『娘』
―2024年8月22日―
母は酔っぱらうと、いつも初恋の話をしてくれた。母の初恋は大学1年生の頃、初めてのアルバイト先で出会ったサラリーマンだった。鏑木龍之介という男で、年は28歳。19歳の母から見て、年上で社会人の鏑木さんはとても大人に見えたそうだ。
鏑木さんは新入社員で学生の母にとても優しく接してくれて、母はそれがとても嬉しかったらしい。しかしその裏で、鏑木さんは上司からのパワハラと新人社員の育成で板挟みに遭い、毎日遅くまで働いていた。その事実を知った母は、「私が彼を支えたい」と考えるようになった。シフトが入っている日はお菓子を持って行ったり、仕事の補佐を自ら願い出たり、母は母なりに頑張って初恋を実らせようとした。鏑木さんも、そんな母の姿に惹かれていたのだろう。母がクリスマスイブに一緒に過ごしたいと誘った時には、仕事が早く終わるように頑張ると笑って答えてくれたらしい。それは2004年のクリスマスイブ、平日の金曜日だった。イブの夜、母は待ち合わせ場所で鏑木さんのことを待っていた。しかし、鏑木さんは約束の時間になっても現れなかった。母は何度も連絡したが、鏑木さんの携帯電話は電源が入っていない様子で繋がらない。メールも送ってみたが、返信はなかった。あんなに優しい鏑木さんが、私との約束をすっぽかすわけがない。もしかしたら、仕事が長引いているのかもしれない。もし私がここを離れて行き違いになったら…そう思った母は駅から動くこともできず、寒い冬の夜に鏑木さんが来るのをずっと待っていた。目の前を楽しそうなカップルが通り過ぎて行く。本来なら私もあんな風に、鏑木さんと歩いていたはずなのに…母の心は時間と共に寂しさを増していった。当時の母は会社から少し離れた場所に住んでいたため、最終電車の発車時刻が迫っていた。粘りに粘ったが、結局鏑木さんは母の前に現れなかった。電車に乗ると、腕時計は23時を指していた。母は「鏑木さんに嫌われてしまったのだろうか」と、車内で窓の外を眺めながら涙を流したそうだ。そのまま一人暮らしのアパートへ帰宅し、お風呂に入る気力もなくベッドへと倒れ込んだ。母の携帯電話は何度も点滅を繰り返していたが、母はその点滅に気付かぬまま眠りについてしまった。そして母が眠っていた時間、12月25日深夜0時25分。母との待ち合わせ場所であり母が通勤に利用していた駅に到着した最終電車に、鏑木さんは轢かれて…。翌朝。母が起きると、携帯電話には画面いっぱいの不在着信通知が並んでいた。そして、「約束の時間に間に合わなくて、ごめんなさい。」というメッセージが残されていた。
母はクリスマスイブの夜、鏑木さんに告白しようと思っていた。だけど、それはもう叶わない。自暴自棄になった母は、出会い系サイトに登録した。もう誰でもいい、誰でもいいから恋をしたい、悲しみを別の感情で埋めてほしい。そのサイトで知り合った男性とホテルへ行き、その後妊娠が発覚。その男性とは最初に会ったきりで、名前も連絡先もわからなかった。母は通っていた大学を中退して、私を産んだ。そして女手一つで私を育ててくれた。そんな私も今年で20歳になり、母と一緒にお酒が飲めるようになった。母はいつもこの話の最後に、「あの日に戻って鏑木さんを守りたい…」と涙を流す。
小さい頃から聞かされていたせいか、お酒が入っているせいなのか。次第に私も、「過去に戻れるのなら、鏑木さんの死をなかったことにしたい。そして鏑木さんには、母を幸せにしてあげてほしい。」と考えるようになった。そして母が鏑木さんの良いところを何度も話すせいか、母の記憶でしか知らない鏑木さんに惹かれている自分もいた。あの当時の母にできなかったことを、今度は娘の私が…なんて考えることもあった。以前、鏑木さんはどんな顔をしているのか気になった私は、母に写真はないのかと尋ねたことがある。見せてくれた会社の広報誌に写る鏑木さんは、真面目そうで優しそうで…母の話す鏑木さんのイメージにぴったりだった。