表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

アリシア・バートウィッスル

作者: 空塊

習作のつもりで書きましたが、どうにか面白くしようと頑張ったのでぜひ最後まで読んでいただければなと思います、よろしくお願いします

「アリシア・バートウィッスルよ、たった今をもって貴様との婚約を破棄する」


 ルメール王家王太子セルジュ主催のパーティで、重大な発表が行われる。その布告を聞いた人々は、以前より関心が集まっていた王太子セルジュとバートウィッスル侯爵の令嬢、アリシアの婚姻の儀の日取りが決まったのだろうと予想したが、その予想は完全に裏切られた。


 豪華絢爛な会場で、同盟各国の大使や有力貴族達の前で行われた発表というのは、セルジュ王太子がアリシアの婚約を破棄するというものであった。


 大貴族と王族の婚約が破棄されるなどという空前絶後の事態は、人々に十分すぎる衝撃を与えしばらくの間呆然とすらさせたが、それは最高級のワイングラスが割れる悲鳴にも似た音によって解かれた。


「セルジュ様……何故……」


 セルジュの横に立っていた。そして今は手にしていたグラスを取り落とし、立ち尽くしていたかのように見えるアリシアが、顔を青くしながらそう絞り出すように呟いた。


 アリシア自身、たった今自分が婚約破棄をされる事を知ったのは明らかだった。


「何故かだと、そうか愚かな貴様には理由が分からぬか。では教えてやろう」


「貴様は俺のやりように事あるごとに口を出してきた。たかが一貴族の分際で、女の分際で、王太子である俺に対して説教がましく小言を言うとは身の程を知らぬにも程がある」


 身に覚えが無いとはアリシアは思わなかった。アリシアから見てセルジュは短気で狭量な所があり、よく彼の傍付きの女達を泣かせていたので、見かねたアリシアが諌める為に日頃から色々と言った事を根に持っているのだろう。


「確かに(わたくし)はいろいろとセルジュ様の意向に背く事を申し上げました。私の身に過ぎた事を申し上げた事もあったかもしれません。ですがそれも全てセルジュ様の事を思って……」


「黙れっ!!」


 アリシアの言葉は、セルジュの怒号によって中断させられた。


「そうやって恩着せがましく、一々っ! くどくどっ! 自分を何様だと思っているのか、貴様のそういう所が俺は気にくわんのだ」


 セルジュは過剰な熱意と理論性に欠けた歪な形の反論でアリシアを非難し、多少心の内の溜飲を下げた所で、さらに彼女を貶める為に用意した策を発表する事にした。


「……今日は何も貴様との婚約破棄を発表する為だけの場ではない。そんなものは前座で十分だ。俺は俺に相応しい婚約相手を見つけた。今日のパーティはそれを知らしめるのが本当の目的だ」


 セルジュの新しい婚約者の存在を仄めかす発言に人々はざわつき始めた。セルジュとアリシアが婚約破棄する事すら全く予想の外であったので、当然新しい婚約者の事など人々は知りようも無かったが、セルジュが呼んだ名前はそれにしても意外なものであった。


「こっちへ来いリタ」


「はい、セルジュ様」


 セルジュに名前を呼ばれ、セルジュとアリシアがいる舞台への階を上った娘に一同の視線が集まった。リタと呼ばれた娘はアリシアにも見劣りせぬほど美貌の持ち主で、人々はそれに驚きもしたが、同時に、はて、とも思った。


 リタという娘はどこの大貴族の娘であっただろうか、頭の中の辞典から名前と顔で検索を行ったが、発見出来た者はそれほど多くは無い。


 それは無理からぬことであった。彼女のフルネームはリタ・ウィールライト、ウィールライト()()の令嬢である。


 貴族社会の一員では確かにあったが、その席次は末席にほど近く、王太子と婚約するとなればそれなりの家格であろうという先入観をもっていると、彼女の出自は特定できないのである。


「この女はお前と違って余計な事は言わぬし、俺の言う事に逆らわない。リタこそが俺のパートナーに相応しい」


 まさか王太子が男爵家の娘を自身の妃に選ぶとは、多少なりともセルジュの為人(ひととなり)を知っている人間からしてみれば、それは意外と思える事態であった。


 自分のパートナーの家格など真っ先に気にしそうな性格であろうに、案外そういった事は気にせずに、相手の人間として魅力を重んじたのだろうか。そう思った者も中には居たが、それは大きな誤解であった。


 セルジュはとにかく人に何かを指摘される事、意に背かれる事を特に嫌った。忠言だの忠告だのの類は全て自分に対する誹謗としか受け取れなかった。


 だからこそその類をよく用いるアリシアの事を憎んだし、アリシアがなまじ家格が高い家の出だからそのような生意気な事を言うのだろうと思い至ったのである。


 その点このリタという娘は、アリシアに見劣りしない程度の容姿をしていたし、アリシアとは違い自分に対して余計な意見を言わず、言われた事に逆らわない。


 男爵家の娘というのは当然気に障ったが、いずれ自分が王位を継いだ時に、伯爵でも侯爵なりにでも家格を引き上げてやればいい。


 それにアリシアが侯爵家の自分ではなく男爵家のリタが選ばれたとあれば酷く憤慨するなり、悔しく思うなりするだろう事を思えば、その点も彼にとっては利点とも考える事が出来た。

 

 もっとも、実際の所で言えば相手の家格などを気にしないのは、むしろのアリシアのほうであったので、その時点で彼の目論見は大きく外れていたのであるが。


「リタ……あなた……」


「ごめんなさいアリシア様……いいえアリシア、どうやらセルジュ様に選んでいただいたのはこの私みたいだから、貴女は大人しく身を引いて頂戴」


 そして最後にセルジュがリタを選んだ理由で決定的とも言えたのが、アリシアとリタが不仲であるという噂であったが、不審そうなアリシアと、勝ち誇りを隠せないリタの様子を見る限りそれは真実であったと思われる。


