序章 誘われた例外
二〇一七年六月十日 雨天 午前六時
彼は特に眠たい顔もせず歯を磨き、産毛の髭を剃り
キッチンで朝食を作る、朝はトーストしたパンと特に美味いとも思わないインスタントコーヒーを一杯
これが彼の一日始まり
朝のニュースを眺める
朝の挨拶に始まり、天気予報、今日は季節に合わず冷え込むらしい
他にもいろいろと流れたが時間だ、テレビを消す瞬間、地元関係のニュースが映っていた、どうやら今日で行方不明になって十年経つ人がいるらしい
そろそら学校に行かなければならない
カバンを持ち、玄関のドアに手を掛ける
ふと、早朝に出勤した父の言葉を思い出す
(二年前に渡した、アレ。ちゃんと持っているな?)
首に下げていた、紐を通した一個の指輪を見る
燃える様な赤い宝石が埋め込まれた指輪、これは彼の父が二年前に彼の誕生日プレゼントとして渡された物だ
いつになく真剣な表情で渡された指輪
(必ず肌身離さず持っていなさい、代々受け継がれた家宝だ)
そう言われ風呂の時も、寝る時でさえもそれを首に下げて持ち続けていた。
いつかきっとこの指輪の意味を知る時がくると信じて
公立の高等学校、午前だけ授業を済ませて、正午手前
彼含めて殆どの学生が六月にも関わらず冬服で登校している
六月ともいえば梅雨に入り、蒸し暑く、冷房をつける家庭も少なくないだろう。
だが今日は一段と冷える、春前の様な冷え込みに
意味の無い文句を垂れる奴がチラホラと。
皆が帰宅の準備を済ませている最中、横から一人の女子生徒が話しかけてくる
「あの・・・」
彼は一瞬だけその女子を睨み、目線を前に戻し帰宅の準備を始める
自分と同じクラスの女子、赤と白の線が入った黒い学生服
茶髪のボブカットでクリーム色のカチューシャを付けてるのが特徴だ
そんな彼女の呼び声に彼は答えない、目を合わせない
態度が悪いのは承知している、それでも彼は無視を決め込む。
だが彼女は食い下がる様に話を続けた
「勉強会をす、するの!み、皆でね!」
「・・・」
「もう直ぐ期末テストでしょ!わ、私も皆も中間テスト大変だったから」
「・・・」
「あう・・・、だから、その・・・。」
支度は済み、席を立ち上がる。
雨も降っている、早く夕飯の買い出しを済ませて家に帰りたい
「一緒に勉強会して欲しいの!ほら!ふら・・・」
咄嗟だった、彼女も遅れて理解した。
彼の右手が彼女の首を掴もうとしていた
ほぼ反射的だった事もあり、直ぐに手を引っ込める
あっ、と 声を零し右手で口を押さえて目を逸らす彼女
「ごめんなさい・・・」
「いい、こっちも悪かった」
彼はバツが悪く目を逸らす
何がごめんで、何が悪かったのか
彼という人物を知る事でしか、それは本当の意味では解らない。
気不味い空気が数秒間続き、陽気な声が彼と彼女の耳に届く
「お、勉強会!良いねぇ!俺も参加して良い?実は中間が赤点ギリギリでさー!このままじゃ進路もヤバくね?って状態なんだよーマジで!」
少し五月蝿く、耳を覆いたくなる
声の主を見るべく振り返り、その名前を口にする
「うるせーぞ、谷口」
「お前が静か過ぎるんだよぉ!」
谷口、彼と同じ赤と白の線が入った黒い学生服を着た男子生徒である
ぼさっとした黒髪で声が大きいが、常に陽気で笑顔が絶えない
「美咲ちゃん!俺も参加して良いよね!コイツも俺が説得して連れて行くからさぁ!」
彼の肩を遠慮無しに叩きながら、美咲と呼ばれた目の前の彼女に参加の申し込みする、あと勝手に参加させようとしてくる
「うん、良いよ」
「よっしゃー!じゃあ待ち合わせの時間を・・・ってあぁ!おい!」
谷口が美咲と話してる間に俺はそのまま教室を出ていた
アイツの勢いに呑まれると本当に参加させられるからだ
そんな面倒を被るつもりは無い、早々に彼は退散する。
下駄箱で靴を履き替え終えたところに、谷口は大急ぎで彼に追いついてきた。
「予定び〜」
「じゃ〜な〜、皆でがんばれ〜」
「まだ話の途中ぅ!」
傘をさして帰路に着く、彼の帰宅ムーブは止められない
後ろでバタバタと音がした後、谷口が急接近してくる
「そりゃ無いぜぇ!良いじゃねぇかよ勉強会!一緒にやろうぜ」
「知らん」
一言で一蹴する彼は断固拒否の姿勢を見せる
だが谷口の性格を知る彼はこの程度で引き下がる者では無いと理解している。
谷口の陽気な性格は時には彼にとって最大の脅威であるからだ
そんないつものやり取りをして、強引に誘う彼を
あしらうつもりだったのだが。
「なぁ、そろそろ前に進む時じゃねーか」
足を止める、谷口が何を言いたいのか、それを理解したからだ
「解ってる、でも今からじゃなくても良いだろ」
「それでもだよ、お前を強引に外に引っ張り出すのが俺の役目だっつーの」
『 余計なお世話だ 』
『 そんな事は頼んでいない 』
『 一人で良い 』
