『2004年12月23日』
朝。目を覚ますと、彼女がサンドイッチを頬張っていた。一瞬何が起きているのか、これは夢なのか?!と取り乱しそうになったが、すぐに昨夜の出来事を思い出し冷静になる。これは現実。頭ではわかっているのだが、まるで夢のように感じてしまう程違和感のある光景だった。心がふわふわしてしまう。だって僕の部屋に女性がいるなんて…。身内以外で僕の部屋に入った女性は、彼女が初めてだった。嬉しいような、緊張するような、もっと目の前の光景を噛み締めたいような。しかし今の僕にそんな余裕はなく、時計を見ると家を出なければならない時間まで残り15分だった。
「じゃあ、僕は会社に行くから。ちゃんと自分のおうちに帰るんだよ?」
「……。」
「出るときは、戸締りよろしく。鍵はポストに入れておいてね。」
「……。」
「じゃあ、えっと…行ってきます。」
「行ってらっしゃい!」
「……うん。」
彼女の微笑み。僕を送り出す言葉。今朝の気温は氷点下で真冬の寒さなのに、僕の心はまるで4月の上旬のような暖かさで…なんだか少しだけ弾んでいるようだった。今まで恋人すらいたことのない僕にとって、今朝の出来事はとても貴重な体験だ。扉を閉めると、鉄の扉越しに内側から鍵を閉める音が響いた。
「結局、何者なんだろう。彼女とちゃんと話す時間が欲しかったなぁ。」
冷静に考えると、得体の知れない人間を一人残して家を出る僕も…大概だな。不安はあるが、仕事を休むわけにもいかない。僕は会社の1階にあるコンビニで栄養ドリンクを購入すると、エレベーターに乗り込み、自分のデスクに座った。最近の僕は、1日に何度も卓上カレンダーを見返している。なぜなら今年のクリスマスイブは、最近入ってきたアルバイト社員の夢原小梅さん(19)と食事に行く約束をしているからだ。社内のどこにも居場所がない僕にとって、夢原さんの存在は唯一の癒しで…救いだ。彼女は学業との両立で毎日出社しているわけではないが、シフトが入っている日は必ず僕の元に来て仕事を手伝ってくれる。疲れた…なんて思っていると、お菓子をくれたりもする。優しくて気が利く子だ。だから、そんな子から突然クリスマスの予定を聞かれたときは驚いた。それは会社の屋上で一人、死んだような表情でコンビニ弁当を食べていた時のこと。
「ちゃんと栄養のある物を食べないと、体に悪いですよ?」
夢原さんが後ろから顔を出し、僕の弁当を見て心配そうな声を漏らす。突然のことに驚いてベンチから落ちそうになると、夢原さんは笑って僕の背中を支えてくれた。
「突然すみません。これ、良かったら。」
夢原さんの方を向いて座り直すと、夢原さんが野菜ジュースを渡してくれた。感謝を伝え受け取るも、夢原さんは僕の前に立ったまま動かない。顔を上げると、少し赤らんだ肌と恥ずかしそうな表情をしていることに気が付いた。どうしたのだろうか。いつもと様子が違って見える。
「えっと…隣、良かったら。」
「鏑木さん!」
「え?!は、はい!」
突然大きな声で呼ばれ、咄嗟に僕も大きな返事をしてしまった。
「あ、ごめんなさい。えっと…あの…。」
「大丈夫ですよ。何かありましたか?」
「あの…鏑木さんは…その…。クリスマスイブって…何か予定はありますか?」
「え…?」
想像もしていなかった質問に、僕の頭は真っ白になった。てっきり、仕事のことで何か悩んでいるのかと思ったから…。夢原さんの言葉に、様子に、僕も釣られるように頬を赤く染める。これはつまり…デートのお誘いということなのではないか。そう気づいた瞬間、僕の瞳に光が宿ったような感覚がした。嬉しかった。だって、こんな僕が女性からお誘いを受けるなんて…クリスマスに予定が入るなんて……夢にも思っていなかったから。だけど、夢原さんは未成年で…同じ会社の社員で…。大人の僕が夢原さんと食事になんて行っていいのだろうか。本当にいいのだろうか。徐々に困り顔になっていく僕の様子を見て、彼女も少し不安そうな表情を見せた。
「えっと…年末だから、仕事が忙しくて…。」
「……。」
「あの!頑張って終わらせるから!!あの…えっと…。誘ってくれて…ありがとう。」
「じゃ、じゃあ!」