 要するにセルジュはアリシアに背を向けてリタのほうを向いてはいたが、頭の中は常にアリシアが怒り、悲しみ、悔しがる姿を妄想していたのである。


「そうだ、お前はもう俺の婚約者ではない。この()()()()に貴様のような女は相応しくないのだから、今すぐこの場を立ち去れ」


 セルジュがそう吐き捨てると、アリシアは自分を落ち着ける為に大きく深呼吸をして、改めてセルジュの顔を、そして目をみながらこう言った。


「セルジュ様、私は無能にも貴方の傍にこれほど長く居ながら、貴方をお救いすることが出来ませんでした。私の言葉も思いも、貴方には何一つ届ける事が出来なかった。貴方が言う通り私は貴方の傍に居るのに相応しくない人間であったようです」


「ですが……どうかお幸せに……さようなら」


 毅然とした態度でそれだけ言うと、アリシアは舞台を降りるべく一瞥も無く階へと向かった。バートウィッスル侯爵家令嬢アリシアの婚約破談劇はこうしてあっけなく幕を閉じるかと思われた。


 だがこの結末が気に入らぬ者が居た。それはこの舞台の主演男優兼、脚本兼、監督であるルメール王家王太子セルジュであった。

 

 彼が描いた脚本では、ここでアリシアは自分に対して行われた仕打ちに対して、怒り、嘆き、悲しみ、そうして酷く取り乱す様を笑う、これはそういう()()であったはずだ。その為に設けた舞台と演出であったはずだ。

 

 であるのに、アリシアはその脚本を完全に無視し、一切取り乱す事なく、別れを告げて舞台を降りようとしていた。これでは舞台にとり残された自分自身が道化となってしまうではないか。


 気に入らなかった、許せなかった、自分の思い通りに動かぬ女優など彼の許容範囲を遙かに越えていた。このまま舞台を降りる事など許さない。この俺がこの女を舞台から()()()のだ。そうでなくてはならない、そう思った。


 セルジュがアリシアの後を追うように動いたので、それを見ていた者はセルジュがアリシアを呼び戻そうとしたのかと束の間思ったが、アリシアが階に足を掛けたその時だった。


 セルジュがアリシアの背中を思い切り蹴とばしたのである。


 咄嗟の事にアリシアは階から足を踏み外し、そして、観客席では悲鳴が鳴り響いた。


「ふん、ドジな女だ」


 地面へと落下したアリシアの元に多くの者が駆け寄った。アリシアは頭から血を流していて、彼女の友人たちや彼女に仕える者達が必死にアリシアの名を叫んだが、それに答える返事は無かった。


「貴様っ!!!」


 倒れたアリシアの元に誰よりも早く駆けつけて、そして誰よりも強い怒りを、その眼と、声と、表情筋、その他全てを用いて表した男が、舞台の上に跳ね上がった。


「よくもやってくれたなっ!! よくもアリシア様を傷つけたなっ!!!」


 そのセリフは単調なものであったが、その語気には溢れんばかりの熱量と圧力が籠められていた。恐らく彼の感情を内包しうるだけの容量と強度を持たせるには、単語から余分なものを全て削減する必要に迫られたからであろう。


「王太子であるこの俺の許しなくして、誰に断ってこの舞台にあがったか、この野良犬め」


「何が王太子かっ! 婦女子に暴行を、しかも背後から襲う卑劣漢をそう呼ぶのかっ!!」


 男から咆哮じみた容赦のない非難を浴びせかけられると、それに憤ったセルジュが、すでに自分を囲う武装した近衛達の後ろから、男に脅迫を行った。


「こ、この俺を卑劣漢だと、許せぬ。貴様も、貴様の一族も悉く首を刎ねてやる」


 しかし、男はその脅迫を前にして怯むどころか、あまつさえその脅迫を弾いてセルジュの元へ叩き返してみせた。


「俺に両親は居ない、兄弟は居ない、身寄りは居ない、俺一人だけだ。そんな俺を侯爵様とアリシア様が温かく迎えてくれたのだ」


「お前はアリシア様を辱めただけでなく傷つけた。……許さん。決して許さん」


「俺の首を刎ねるといったな? やってみるがいい。だが、たとえ俺は首だけになったとしても必ず動いてみせて、貴様のその喉笛を噛みちぎってやるぞ!!!」


 舞台に上がった男はたった一人、身を守る盾も、剣も帯びてはいなかったが、その身に纏う怒気の炎の熱気を前に、王国の精鋭である近衛達が半歩の後退を余儀なくされ、その後ろのセルジュに至っては後退りをしようとした所を転倒し、無様に尻餅をついていた。


 セルジュはすぐに立ち上がろうとしたが、まるで何者かが彼の脚を床に縫い付けたかのように、上手く動かす事が出来なかった。


  それは無理からぬ事であったかもしれない。セルジュが今まで虐げてきた者たちは、皆すべて彼の機嫌を損なった事を知ると、地べたに這いつくばって許しを請うてきた。常に彼が脅す側、殴りつける側であり、逆の側に立った事は一度も無かった。


 だからこそセルジュは自分に向けられる本物の敵意や殺意というものに全く耐性が無かった。しかも自分の命よりも大事なものを傷つけられた人間の、()()に耐え得る骨格など彼にありようはずもなかったのだ。

 

