『2004年12月24日』
朝起きると、僕たちはシングルベッドで寄り添うように眠っていた。彼女の顔が、まさに目と鼻の先…少し顔を伸ばせば唇と唇が重なるような距離感に、僕は驚いて声が出そうになった。しかし彼女を起こすわけにはいかず、宙に舞った声なき声を飲み込むように深呼吸をした。呼吸を整え、自分自身を落ち着かせる。改めて、彼女の寝顔を見つめた。初めて会った時は、まさかこんなことになるとは思わなかった。最初は得たいの知れない彼女の様子を見て、関わりたくないと思っていたのに。年齢のわりに幼さの残る彼女を、他にも人がいるあの状態で僕だけを頼ってきた彼女を、僕は保護者のような感覚で迎え入れた。そして今では、彼女のことを可愛いとすら思っている。勿論、これは恋愛感情ではない。だって8歳も離れているんだから。いやでもそれを言ったら、夢原さんのほうが彼女より年下…なんだよな。年齢なんて関係ないか。僕は…彼女のことをどう思っているんだろう。まだ会ったばかりだし…でも居心地は良い。だからこうやって、シングルベッドで身を寄せ合うように眠れたのだろう。28年間生きてきて、隣に女性が眠っているなんて初めてのことだ。勿論そんな日々を送りたいと思っていろんな妄想に励んだが、それは妄想のままでしかなかった。妄想に感情は乗らない。だから、女性との添い寝がこんなにも幸福を感じるものだとは知らなかった。もしかしたら僕は、一人でいることに心のどこかで寂しさを感じていたのかもしれない。だから、心の隙間に入ってきた彼女を可愛がっているのかもしれない。もし彼女が夢原さんだったら…もっと別の感情を抱いているのだろうか。いつかこんな風に過ごせたら嬉しいけど…それはきっと、今夜の出来次第なのだろう。
僕は彼女を起こさないよう息を殺して、ベッドから自分の体を引っこ抜いた。そして身支度を整えながら、頭の中で昨夜の出来事を振り返る。終電で帰ってきた僕を笑顔で出迎えてくれた彼女は、夕飯を作って僕の帰りを待っていてくれた。
「シチューは、私の得意料理なんです。」
そう言いながら、彼女がシチューをよそってくれた。美味しかった。こんなに温かい食事は久しぶりで、一口食べた瞬間に僕の視界が少しだけ色づいたのがわかった。心も体も温かくなる。温度を感じる。疲れ切って冷たくなっていた僕の心が、彼女のシチューで解放されたように思う。
「美味しかったよ。ありがとう。」
「お粗末様です。」
食べ終えると、僕は彼女と一緒にお皿をキッチンへと持って行った。女性と二人でキッチンに立つなんて、これも初めての経験だった。疲労感が充満していてすぐに床につきたいはずなのに、まだ眠るのは惜しいとすら感じていた。彼女との時間を、もう少し味わっていたかった。しかし彼女のほうは、少し距離を取っているようにも見えた。それはそうだろう。こんなおじさんと、部屋で二人きりなんて…。それなのに出て行かないのは、どうしてなのだろうか。気になってしまっては仕方がない。
「あのさ…。ここにいて、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫です。私を知っている人はいないし、あなたが心配する必要はありませんよ。」
「そうは言っても…」
「私、おと…いえ、鏑木さんと一緒にいたいんです。」
「え?いや…僕たち、昨日初めて会ったよね?」
「はい。だけど私は…私の目的は、鏑木さんだから。でも立場はわきまえているつもりです。私が奪ったら怒られちゃう…。」
「うん?いやでも、おかしいでしょ。なんで僕なんかのところに君みたいな…」
「えぇっと…。子供ながらに、もう泣いている姿は見たくなかったんですよね。後悔してほしくない。それに私も、このチャンスに賭けたい。だから私は、ここに来たんです。」
「ちょっと…僕には何を言っているのかわからないよ。」
彼女との会話は、絶妙にかみ合わなかった。僕には話せない事情があるのだろう。重要な言葉はあえて口にせず、だけど何か目的があって僕と一緒にいる、そんな様子だった。もっとちゃんと聞きたかったが、彼女はただ微笑むだけでそれ以上何かを語ることはなかった。何もわからないこの状況から少しでも楽になりたくて質問したというのに、彼女の謎は深まるばかりだった。結局、彼女の目的が何なのか、どこからやってきたのか、そういえば名前すらも…何もわからず終いだった。