私も、鏑木さんに会ってみたい。話してみたい。声を聞いてみたい。過去に戻って、鏑木さんを救って、母の初恋を成就させたい。でも、そんなことは不可能だ。夢物語だ。頭ではわかっている。冷静に考えたらできるわけがない。2024年現在、タイムマシーンなんてものは勿論存在していない。じゃあどうすれば過去に戻れるのだろうか。途方もないことを、大学の講義中にぼんやりと考えていた。学校の帰り道も。サークルの飲み会中も。終電ギリギリで駅のホームへと走っている今この瞬間も。ずっと、ずっとずっと考えていた。でも考えたところで、命と時間のやり直しなんてできるわけがない。
駅に着くと、ホームは沢山の人でごった返していた。構内アナウンスによると、人身事故の影響で電車が遅延しているらしい。振り替え輸送を行っているとのことだったが、特別急いでいるわけではなかったためそのまま駅のホームで待つことにした。ダイヤが大幅に乱れ電光掲示板が意味を成さない中、私はようやく乗車することができた。人の波に押しつぶされそうで、気分が悪い。自分の皮膚と他人の皮膚が触れ合う感触が、不快指数を更に上げていく。この現実から逃避しようと目を瞑ったとき、真っ暗の世界に浮かび上がったのは写真に写る鏑木さんだった。もう今となっては、母の初恋どうこうよりも鏑木さんに会いたいという自分自身の欲求のほうが上回っている気さえした。この気持ちは、母と同じなのだろうか。自分自身の気持ちに確信が得られない中、電車が最寄り駅に到着した。雪崩れのようにホームへと降ろされ、改札を抜け、自宅へと向かう。その道中、道路に何かが落ちているのが見えた。しゃがんで顔を近づけて見てみると、不思議な模様の描かれた黄色い封筒だった。
「これ…確か、拾っちゃいけないやつじゃ…。」
子供の頃に流行った絵本の中に、こんな見た目をした封筒が出てきた覚えがある。この封筒に従うと、良いことも悪いことも起こるような…。記憶は朧気で、作品のタイトルもわからないから調べようがない。少々オカルトチックな絵本だったから、おそらく拾わないほうが良いのだろう。だけど今の私は、飲み会終わりでアルコール成分配合の好奇心旺盛な大学生。拾おうか拾わまいか…迷いながらも心がウズウズしてしまう。確か作品としてはハッピーエンドだったから、例えこの封筒を拾ったとしても良いことしか起こらないのではないか。それにあれは絵本の中の話で、今は現実なのだから。オカルトなんて非現実的な話に左右されてたまるか。私は小粋な鼻歌まじりに、封筒を拾い上げると同時に封を開けた。封筒の中には、2枚の小さな紙が入っていた。見たことのない文字がいくつか並んでいるが、形から察するにこれは電車の切符。行先には、2004年と記されている。
「2004年。えっと今が2024年だから、20年前……に、20年前?!」
閑静な住宅街で叫びにも似た声が響き渡り、私は思わず蹲った。だってこんな…もしかして、これは過去へ向かう電車の切符なのではないか。この時の私は酔っ払いということもあり、常識から外れていることに何の躊躇いもなかった。これは奇跡だ!運命だ!私は興奮状態の心を落ち着かせ、改めて手の中にある紙を見つめる。切符のような形の紙を見比べると、もう片方の行先は2024年。つまり現代、今だ。これはきっと、過去と現代を繋ぐ往復切符なのだ。この切符されあれば、2004年に行って2024年に戻ってくることができる。ずっと考えていた夢物語が、一瞬で現実の物になったのだ。私は大きく立ち上がり、天に向かって盛大なるガッツポーズを決めた。そして満面の笑みを浮かべながら封筒を握りしめ、家路へと急いだ。
翌朝。二日酔いによる頭痛に苦しみながら、机の上に置いてある黄色い封筒を手に取る。
「やっぱり…夢じゃない。」
封筒の中を改めて確認する。すると昨夜は気づかなかったが、中には切符の他にもう1枚紙が入っていた。畳まれた紙を広げると、切符に関する説明が記されていた。