 全身を怒りの炎に包んだ男がセルジュの方へ歩み出る。一人の近衛が発した、それ以上近づけば死ぬぞという震えた警告は、道端に落ちている石ころのように無視された。無益であった。その身に炎を纏った時点で、彼は燃え尽きて灰となる事を承知していたのだから。


「だめ……グレン……」


 だが、男の脚はすぐに一転してその歩みを止める事になった。そうさせたのはセルジュの権力でも、近衛達の武力でもなく、それは小さく消え入りそうなか細い声であった。


 しかしその名を呼ばれた男、グレンの耳がその声を聞き逃すことは絶対に無かった。

 

「アリシア様っ!!」


 グレンは先ほどまで執着していた相手を捨て置くと、今度は舞台の上から飛び降りて、意識を取り戻して介抱を受けるアリシアの元へ駆け寄った。


「良かった……本当に、良かった……」


 またしても彼は自分の感情を籠めるのにセリフを単調化せざるを得なかったが、今度は先ほどのとは真逆の物が籠っていた。


「心配を掛けてごめんなさいグレン、私は大丈夫だから」


 だが、アリシアのその言葉は本人の期待に外れ、かえってグレンの心を傷つけた。この方は自分が傷ついても尚、他者への気遣いを絶やさぬというのに、自分は怒りに我を忘れてヤケを起こしそうなってしまった。そう恥じ入る以外をグレンは見いだせなかった。


 しかしグレンとしてはいつまでも恥じてばかりもいるわけにも行かなかった。そんなものは後でいくらでも一人で出来るはずである。今は一刻も早くこの不潔不快極まるこの場を離れ、彼女を医者に診せて安静をはかる事が最優先であるはずだろう。


「……今日はもうお屋敷に戻りましょう、アリシア様」


「ええ、そうね……」


 そういってアリシアはグレンの手を借りながらも、自分の足で立ち上がろうとしたが、途中で顔をしかめ、その場に座り込んでしまった。


「グレン、私転んだ時に足を挫いてしまったみたい。立てないわ」


「かしこまりました。では失礼いたします、アリシア様」


 担架ででも運んで貰おうかしら、そんな事を考えていたアリシアにとってそれは不意打ちともいうべき事であった。


 グレンはアリシアのケガに障らぬように最大限の注意を払いながらも、彼女の背中と(もも)の裏に腕を回し、優しく、だがしっかりと自分の胸の前でアリシアの体を抱え上げた。


「担架をご用意する暇が惜しいので、ご不快かとは存じますが、後でいくらでも叱責は賜りますゆえ、今しばらくのご辛抱のほどをお願い申し上げます」


「グレンあなたったら……ふふふ、そんな事はないわ、ありがとう」


 この時、実直すぎる彼の顔を間近に見て、アリシアは彼女がもつ本来の笑顔を取り戻した。


 グレンとアリシアが会場の出口に向かうにつれて、人混みが彼に道を譲って割れていった。途中で口笛を吹く者がいたり、お幸せにとか、がんばれよなどと言う者が多数居たのがグレンは気にかかったが、彼にはその意味が理解出来なかった。


 そんな事よりも先ほどからアリシア様の顔がお赤い、もしやお怪我に加え、お熱もおありなのだろうか、おいたわしや、やはり一刻も早く医者に診て頂かなければ、そう思い彼は進む足を早めた。


「何を呆けておるのか者共、あの無礼者を引っ捕らえぬかっ!」


 セルジュはいつまでたっても動かない近衛達を叱咤したが、近衛達の責任を問うのは筋が違うであろう。近衛達に命令以外の事を行わないように躾けたのは他ならぬセルジュ自身であった。恐怖に気を取られ、目の前の出来事に呆けていたのはセルジュ自身であったのだ。


 だがともかく近衛達は命令を受け付けたので、グレンを捕らえるべく彼が進んだ道を追っていった、しかし。


「おい、伯爵家の次男である俺様に対して礼もなくしてこの道が進めると思うなよ」

「あらあら、子爵家の長女である私がこうしてお茶にお誘いしているのに断るの? 失礼ね」


 このような言い回しを用いて、近衛達の進もうとする道を立ち塞ごうとする者が複数現れた。彼らはアリシアの友人で、普段はこの類いの言い回しを扱う事は無かったが、この時は家名を存分に利用して近衛達の足止めをしようとしたのである。


 これは効果は抜群で、いくら王太子の命令の為とはいえ彼らを強引に、ましてや切り伏せて進もうものならば、後日大事に至るのは疑いようがないので、近衛達はなるべく彼らを避けながらグレンを追う他に手だては無かった


 だが結局の所、近衛達は王太子の命令を果たすことが出来なかった。グレンの動きが迅速であった事、会場警護の為の急な増員がかえって混乱を増大させた事と、その他妨害があったことが主な原因だが、ともかくグレンとアリシア達は共に無事、侯爵家領地の屋敷に戻る事が出来た。



 ◇ ◇ ◇



 グレンはアリシアを医者に診せて、その容体に危険が無い事を知ると一安心をし、次に侯爵家に仕える騎士の役目として、事の次第をバートウィッスル侯爵ダグラスに報告した。


 当然の事ながらグレンの報告を聞いたダグラスは、血管を破裂させそうになりながら激怒した。


「おのれ、あの痴れ者が、よくも私の娘を辱めてくれたな。このダグラス・バートウィッスルが、必ず奴に目に物をみせてくれるわ」


 ダグラスは有力な者たちに文や遣いを送り、王太子セルジュを廃嫡させるべく動き出した。王家を相手取るだけに、多くの協力を得るのは難しいかと思われたが、実際には予想以上に、むしろバートウィッスル侯爵が動いた事を知って、進んで協力を申し出る者達が続出した。