カーテンの隙間から漏れる朝の光を頼りに歯磨きをしながら、ベッドで気持ちよさそうに眠っている彼女を眺める。彼女と過ごす時間は、荒んだ日々を送る僕にとってはまるで癒しのような時間だ。こんなに穏やかな気持ちになることなんて、少なくとも社会人になってからはなかったように思う。夢原さんとの時間も癒しではあるけど、でも夢原さんとの時間は地獄のような社内でだけだったから…。
「ん……。」
「あ、起きた?おはよう。」
「おはようございます…。」
「僕、もう出るから。」
「うん…。」
彼女はゆっくり起き上がると、玄関へ向かう僕の後ろをついてきた。靴を履き振り返ると、彼女が重たい目を擦りながら立っている。
「今日の夜は予定があるから…えっと…」
「わかりました。あの…」
「ん?」
「終電には、気を付けてくださいね。」
「あぁ、今日は残業しないから大丈夫だよ。行ってきます。」
彼女は僕の言葉を包み込むように、行ってらっしゃいと笑って送り出してくれた。
扉を閉めると、内側から『ガチャン』と鍵の締まる音がした。外は普段と何も変わらないのに、僕の部屋だけまるで魔法にでもかかっているみたいだ。彼女と出会う前はどうだったのかな…。思い出せないくらい、世界が明るく見える。息を吸って吐く、生きる上で当たり前の動作がいつもより軽く感じる。
「たった2日。それだけなのに。」
思わず笑みが零れてしまうくらいに、彼女の存在は僕で大きくなっていた。良い朝だ。毎日終電三昧だというのに…不思議だ。
すれ違う社内の人間に挨拶を済ませ、いつものようにデスクに座り、卓上カレンダーを見る。今日は待ちに待った大切な日。楽しみな夜が待っている。夢原さんと社外で会うなんて、初めてだ。自宅には彼女がいるけど…まだ付き合っているわけではないし、浮気じゃないよな。ハハハ。まさかこの僕が、女性2人と同時にやり取りするなんて。こんなこともあるのだな。もしかしたら…彼女はサンタさんで、遠くの国から僕に会いに来てくれたのかな。プレゼントは…なんだろう。プレゼントは私です!なんてな…ハハハ。彼女も夢原さんも年下なせいか、考え方が少しだけおじさん臭くなっているがそんなことはどうでもいい。僕は嬉しい気持ちを噛み締めながら、パソコンの電源を入れて仕事モードに切り替えた。
「俺、今夜彼女とデートなんだよねぇー!ほら、見ろよこれ。」
「うっわ!指輪っすか?!」
「おうよ!今夜、キメてくるわ!」
「かっけー!!!!僕も今日は、合コンなんで…楽しみっすわ。」
「あんまり、ハメは外すなよ?」
「何言ってるんすか!しっかりハメてきまぁ~す♪」
「アハハハハ!!!」
夕方、営業部の男たちがクリスマスの予定について楽しそうに話していた。僕には関係のないこと…そう思っていたのだが、むしろ非常に関係のある話だった。パソコンに向かって指を動かしていると、先ほどまで盛り上がっていた上司と後輩が話しかけてきた。
「鏑木。そういうことだから、俺たちの仕事…よろしくな。」
「鏑木先輩、僕も今日は大学時代の友達と食事会があって…すみません。」
「は?え、いや…そんなこと言われても…困ります。僕にだって…」
僕にだって、大事な約束がある。今日だけは絶対に残業するわけにはいかない。それなのにどうして、この人達の言うことを聞かなければならないのか。時計は18時を回っていた。夢原さんとの待ち合わせは20時。年末の繁忙期でただでさえ忙しいというのに、自分の仕事で精一杯なのに、これ以上他の人の仕事なんてやっていられるか。さすがの僕も、今日ばかりは抵抗した。すると、その様子を見ていた上司がニヤついた笑みを浮かべながら近づいてくる。そして僕の耳元で囁き始めた。
「なぁ。俺この前、鏑木と夢原が一緒にいるの見かけたんだけど。もしかして、お前らって付き合ってんの?」
「つ、付き合ってるなんて!そんなわけないでしょう!」
「だよなぁ。夢原はまだ学生。未成年。もし手を出したら、『犯罪』だもんなぁ。ククク」
「……。」