『行きと帰りの切符を持って、最終電車に飛び込むこと。』
『飛び込む際、履いている靴は脱いで白線の内側に揃えること。』
『目的地に着いた時、靴は着用状態で目覚めるから問題ない。』
「え、ちょっと待って。」
つまり、過去に戻りたいなら電車に轢かれなければいけない…ってこと?!こんな、本物かどうかもわからない電車の切符を信じて、終電に飛び込めだなんて。いや、でももしこれが本当なら、私は無傷で過去に戻れるということになる。そして帰りの切符も入っているから、未来へ戻る方法について心配する必要もない。信じていいのかわからないが、信じないと前には…いや後ろには進めない。これも何かの縁だ。いや、運命だ。行くしかない。だって私が行けば、鏑木さんは死なずに済むのだから。よし、善は急げだ。こんな非現実的なこと、私の頭で考えたところで何もわかるわけがない。ならばやってみるしかない。私はその日の夜。最終電車に轢かれるために駅のホームへと向かった。母に相談しようか迷ったが、きっと母は私のことを止めるだろう。いや、もしかしたら母が代わりに行こうとするかもしれない。もしそうなったら、私は鏑木さんに会うことができない…それは嫌だ。
「素面で電車に飛び込むのは、さすがに怖いからね。」
私は缶チューハイを一気飲みすると、ホームのごみ箱に空き缶を投げ入れた。
「最終電車が参ります。白線の内側まで下がって…」
構内アナウンスと共に、暗闇で一際目立つヘッドランプが見えてくる。カーブを曲がり、ホームへと向かってくる15両編成の私鉄。あぁ、綺麗な光。私は靴を脱ぎ、白線に沿って靴を並べた。大丈夫。2004年に行って、鏑木さんを助けて、さっさと戻ってくればいい。ヘッドランプが、私を包み込むように照らす。これは夢…そう、夢なんだ。そう言い聞かせながら、私は最終電車に飛び込んだ。
夢と現実の狭間、のような感覚。
昼間なのか、夜なのか、曖昧な感覚。
微かに聞こえる音。生暖かい風。
瞼の向こうが眩しい…。
「……。」
目を覚ますと、私は駅のホームにある待合室にいた。これは…成功したのだろうか。自分の体に目を向けたが、特に変わった様子はない。腕も足もしっかりついているし、動かすこともできる。靴も、説明通り履いたままだ。もし失敗していたら、私は電車に轢かれて死んでいるわけだから…きっと肉体は留めていないだろう。かといって成功した実感もない。成功か失敗か何がどうなったのか、すぐには判断がつかなかった。しかし窓の向こうへ目線を向けると、行き交う人々が真冬の服装をしていることに気がついた。そういえば…この温かい空気…。待合室を見渡すと、エアコンが稼働しているのがわかった。手をかざすと温風を吹き出している。つまり、電車に飛び込む前の世界とは季節が異なっているということだ。しかし最も大切な点、この世界が2024年なのか2004年なのかはハッキリしない。試しに待合室からホームへ出ると、真冬の気温に肉体が驚く。
「ついさっきまで真夏だったのに…ッ!」
夏の服装で極寒のホームを歩くのはさすがに無理だったため、私は急いで階段をおり駅構内を散策してみることにした。しかし季節が変化しているだけで、駅には特に大きな変化もなく。小さな駅でこれといって見る場所もないため、私は再びホームにある待合室に戻ることにした。というのも、実際に歩いてみて待合室が一番暖かかったのだ。ホームにはほとんど人がおらず、待合室に目を向けると窓ガラス越しでも先ほどより人が増えていることに気が付いた。きっとみんな、あまりの寒さに待合室へ避難しているのだろう。扉を開けて空いているイスがないか確認していると、どこからか視線を感じる。視線の方向に目を向けると、そこにはスーツ姿の男性が座っていた。目が合った瞬間にその男性は出て行ったが、その顔には見覚えがあった。
「鏑木…さん?」
こうして私は、母の初恋の相手『鏑木龍之介』と出会うことができた。
そして。時は再び未来へ…。