 彼らのその全てが既に先日のパーティーでの出来事を知っていた。他人事ながらも王太子セルジュの没義道(もぎどう)ぶりを(いと)わしく思ったし、自分事でいえばセルジュのような男が王位につけば国政が大いに乱れるだろうという懸念があった。


 それは大使を通じて事の次第を把握していた。王国の同盟各国も同様の見解であり。


「あの小僧が王位に就けば我らの血盟も、酒場での口約束同様になり果てるであろうな」


 などという痛烈な皮肉をもってセルジュを批判する王すらも存在した。


 このようにセルジュは国内外を問わずに多くの敵を作った。その火の回る速さはあきらかに日頃からセルジュが油を撒き続けていた証左であっただろうが、その火種となったのは先日のパーティでの一件であり、元々は彼がアリシアを貶める為に仕組んだ事であったが、結果としてはそれまで王太子として一応は高い位置で保っていた彼自身の名誉や尊厳が、地獄の底にまで蹴落とされる事となった。他ならぬ彼自身の脚によって。


 一方で、急速に拡大する反王家とも言える動きに危機感を募らせる者たちも居た。このまま事態が悪化すればルメール王家とバートウィッスル家を主体とした諸侯の連合が武力衝突を起こすという、最悪のシナリオが彼らの頭の中には存在した。


 バートウィッスル侯爵ダグラスも、王家との間に流血を望まなかっただろうが、それでも事の次第によっては一戦も辞さない覚悟を決めていたし、日に日に高まる緊張感は人々に戦が近づいている事を言葉も無く告げていた。


「都市の兵士達はその顔に緊張を滾らせ、武具の手入れと訓練により一層精励し、民は不安に駆られて流言飛語の翼を広げさせ、そして商人達はこの商機を逃すまいと奔走していた」


 とは、街角で人の似顔絵を描いて日銭を稼いでいた当時の若い画家の証言である。


 時流に流されるしかない彼らは、まだ余計な事に悩まずに済む分幸運であったかもしれない。事態が差し迫る中で、それまでは中立を保っていた勢力もついには選択を迫られた。バートウィッスル侯爵家とルメール王家、そのどちらの船に乗れば嵐を乗り切る事が出来るのだろうかと。


 勢いはバートウィッスル侯爵家にあるが、ルメール王家の底力もやはり侮れぬ。いやいや戦力で言えばルメール王家が上だが、バートウィッスル侯爵も戦上手で誉れ高いではないか。ルメール王家についたほうが無難かもしれないが、バートウィッスル侯爵家に与すればその後の見返りが期待できるだろう。


 どちらに付くべきか、その判断材料の良悪の配分は絶妙で、それが彼らの頭を大いに悩ませる事に繋がった。悩まざるを得なかった。判断の誤りは即ち滅亡への()()であるのだから。


 だが事態はそんな彼らを他所に、一人の来訪者がバートウィッスル侯爵家を訪れた事により一変する。


「何、陛下がっ!?」


 国王陛下自らの来訪の報に豪胆で知られるダグラスも流石に驚嘆の念を隠しえなかったが、二人の間で行われた会談の結果は、更に多くの人々を驚かせる事となった。


「久方ぶりであったな、侯爵よ」


「お久しぶりで御座います、陛下」


 国王セドリックとバートウィッスル侯爵家当主ダグラスは屋敷の応接間にて、実に数年ぶりに顔を合わせる事になった。


 セドリックの顔を見てダグラスはやはりと思っていた。あれほど精力と覇気に富んだ王がこの頃は政治なども宰相に任せきり、自身はすっかり公の場に姿を見せる事が無くなった事から、国王は深刻な病に侵されているのではないかという噂が囁かれていたのだ。


 セドリックの顔には化粧が施されていて分かり辛いが、加齢によるものではない衰弱の色がある事がダグラスには分かった。


 だが同時に、その事について気を配る事が、かえって侮辱である事もダグラスは弁えていた為、あえてその事には一切触れず、話を進める事にした。


「この度の陛下の出御は、いかなるご用件あっての事でございましょうか」


 それは傍から見て白々しいものであったに違いないが、形式というものを踏襲するのも時には大事な事であった。


「最近セルジュの奴が泣きついてきての、汝がセルジュを王太子の座から退位させようと諸侯に促しているのを辞めるように、ワシから説得してほしいとな」


「あとはそうじゃな、グレンと言ったか、そなたに仕えておる騎士が王家に対して看過しかねる不敬を働いた故、その身柄を引き渡しを要請する、という事らしいのう」


 それには言った方も聞いたほうも、お互い馬鹿馬鹿しいと言いたげな表情をしていた。


「成程、それで陛下の大御心は如何に」


「ふむ、愚息とはいえ、子の願いを聞いてやるのが親の役目というものであろうな」


 病によりセドリックは肉体的に衰弱していただろうが、その眼の奥底の光は未だに他者を制するだけのものを有していた。


 一方のダグラスは鼻から大きく息を吹き出すと、セドリックの眼光に威圧される事なく、逆に眼を見返した。


(かしこ)くも申し上げます陛下、すでにご承知の上での事とは存じますが、くだんの件での王太子の振る舞いようはあまりにも(むご)い、父親として我が娘にした事は許せませぬ」


「またグレンの関する事に致しましても、あの者はいささか感情的になりすぎる事は御座いますが、我らに対する忠義の為にした事に疑いようはございません。お家の安堵の為にあの者の忠義に背き、罰をもって報いれば、今後一体何条を以て私が主君としての信を保てましょうか」