僕と夢原さんは、まだ付き合っていない。ただ食事に行くだけだ。それの何が悪いのか。だけど、ここには僕の味方なんていない。もしも僕と夢原さんの関係が大ごとになったら、僕の話を信じてくれる人なんてどこにもいないだろう。このままじゃ、僕だけじゃなく夢原さんの立場も危うくなってしまう。せめて、夢原さんが20歳だったら…彼女だったら…。結局僕には、彼らの言うことを聞き入れる以外の選択肢なんてなかった。それでも今から頑張れば、もしかしたら約束の時間に間に合うかもしれない。そう思って頑張って頑張って…頑張ってみたが、やはり終わるはずもなく。時計の針は、19時50分…もうすぐ約束の時間だった。
「夢原さんに連絡して、明日に変更してもらおう。」
僕は携帯電話を開いて、夢原さんにメッセージを送ろうとした。しかしこんな時に限って、画面ではバッテリー切れのマークが点滅していた。そういえば昨夜は彼女との時間が楽しくて、充電するのをうっかり忘れてしまっていた。僕の携帯が鳴ることなんて滅多にないし、充電が切れて困ることもないから会社に予備の充電コードも置いていない。こんな日に残業している人間なんて社内には僕だけで、頼れる人もいなかった。
「なんで今なんだよ…ッ!」
自分の運のなさに、涙が出そうになる。そんな運のない僕に付き合わせてしまって、夢原さんに申し訳ない。夢原さんは今この寒空の下で一人、僕が来るのを待っているのだろうか。それなのに僕は、他人の仕事を押し付けられて…断る勇気も度胸もなくて…。なんで僕ばっかり、こんな目に遭わないといけないんだ。夢原さんは、僕の唯一の味方なのに。夢原さんに嫌われたらどうしよう。いや、嫌われて当然だ。クリスマスイブにドタキャンなんて、最低だ。クズだ。どうして僕は、今、こんな所にいるのだろう…。もう、疲れた…。
仕事を終えたのは、23時を過ぎた頃だった。いつもより少しだけ早く終わることができたけど、夢原さんとの待ち合わせ時間に間に合わせることはできなかった。あの時、ちゃんと断ることができていたら…社内に僕の味方になってくれる人が一人でもいてくれたら…今更考えても仕方のないことが頭の中を巡る。だけど、もしかしたら…僕はわずかな可能性に賭けて、急いで帰る支度をした。そして全力で走った。外を出ると雪が積もっていたが、そんなことは関係ない。僕はがむしゃらに走った。すると雪に埋もれて見えなかった小さな柵に躓き、寒空の下、コンクリートに背中を強打した。痛かった。でもこの痛みは、夢原さんを思えば…むしろもっと痛くあるべきだ。夢原さんが抱えた悲しみを想像したら、こんな痛みなんて。僕はすぐに立ち上がると、痛む足を引きずりながら夢原さんとの待ち合わせ場所へ向かった。
駅北口の改札前。夢原さんの姿は、なかった。当たり前だ。約束の時間から何時間過ぎていると思っているんだ。僕は、誰もいない待ち合わせ場所を遠くからただ眺めてる。彼女はここでどれぐらい待っていたんだろうか。とても寒い思いをしたのではないか。風邪を引いてしまったのではないか。何もうまくいかない、どうして僕ばかりがこんな目に遭わないといけないんだ。もう、嫌だ…。痛む体を引きずるように、ゆっくりと足を進め駅のホームへ出る。ホームにも、待合室にも、人はいなかった。僕以外、誰もいない。
「そりゃそうか…。クリスマスイブまで残業している奴なんて、僕くらいだよな…。」
普段使わない駅のホームは、いつも使っている見慣れたホームよりも冷たく感じた。僕は独りぼっち。孤独感が、僕の心を必要以上に刺してくる。つらい…つらいつらい…。もう嫌だ…。視界が、心が、ドロドロに歪んでいく。もう消えたい。もう、ここからいなくなりたい。街の音、建物の軋む音、風の音、雪の音、あらゆる音が重なって聞こえてくるはずなのに、今の僕には何も聞こえない。音のない世界で、鏑木龍之介という存在が少しずつ死に近づいている感覚がした。でも、それでいいのかもしれない。もうどうでもいいんだ。僕が両手を広げて助けを求めたところで、誰の目にも映らない。ここには僕独り。いつもそうだ。僕は、独りだ。そんな気持ちでホームを歩いていると、とある掲示物が目に入った。それは小学生が美術の時間に描いたであろう、電車への飛び込みを防止するためのポスターだった。今まで電車に飛び込もうなんて考えなかったからだろうか、普段なら見向きもしない、足なんて止めたことすらないのに…きっと、こういうポスターは必要な人にこそ届くようになっているのかもしれないな。