をアピールしているが、それを見る者は一人もいない。
『他人に構うな。自分を喜ばせる百の方法』
『楽しく増やすお金の勉強』
『日本史、令和時代をマスター。おもてなしという概念』
『月面移住、またしても失敗。失意の若きリーダー』
悟はその広告で先週のニュースを思い出した。
悟の唯一とも言える友人、佐藤隆がリーダーを務めている七回目の月面移住計画も失敗に終わり、粉々になったロケットの破片が宇宙の彼方に消えて行く光景は、人類の希望が砕け散った様子を見事に表していた。
しばらくはテレビやネットでもその映像が流されていたが、三日もすると人々はやはり自分の身近な興味に戻って行った。政府の予算は削減され、移住計画に費やす予定だった残りの金は政治家の懐に行くのだろう。しかしそれを表立って非難する者などもういない。人々は社会を改善する努力を完全に諦めていた。
地球温暖化により海水の温度も上昇すると、それによって発生する巨大化した雲により降雪量が増え、日本も雪が積もる地域はもはや住めなくなってしまった。海抜も上昇し、人類が住める場所は限られて来ている。それでも人類は自分の欲望のためにのみ生き続ける。
人類の破滅は近い。ニュースの映像は悟にそう感じさせるのに十分な光景だった。
ゴトン、ゴトンという静かな振動音だけが聞こえる。窓から陽射しが入る車内で、立っているのは自分だけだ。
(静かだ)
悟が今ここでリュックサックを置いて上着を脱いでも誰も気付かないだろう。それくらい他人や政治、環境問題に興味の無い時代。他人の危険を顧みず、利益を追求するため全ての原発を再起動し、スマホは無料で使い放題になった。そして企業は常にスマホの広告で消費者の欲望をかき立て続ける。子供への配慮など全く無い。広告はどんどん露骨に、どんどん下品になっていく。倫理観という物は企業には無い。
金と個人の自由が全てと考える者が圧倒的多数を占めた今、新しい技術に挑戦する者がいなくなり、科学も停滞し、人類はいまだにスマホの呪縛から逃れられない。時折現れる悟のような者が何かを少し変えるだけ。それが西暦二千四百年だった。
(ま、俺の今の研究は嗅ぎつけられたらそれこそ大騒ぎだし……興味を失ってくれてよかった)
悟はリュックを背負い直し、電車の到着を待った。
「次はぁー、御茶ノ水、御茶ノ水ー。お出口は左側です……」