「私は守るべきを守る為、たとえ逆臣と呼ばれましても、陛下のご意向に従うわけにはまいりませぬ」


 セルジュのような人間が、王位について国政に大きな影響力を持つことになれば、国が大いに乱れる。そのような一般的な正論をダグラスはこの時に持ち出さなかった。


 むろん分かってはいた。だが、それは彼にとってどこまでいっても後付けの理由でしかなく、それを述べる事はこの偉大な王に対して不誠実であると思えたのだ。


「それが汝の答えか……」


 セドリックが放つ眼光が細まり、それに比例して密度が増した光が、ダグラスの瞳に入った。


「……ワシが自ら汝の下に出向いた理由が汝には分かるか?」


 それはダグラスとて分かりかねる事であった。もはや敵陣ともいえる場所に自ら乗り込んでくる気概は流石というべきではあったが、それにしては用事がセルジュの伝言だけとはらしくもないと思うが。


「それはな……」


 ダグラスの返答を待たずして、セドリックはそう勿体ぶるように溜めを作ると。


「久々に汝が驚く顔を見たかったからじゃ」


 破顔したセドリックにそう言われ、ダグラスは呆気にとられたが、すぐにセドリックの意図を察した。


「変わらぬよのう汝は」


「陛下のお人の悪さは些か磨きがかかったように思われますな」


「言うてくれるわ、わざわざ来たかいがあったわい」


 これがかつて名君と名臣と呼ばれた、二人の本当の関係性を現す会話であったに違いない。


 緊張を解いた二人は久しぶりの雑談をしばらく楽しんだ後、本題に戻った。


「汝の娘にはすまぬ事をした。セルジュの奴がああも愚行に走るとは思いもよらなんだ。親としてワシからも謝罪させて貰おう」


「勿体なきお言葉。……して陛下、この度の事の始末は如何になされたのでしょうか」


 セドリックの本当の目的は必要な沙汰の全てが決まったという事であり、それを直接伝えに来たという事がダグラスに分かった。この二人には回りくどい会話というものが不要であった。


「うむ、まずセルジュに関してじゃが、今回の事でようやく見切りがついたわい。あ奴には王位は相応しくない。廃嫡とした上でどこか適当な領地にでも収め当分の間蟄居(ちっきょ)させよう」


「そして、そなたに仕える騎士グレンは、今回の件でのその全てを不問としよう。若き頃の汝のワシに対する仕打ちを悉く不問にしてきた事を思えば、これぐらいは当然というべきじゃな、うん?」


「これはお手厳しい」


 ダグラスは苦笑いをしながらそう返した。


「最後に、王家と侯爵家の対立による不安が広まっておる。このまま放置すればその隙に乗じる者が現れるかもしれん」


「そこでじゃ、汝の娘と、ワシの次男を改めて婚約させ、それを以て関係修復が成ったことを大々的に喧伝(けんでん)し、情勢不安の解消と敵対勢力の蠢動(しゅんどう)を封じようと思う、良いな?」


「御意のとおり」


 セドリックの沙汰はダグラスとしても完全に同意出来るものであった。だが、だからこそ問わねばならぬ事もあった。


「しかし何故です。陛下がご健在であるならば、私としてもこのように事を大きくせずに済みましたのに」


 セドリックが公の場に現れなくなってからもダグラスは何度も彼の下を訪ね面会を求めたが一度も容れられる事はなかった。その事から彼自身はセドリックの容体が余程良くないのだろうと思ったし、今回の件でもセドリックに頼るわけにはいかなかった。


 しかし今日ダグラスがセドリックに逢った印象でいえば、確かに肉体的な衰えは多少見えたが、その覇気も判断力も些かほども衰えてはいなかった。


 だからこそダグラスは()()()()()()()()()。セドリックが病に掛かったのは事実だが、すでに完治したか、あるいは元々大事ではなかったのだと、しかしそれはダグラス自身の願望が無意識にそう思わせただけかもしれない。


「残念じゃが、健在ではおらんよ」


「……それほどお悪いのですか」


 この時のダグラスの顔は、目の前の人物よりも遥かにはっきりと死相が浮かび上がったように見えた。


「……うむ、今は薬を飲んで落ち着いておるがの、ここしばらくは治療の為に静養しておったが、甲斐の無い事じゃて、ワシの命数もそう長くはあるまい」


 随分前に覚悟を決めたといわんばかりの顔をして、自嘲気味にセドリックは語った。


「挙句にワシが居らぬ内にセルジュが勝手に振る舞った結果がこれじゃ」


「これは恐らくワシに対する罰であろう。政務に耽るあまりセルジュの奴に向き合わずにいたワシへのな」


「しかし、陛下が政務を疎かにする事が無かったからこそ、今のこの国の繁栄があるのではございませんか、それを以て罰をなどと……」


 あれほどの胆力を有したダグラスが、急に胸に鉛が詰まったような圧迫感に襲われ、言葉に詰まってしまった。


「そんな顔をするものでは無いわ。ワシとしては他人に下の世話をさせてまで、長生きしたいと思った事なぞ一度も無い。こうして自分で後始末を付けられる内に死ねるのだ。ワシとしてはそれで十分に満足じゃよ」


「ダグラスよ、今日はお前にあえて良かった。やはりお前にならばワシが居なくなった後の事を任せられる。月並みな事かもしれんが、国とワシの子らの未来をどうか見守ってやってほしい。友として頼む」


 かしこまりました、その一言を発するのにダグラスは鉄門をこじ開けるが如きの労を強いられた。



 ◇ ◇ ◇



 セドリックの宣言通り、程無くして王太子セルジュの廃嫡とルメール王家第二王子シプリアンとバートウィッスル侯爵令嬢アリシアの婚約が広く布告された。


 王家と侯爵家の武力衝突という悲劇が回避された事に人々は胸を撫で下ろした。当面としては軍需品を貯め込んでいた一部の商人が大損をこいたという悲劇と、先には名君としられたセドリックの崩御という別の、しかも回避のしようもない悲劇が迫る事を知る由も無かったにせよ、だからこそ市井では一件落着という雰囲気もにわかに漂いはじめつつもあった。