でも、必要な人には違って見える。これは一つの教え。電車に飛び込めば、この苦しみから解放されるのかもしれないよ!というアドバイスだ。でもこれはきっと、良い死に方ではない。多くの人の迷惑となるだろう。だけどそんな…自分が死んだ後のことなんて、もう何も考えたくない。もう、終電で帰るこの生活から解放されたいんだ。自由になりたい。もう、終電になんか乗りたくないんだよ…。だからもう、いいんじゃないかな。僕の人生はそんな良いものではなかったかもしれないけど、でも、もういいんだ。もう十分。電車に飛び込むだけでいいんだ。そうしたら、こんな日々から解放されるんだから。
まだ終電までは時間があったはずなのに、気づいたら最後の電車がやってくる時間になっていた。通り過ぎていく電車にも気づかないくらい、僕の心は死を受け入れてしまっていた。
『まもなく、最終電車が到着します。白線の内側まで下がって、お待ちください。』
「もう、この電車しかないんだ。」
アナウンスと共に、僕の視界に一筋の光が見えた。その光は少しずつ大きくなって、僕を包み込んでくれる温かい光となった。あぁ、あの電車が僕の人生を終わらせてくれるんだ。この光はスポットライトで、僕はこの舞台の主人公。大スターだ。僕は、白線の内側にある体を舞台へ…白線の外側へと運んだ。電車が近づいてくる。
『ビィイイイイイイイイ!!!!!!!』
車掌が汽笛を鳴らす。きっと、僕に合図を送っているんだ。飛ぶなら今だぞ!って。車掌と阿吽の呼吸で、僕は先頭車両に体を乗り出した。そして次の瞬間、僕が進もうとする方向とは真逆へと…僕の体は誰かの力によってホームへと投げ込まれた。突然の衝撃で一瞬何が起こったのかわからなかったが、よく見ると誰かが僕の体を抱きしめて一緒に倒れていることがわかった。
「っはぁはぁ……はぁ……間に合ったぁぁあー!!!!!」
心の底から出したような、大きな声がホームに響く。声の主は彼女。息を切らした彼女が、仰向けになってとても嬉しそうに…安堵の声を上げている。僕はなぜここに彼女がいるのか、何が起きているのかわからないまま…呆然とホームの地面に転がっていた。彼女は呼吸を整えると、サッと立ち上がり、僕に笑顔を向けてこう言った。
「さぁ。帰りましょう。」
「……。」
呆気に取られた僕は、彼女に促されるまま。本来なら乗るはずのなかった最終電車に、彼女と手を繋いで座っている。放心状態の僕。嬉しそうな彼女。かみ合わない二つの顔が、窓ガラスに反射して見える。
「どうして…。」
「理由はいいじゃないですか。」
彼女は嬉しそうに、両足をバタつかせている。
「僕は…もう、苦しいんだ。嫌なんだよ、何もかも…もう。」
下を向いて苦しみを吐露する僕を、彼女がそっと抱きしめる。
「でもだめです。死んだらだめです。あなたが死んだら、悲しむ人だっているんですよ。」
「そんな人、いないよ…。」
「あなたが気付いていないだけです。それに私も、悲しむ人の一人ですよ。」
「……。」
彼女は、僕の目をまっすぐ見てそう言った。家に着くと、部屋からはカレーの匂いがした。
「カレーも、得意料理なんです。」
彼女は照れくさそうに微笑んだ。台所のごみ箱を見ると、シチューとカレーの空箱が捨てられていた。上着を脱いで炬燵に腰を下ろす。その間、彼女はカレーを温めていた。
もし彼女がいなかったら、僕はもうこの世にいなかった。もしあの時本当に死んでいたら、彼女が作ってくれたカレーを食べることもできなかったんだ。もし彼女がいなかったら、僕はもう…この世から消えて…消え…彼女がいなかったら…。
「お待たせしましたー。」
彼女の声で我に返る。彼女が、両手にカレーライスを持ってこっちへ来た。僕は涙ぐむ顔を見られたくなくて、目を腕でこすりながら感謝を伝えた。
「いただきます!」
「……いただきます。」
カレーを口に入れると、彼女が味に関する質問をしてきた。美味しいと伝えると、彼女は安心した様子を見せた。あぁ、本当に美味しい。もしあの時彼女が来なかったら、こんな美味しいカレーを食べることはできなかった。彼女とこうやって向かい合って、彼女の作ったカレーを一緒に食べることなんて…そんな幸せを味わうことはできなかったんだ。そう思うと、いろんな感情が溢れ出てしまう。さっき我慢した涙が、目から零れ落ちて頬を伝う。僕は涙を流しながら、カレーをかきこんだ。ずっとずっと我慢していた涙が、誰にも見せなかった涙が、なぜか彼女の前では自然とあふれ出てしまっていた。彼女は立ち上がると、僕を優しく抱きしめてくれた。彼女の心臓の音が聞こえる。生きている。あぁ、僕は今ちゃんと生きているんだ。