そう言えばきっと谷口も引き下がるだろう
昔の様に突きつけてやれば良い、今以上にクソ野郎だった自分の時の様に。
「・・・」
唇が重たい、ドクンと心臓の音が聞こえる
思い浮かべた事を口にすれば良いと
余計だと思うなら、頼んで無いのなら、一人で良いのなら
今、お節介を掛けてくる谷口の事など、気を使う必要は無い筈だ
「・・・分かったよ、付き合えば良いんだろ。」
「そうこなくっちゃな」
結局、口にする事など出来なかった
もう、あの時の自分では無い。
怪物だと、化物だと言われていた時期があった
あの時、目の前で自分は親友だと豪語した谷口
散々付き纏った挙句、友達を通り越して親友などと
「はっ」
「え?なんで笑ったの?どしてなんで?」
「うるせーよ」
口数が少ない彼はそれ以上親友には言わない
今も、これからも。
谷口と別れた後、彼は行きつけのスーパーへと寄っていた
夕飯の買い出しだ、彼の家庭は親の仕事の都合上、家に居ない時間の方が長い。
その為、朝食の支度、弁当の用意、夕飯の料理は全て彼が自分で自炊して高校生活を送っている
だが彼はそれを苦に感じてはいない、彼にとって料理は一つの道楽である
一日、自分好みの料理で三食分済ませる事もある
予算以内に買い物を済ませて彼は帰路に着く
スーパーの出入り口に立つ、朝からずっと雨が降っている
何となく、この雨に胸騒ぎを感じてしまう
何故だろうか、彼はその”何となく”に気づく事は出来なかった
いつもと違う空気を感じる、早く家に帰ろう
そうしないといけない気がした
家までもう少し先、ここは河川敷
幅はかなり広いが、深さは彼の足首程しか無い浅瀬の河
氾濫を防ぐ為、彼が今歩いてる場所は歩道とは別に堀の役割として作られている
緩やかではあるが、長い坂が作られている
この程度の雨では流石に水位が増す事はないだろうが
台風の時は流石に避難しなくてならないだろう
川沿いに住む住民の定めである
(何も無ければそれで良い)
彼は先程からずっと胸騒ぎを覚えていた
かつて、これ程までに落ち着かない事があっただろうか
何か災害が起きるのでは無いか
彼が想像できるあらゆる限りの不安を想像しては頭の中どうすれば良いかシミュレートしていた。
そんな時だった
⦅助けて⦆
雨の音の中、まるで頭の中に直接響いたのかと錯覚するぐらい、鮮明に聞こえた
助けを呼ぶ声が
「っ!誰だ!」
余りにも唐突な事に急いで周囲を確認する
周りには誰も居ない、彼一人だけ
それでも、まるで傍に居るのかと思うくらい鮮明に
⦅助けて!⦆
「!?」
雨の音、助けを呼ぶ声、そして、河から聞こえる激しい水飛沫
しっかりと見えた、水飛沫から伸びる人の手
「あそこか!」
彼は傘と荷物を地面に置き、真っ先に助けに向かう
声からして女性、彼は自身の過去の経験から女性に苦手意識がある
しかし、それが命を落とそうとしてる人間を助けない理由にはならない。
彼は浅瀬を踏み抜き急いで河の中央に向かう
水飛沫が激しい場所、何故そこに人がいるのか
どうやって溺れているのか、何故そこから自分に声を届ける事が出来たのか。
そんなもの全て後回しに、今はただ・・・
「おい!何でこんな浅瀬で溺れてやがる!」
河から手が何度も暴れては見え隠れしている
相当パニックを起こしているようだ
「今助けるから、大人しくっ!」
そう言って手を掴んだ、そして掴み返された
そうだそのまま引き上げれば良い
彼が引き上げ、浅瀬で溺れていた哀れな女性の面を見る
そうなる筈だった・・・
「は?」
彼は凄まじい勢いで掴まれた手に引っ張られ、河の中に沈んだ
いや、河では無い。
黒、圧倒的な黒、並行感覚を一瞬で奪う暗闇に彼は引き摺り込まれたのだ
彼は今浮いているのか?それとも底へ底へと沈んでいるのか?
わからない
わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない
(!?)
彼は気づく、全く息が出来ない事に
必死に呼吸をしようとするが、空気が一向に肺に届けられる気配は無い
まるで何処にも空気が無いかのような
血管かそれとも血液か、酸素を求めて身体が痙攣し始めた
思考が纏まらない、今どうなっている
掴んだ手はどうなったのか、ここは水中なのか
それとも虚空なのか、理解を超えて遂に意識を手放しかけた
その時・・・
「ぶはっ!?」
視界が唐突に明るくなると同時に、一気に肺に空気が送り込まれる、妙な味を口の中に感じながらも感覚が徐々に取り戻される。
この瞬間に感じたものは全部で三つ
身体が凍りそうな程の寒気
視界に広がるダークブルーな空
そして・・・
「落ち・・・てるぅぅぅぅぅぅ!!??」
彼は遥か上空から自由落下を強いられていた
その光景を黒に潜む、無数の赤く丸い目玉が覗いていた