 しかし元王太子セルジュと侯爵家令嬢アリシアの婚約破棄から連なる一連の事件の記録は、まだページを必要とする。


 “王子セルジュによるクーデター未遂事件”それがそのページの項目であった。


 王太子から王子へと格下げをされたセルジュは、王の決定を不服として密かにクーデターの計画を練っていた。それは計画というよりも三流の劇の脚本にありがちな、説得力や現実性を著しく欠くお粗末なものであったし、そもそもこの時点で人心を大きく損なっていたセルジュがクーデターを実行した所で成功する事はまずなかっただろうというのが後の定まった評価である。


 だが項目にもある通り、セルジュが計画した杜撰なクーデターという奇形児が、生まれる前に堕胎させられたのは、不運にも発覚したというわけではなく、身内からの告発があった為である。


 告発者の名はリタ・ウィールライト、ウィールライト男爵家令嬢にして、王子セルジュの婚約者であった。


 つまり、一度自らの婚約者を裏切った彼は、今度は自分自身が婚約者に裏切られた形となる。


 彼女はセルジュが思うように自分に対して従順な(しもべ)などでは無かった、従順に振る舞う仮の姿からは想像も付かないような、野心があり、怜悧さがあり、そして冷酷さがあった。


 リタは自身が王太子妃の座に就くために、まずは邪魔なアリシアを排除する事を決めたが、ここで彼女が謀略家として優れている事を証明するのが、彼女自身の行動の小ささと、その結果の大きさである

 

 彼女はアリシア自身に対して()()()に排除をするというような大掛かりな仕掛けはもちろんの事、彼女自身に対する稚拙な嫌がらせや、彼女の周囲からの評判を落とすような工作を何も行わなかった。


 彼女がした事と言えば、アリシアに諫められて内心で鬱憤を溜めるセルジュの下に、彼が気に入りそうな女を演じて近づき、その耳元に囁き掛けただけである。


「セルジュ様は何も悪くはありません。目下の者を窘めるのは目上の者の責務ではありませんか」

「アリシア様のおっしゃりようはあまりにもセルジュ様のお気持ちをお考えになっておられない」

「間違っているのはむしろアリシア様のほうでしょうに」


 リタはアリシアと違いセルジュを常に肯定し続けた。彼が目下の者を傷つけようとも、不正義を働こうとも、その行動は全て正しいと賞賛し続けたのである。


 否定される事よりも、肯定される事のほうが受け入れやすいのが人であったから、セルジュは次第により多くリタの言う事を受け入れるようになった。


 逆に()()()()をしているのに、それに対して苦言を呈するアリシアに対してはその憎悪を募らせる事になったのである。


 そうしてリタは甘い佞言(ねいげん)でセルジュ自身にアリシアを排除させ、自らは王太子妃の座を汚れ一つない美しい、だが冷たいその手で掴んだ、かに思われた。


 彼女の策謀もその全てが上手くいったわけでは無かった。例のパーティーでセルジュの振る舞い様は流石に計算外であった。あまりにもやりすぎだろうと彼女も思ったが、今更口を出してセルジュを止めるわけにはいかなかった。そんな事をすれば今までの努力が水泡に帰してしまう。彼女としても何も手の打ちようが無かった。


 彼女が予想していたように、その事でセルジュは廃嫡され、彼女の王妃として権力をほしいままにするという野望も遠ざかった。しかしこの時点ではリタはセルジュの事を見限ってはいない。廃嫡されたとはいえセルジュは王の直系であるというだけで、十分に利用価値があったし、このまま行けば自分も公爵夫人という高い位を得る事が出来る。


 さらに公爵夫人という地位と自分の才幹を以てすれば、今度はもっと時間を掛けて強大な謀略を張り巡らせ、再び自身が王妃として、あるいは()()として返り咲く事も可能だろう、という自信が彼女にはあった。


 しかし彼女の計画はまたも計算外の事象によって変更を余儀なくされる。


 ある日セルジュが自分の部屋にやってきて話がしたいというのだ、セルジュの話というものにリタは何の興味も期待もしていなかったが、断るわけにもいかなかったので、表面上は喜んでセルジュを迎え入れた


 そして語られたのが例の杜撰なクーデターの計画である。これで俺に背いた奴を皆殺しにしてやるとか、廃嫡された事でセルジュは更に憎しみを暴走させて、この頃は狂気とも呼べるものを纏いつつあった。


 無論の事、謀略家としてセルジュよりも遙かに優れた才能を持つリタは、その計画を聞かされて内心呆れかえらざるを得なかった、彼女が彼の師であったならば、その答案は落第点どころか、採点すら拒否して突き返している所であった


 だがそうではなかったので、彼女としてはその頭脳を働かせざるを得なかった。このまま流れに身をまかせてクーデターが失敗するまで動かなければ、自分も首謀者の共犯として処刑される可能性が高い為、何か手を打たねばならなかった。


 一つ、セルジュの計画の修正をしたうえで時期を待つよう促すか。否。今のセルジュがこちらの提案を容易く聞き入れるとは思えないし、下手に刺激をして怒りを買えば自分の身が危うい、リスク高し。


 二つ、セルジュの元から逃亡し、何もかも捨てて一からやり直すか。論外。これはリスクというよりコストが高すぎる。


 三つ、セルジュの計画を告発し、それをもって最大限の利益を得られるように画策する。可。ただし婚約者を裏切った女としての汚名が今後付きまとうリスクも有り。


 四つ、セルジュを謀殺して計画を阻止し、そのうえでセルジュが持っている権力を乗っ取る。不可。これが一番望ましいが、これはセルジュと自身の間に子が居なければ使えない方法である。子供はおろか、いまだ婚約しているだけの今からでは到底間に合いそうもない。