彼女の胸を借りて、今までの思いを流していく。
僕の涙が落ち着いた頃、彼女はにこっと笑って立ち上がり、冷蔵庫からお酒を取り出した。
「お酒を飲むと、楽になれるみたいです。母がよくそうしていたので。」
「……。お母さん、やっぱりいるんじゃないか。」
「えへへ……。」
「ありがとう。せっかくだから…飲もうかな。」
アルコールが僕の感情を揺さぶるように、背中を押すように、僕は胸に秘めていた弱い自分を彼女に見せた。誰にも話せなかった苦しみを、全て彼女に。彼女は、そんな僕の話を真剣な表情で聞いてくれた。20歳の彼女に、僕の姿はどのように映っているのだろう。きっと情けなかっただろう。でもそんな弱さも、不思議と彼女には見せることができた。夢原さんには、格好悪くて見せられない姿だ。
「あ!」
「え?どうしました?」
僕は急いで携帯電話に充電コードを差し、電源を入れた。画面には、夢原さんからの着信とメッセージの新規通知が大量に表示された。僕はすぐに折り返したが、夢原さんは電話に出てくれなかった。
「どうしよう…怒ってる、よね。」
「怒ってないですよ!たぶんもう寝ているんじゃないかな。メッセージだけでも、送ってあげてください。」
「うん。」
僕は夢原さんに、謝罪のメッセージを送った。行けなかった理由と、25日の夜にもう一度会いたいことを伝えた。
「本当なら、クリスマスイブに童貞を捨てようと思っていたんだ。」
お酒の勢いに任せて、僕は長年のセンシティブな悩みも口にした。彼女いない歴=年齢の童貞なんて、男としての価値が全くないみたいで…こんなこと今まで誰にも言えなかった。
「そう…だったんですか…。」
「……まぁ、捨てられたかなんてわからないけどね。うまくできたかどうかも…。」
「あの…!あ、あの…」
「うん?」
「あの…よ、良かったら!れ、練習しません…か?」
「え?」
「あああああああの、私も初めてだから…。その…きょ、興味が…あって…。えっと…あの…。」
彼女は慌てた様子で。頭より先に感情で喋っているような様子で。そこには照れと恥じらいも入り混じっていて。その姿はとても…とても可愛らしくて。改めて思うけど、やっぱりこの子は夢原さんに似ている気がする。面影を感じる。僕は、こういう顔がタイプなのかな。……いや、今はそんなことを考えている場合ではない。彼女はもしかしたら、可哀相な童貞の僕を慰めようと無理をしているのではないか。僕のために自分の初めてを、体を差し出そうとしているんじゃないのか。もしそうだとしたら、例え僕の性欲が少しだけ顔を出しているとしても、全身全霊で自分自身と彼女を止めなければならない。こんな時くらい、大人の余裕を見せないと。
「自分から話を振っといてなんだけど…えっと…。女の子の初めては、好きな人のために取っておいたほうがいいと思うよ。」
「わ、私!鏑木さんのこと…好きです。ずっとお母さんから聞かされていて、気づいたら…その…。」
「え?!お母さんと僕は知り合いなの?」
「いや、それはえっと…あの…。と、とにかく!私の初めては、鏑木さんが良いんです!」
彼女はそう言うと、力任せに僕を押し倒した。突然のことに体勢を崩し、背中が床に激突した。傷みで一瞬怯んだ隙、彼女は僕の唇に自分の唇を重ねた。もう、痛みどころではない。僕はキスも初めてで、唇の柔らかさと震える彼女の愛らしさに胸が高鳴った。こうなってしまっては、僕にも止めることはできない。
「ほんとに…いいの?」
「はい。私に、思い出をください…。」
思い出…。なんだかまるで…これが最後、みたいな言い方だ。それは寂しい。だけど、彼女には彼女の居場所がある。それはきっとここではないのだろう。僕は彼女を引き留めることができない。それなら最後くらい、僕と過ごした日々を少しでも良い物に思ってもらえるような時間を…。
「良い思い出になるように、がんばるね。」
「はい。」
その夜、僕と彼女は結ばれた。