「うん。あ、でも集合場所は……会社から少し離れた場所がいいかも。」
「あぁ、それなら私が使っている駅が良いと思います。社内の方は見かけたことがないので。」
「そうなんだ。じゃあ、えっと……そうしようか。」
「はい!」
「えっと…楽しみにしてます。」
「わ、私もです!えへへ。」
再び顔を上げると、夢原さんがとても嬉しそうに笑っていた。その姿を見て、僕も嬉しくなった。
数日前の屋上での出来事を思い出し、これから楽しいことが待っているんだ!そう思って自分に気合いを入れる。年末で大変なときだけど、頑張って仕事を終わらせよう。僕は目の前に山積みになっている自分の仕事、と自分以外の仕事を急ピッチで捌いていった。しかし僕一人が頑張ったところで、捌き切るには限界というものがある。
「はぁ。……また、終電か。」
昼間の前向きな自分はどこへ行ってしまったのか。僕は疲れ切った体をどうにか動かし、帰る準備を始めた。誰もいないフロア、暗闇に光る緑色の非常口、不気味なほどに静かなエントランスホール。会社を出ると、空からは雪が降ってきた。オフィス街の夜は静かで、通りには僕以外誰もいなかった。街路灯の穏やかなオレンジ色が、パラパラと舞い散る雪を照らしている。この風景はきっと、とても綺麗で…幻想的なのだろう。しかし残業続きの荒み切った僕には、それら全てが灰色に見えて…綺麗だなんて気持ちも抱かなくなってしまっていた。何も考えることなくただ無心で駅へと向かい、聞きなれたアナウンスをBGMに、僕を乗せた最終電車が定刻通りに発車する。いつもと同じ。何も変わらない。僕はまるで機械人形のように、同じ1日を何度も繰り返しているだけなのでは…?果てのない無限ループの中に閉じ込められているのでは…?という気持ちにさえなる。ただ、昨日はイレギュラーなことが起きた。待合室で出会った彼女。そういえば、あの子は結局どうしたのだろうか。まだ僕の部屋にいるのだろうか。いや、さすがにそれはないか。親はいなくとも帰る家くらいはあるだろう。あれはただの夢。今日も僕は、無言の家に帰宅する。少しだけ寂しい気もしたが、それが僕の日常なのだから。夢から醒めて現実を見よう。そう思いながらアパートに面した通りを歩いていると、僕の部屋に灯りがついているのが見えた。
「いや、まさか。」
もしかしたら別の部屋かもしれない。心を落ち着かせながら、指で窓の数を数え自分の部屋を探す。
「いち、にー、さん……やっぱり。僕の部屋だ。」
自分の部屋に灯りが付いているなんて。昨日までは、真っ暗な部屋に一人帰るだけの日々だったのに。こんな光景を見るのは初めてだった。実家に住んでいた頃も、部屋には灯りなんてなかった。共働きの両親と一人っ子の僕。学校から帰ると家にはいつも僕一人で、家族が帰ってくるのをずっと待っていた。だから…。
気が付くと、僕は走っていた。彼女がまだいる、かもしれない。アパートの階段を駆け上り、廊下を歩きながら息を整える。玄関の前に立ち、鍵を探す。しかしカバンの中には入っていなくて。そういえば今朝出るときに彼女に渡したから、もし彼女が出て行ったならポストの中に…と思って漁っていると、玄関の内側から『ガチャン』と鍵の開く音がした。そしてドアノブが回り、ゆっくりと扉が開く。
「おかえりなさい!」
彼女は、まるで僕の帰りを待ちわびていたかのように。眩しいくらいの笑顔でそう言った。
温かい光景に、僕は言葉が出ず固まってしまっていた。部屋の灯りを見た時に、期待はしていた。彼女が部屋にいるのだと、僕の帰りを待っていてくれているのだと。だけど身も心も疲れ切っている僕の妄想かもしれないという、ネガティブな考え方をする自分もいて。だから目の前にいる彼女が、まるで天使のようにも見えて…。呆気にとられていると、彼女が少しだけ困ったような表情を見せて笑う。その笑顔は、少しだけ夢原さんにも似ているような気がした。夢原さんに惹かれているのは確かだけど、彼女と重なって見えるなんて…よっぽど疲れているんだろうな。彼女の言葉に、僕も答えなくては。こんなこと今まで口にしたことはなかったけど、照れくさいけれど…でもこう言わずにはいられなかった。
「ただいま。」