 あと四つほど彼女は策を考えたが、結局の所、彼女は三つ目の策以外を用いようもなかった、それは彼女を以てしても、その頭脳を生かしきるには時間も手札もあまりにも不足し過ぎていた故にである


リタ・ウィールライトという少女は他人から愛される事は多かったが、その実本人は誰も愛さなかった。自らの婚約者も、自らがいずれ生む子であろうとも、単なる道具としか見なさなかった。愛していたのは己自身と、権力だけである。


 アリシア・バートウィッスルと、リタ・ウィールライトが不仲であるという噂は、度々周囲の取り巻きによって語られたが、不仲であるというのは実際は少し違う。リタはリタで目的の障害としてアリシアの事を警戒していたに違いないが、アリシアは彼女の何重にも隠蔽された本質と危険性を、恐らく本能によって察知して、無意識に警戒していたのだ。それが周囲から見て不仲であるように映ったのである。


 彼女は告発者としても完璧に立ち回ってみせた。言い逃れの出来ぬ証拠を揃え、言い逃れの出来ぬタイミングを見計らって告発を行い、自らの安堵を図った。


 彼女が予想した通り、自らの婚約者を売り払った告発は当然の事ながら後ろ指を指される事となったが。


「リタ・ウィールライトは王子セルジュの婚約者である以前に、王国の忠実な僕で御座います。心苦しくも夫となるはずの方に背きましたが、これも一重に王国の安寧を願っての苦渋の選択でありました」


 その弁解を白々しいと見切るものも居ただろうが、実際クーデターを未然に防いだという功績は彼女のものであったし、その弁解も正論を外れなかった。そしてなによりも彼女の優れた容姿と演技が多数の擁護者を生み出した結果、彼女の立場というものは裏切り者から一転、悲劇のヒロインというものへ変わりつつあった。


 だが悲劇のヒロインを()()()彼女が、本物の悲劇に見舞われるという皮肉が間も無く訪れた。


  彼女は告発を行った日から毎日教会に通い詰めて、今日も雨の日だというのに、婚約者を裏切ったという己の罪の許しを神に請うていた。


 だが実際の所で、彼女は心から神など信じてはいなかったし、それら全ては悲劇のヒロインを演じるため演出に過ぎず、心の中ではもっと別の事を考えていた。


 彼女は辛くもクーデターの首謀者の一味として処罰される事はなくなったが、しかし内心で言えば決して満足しているわけでは無かった。


 王太子妃の座を失い、ついで公爵夫人の座も捨てざるを得なかった。ただ振り出しに戻ったというだけであるならばまだマシであったが、今の彼女は悲劇のヒロインという役を演じなければいけないという制約までついている。


 この悲劇のヒロインという役割は彼女とは相性が悪いものであった。彼女の基本的な方策とは主に彼女自身のその美貌を以て有力な男に取り入り、その影響力を背景に(はかりごと)をめぐらす事にある。


 だが今の彼女はどれ程取り繕ったとしても、婚約者を裏切った女であり、男としては手が出し辛いものだろう。かといって悲劇のヒロインが積極的に他の男にアプローチを掛ければどうなるか、それは彼女の本性を白日の下に自ら晒す事に違いないだろう。


 リタは誰にも聞こえないように舌打ちをしていた。それもこれも全てあのセルジュのせいだ。


 男は愚かなほうがよい、そのほうが操り易いからだ。だがしかしあの男はあまりにも愚か過ぎた。もう少しだけ利口であったならば、子が生まれる間ぐらいまでなら、好きにさせても良かったものを。


 彼女には焦りがあった。それは彼女が抱く大きすぎる野心ゆえの慢性的なものであったが、ここにきて相次いで不本意な計画の修正を余儀なくされた事が彼女を更に焦らせた。


 しかし客観的にみれば、彼女は焦る必要など無かったのだ。彼女は十分に若く才能にも恵まれていたし、いくらでも再起をはかる方法はあったはずである。


 だが人間がもっとも執着心を抱くのは一度手に入れたはずのものを失った時であるし、それが王太子妃や公爵夫人といった高位であるならば、彼女といえど無関心というわけにはいかなかった。


 彼女の不幸は、その膨れ上がった執着心と、雨上がりの湿った空気の不快感が彼女の視野を狭く曇らせてしまった事にある。


「あっ」


 弁口においても才があったはずの、彼女の最後のセリフがそれだった。教会から帰路につこうとしながらも、彼女は未だに思惟の沼に抜け出せずにいた。そのせいで教会の敷地内にある石段の水溜まりを見落としてしまったのである。


 奇しくも彼女は、自分が陥れようとしたアリシアと同様に、階段で大きく転倒して頭を強かに打ち付けた。違うのはアリシアは助かり、そしてリタは運悪く助からなかったという点である。


 彼女はその野心と才能にふさわしくない死に方を遂げた。一応王子の婚約者が事故死したというのは一瞬人々の関心を誘ったが、何しろその王子自身の処断が決定したというのだから、そちらに関心を攫われる形で、それすらすぐに忘れ去られた。



 ◇ ◇ ◇



 王子セルジュの罪状はクーデターを企んだ事、多くの要人の誘拐及び殺害を企んだ事、国の建物や施設等の不当な占拠や破壊を企んだ事などであり、その全てがリタが自己保身の為に手を尽くした完全な証拠と共に御前裁判の場に提出された。


 弁解の余地というものが無いという事は誰の眼にも明らかであったし、元よりいまや()()()とまで名指される、今のセルジュを擁護しようとするものはいない。彼の父親ですらその例外ではなかった。


「馬鹿息子め……」


 それだけをそのやつれた顔で噛みしめるように呟いたきり、その後セドリックは口を差し挟む事は無かった。心中では肉親としての情がセドリックには残っていたかもしれないが、王としてはクーデターを企んだ主犯に情けを掛けるわけにはいかなかった。ただでさえ周辺国と諸侯達の関係が緊張している最中、肉親の情に(ほだ)されて甘い処罰を下させれば、国と王家に対する信用が完全に損なわれる事は明らかだった。


 だれも異議を唱える事がない裁判所で、法務官がセルジュの罪状を読み上げる淡々とした声だけが響いた。それは裁判というよりも手続きや儀式といった類いのものを思わせた。


「――以上が殿下の罪状でございます。異議はございますか?」


 法務官の問いかけに被告たるセルジュの返答は無い、裁判開始から自らの命運の絶望の為に、一言も発さずに虚ろに項垂れていた


 最後くらいは王族らしく潔く振る舞って欲しいものだ、と内心思いつつも法務官は判決を下すため木槌を握った。しかしその手を振るう前に、法廷係官が今しがた書簡が届けられた事を告げた為に、一旦判決を下す事を中断せざるを得なかった。


 やれやれまた新しい証拠か、すでに被告人に最大級の量刑を与えるだけのものが十分すぎるほど揃っているというのに。


 だがかといって新たな証拠品を無視して判決を下せば、それは裁判を公平性を損なう、いや、元々裁判が必ず公平というわけではないのだが、それは自分の力の及ぶ所では無いし、この裁判に限っていえばすでに判決は変更のしようもないだろう、だからこそせめて後腐れの無いように努めよう。


 そう法務官を思いながら書簡に眼を通した。だがその書簡は彼が予想していた類いものではなく、王子セルジュの助命を願い出る書簡であったのだ。


 この王子にもまだ慈悲をかけようとするものが居たか、と法務官は感心したが、その書簡の主の名を見つけ更に驚いた。


「アリシア・バートウィッスル……!」


 思わず名前を読み上げた法務官のもとに、一同の注目が集まった。それまで項垂れていたセルジュもその名前を耳にして顔を上げた。


「アリシア……?」


 半死半生といった面持ちでセルジュが呟いた。


「……どうやら貴方の元婚約者は貴方が救われる事をお望みのようですな」


「アリシアが……? どうして……」


「お分かりになりませぬか。この方はまだ貴方の事を愛していらっしゃるからです」


 その事実の指摘はセルジュを始めとして誰をも愕然とさせた。セルジュがアリシアに対して行った仕打ちを知らぬ者はその場に一人も居なかった。


 誰もがセルジュが処刑される事を望んでいた。国を乱そうとする不届きなクーデターの主犯として、王位に相応しくない愚かな王子として、そしてアリシアにはその群れを成す人々の先頭に立ってセルジュを断罪するだけの十分な根拠があった。


 彼女は今まさに地獄へと繋がる谷底へと突き落されんとする男に、最後の一押しをくれてやって、微笑んでみせてもよかった、それが普通だった、そうしても誰も咎めはしなかっただろう。


 にも関わらず、アリシアは自分を裏切り、自分を貶め、自分を傷つけた男の為に、その清く温かい手を差し伸べたのである。


 後世において彼女が聖女として語り継がれる上で、これが最も著名なエピソードとして人々に記憶されている。


「殿下、どうかお認めください、貴方の罪を、貴方の過ちを、恐らくそれがこの方に唯一報いる術でありましょう」


 セルジュはアリシアのその手を、その愛をこの時初めて知覚した。だが同時にアリシアの手に自分の手が触れた時、彼自身の手がどれほど冷たいものであったのかを彼自身に自覚させたのだ。


「俺が……俺が間違っていた……すまなかった……アリシア」


 セルジュは半ば泣き崩れるように自分のしでかした事、自分が傷つけた者、そしてアリシアの愛情にこの時まで気付けなかった自分を、深く悔いたのであった。


「……よろしい、ではこれより判決に移ります――」


 木槌が強かに打ち付けられた。



 ◇ ◇ ◇


 アリシアの遣いとして裁判所に書簡を届け、そしてその判決を見守ったグレンが彼女の下へ戻って来た。


 判決で王子セルジュは有罪となり、アリシアの助命の願い出は有ったが、容れられる事は無く、その死が確定した。その事は事前にグレンは忠告はしたし、アリシアも分かってはいただろう。だがそれでもアリシアはセルジュを救ってやりたいと思ったのだ。せめてその魂だけでも。


 その甲斐もあってか、最後にはセルジュは改心して、自分の罪を認めた為に減刑され、処刑ではなく、彼の最期の名誉を保つ為に自裁という形が許された。


「最後に王子はアリシア様にすまなかった、と言っていました」


 だが結局の所、セルジュの命を救えなかったという事は、彼女にとっては恐らく、ずっと心の中に残り続ける事になるだろう。


「そう……」


 彼女は黙祷を捧げるように目を閉じると、息を吸い、そして大きく吐き出した。それが彼女の気持ちを落ち着ける為の決まった儀式であった。


「正直に申し上げれば、自分にはあの王子を許す事が出来ません」


 何故あの男にそれほどの慈悲をお掛けになるのか、グレンの困惑が混じった無言の問いかけに、アリシアが答えた。


「……私とセルジュが出会ったのはずっと小さい頃よ、お父様と陛下の間で私たちの婚約が決まったから、私も顔合わせの為に初めて王城に登城して、そこでセルジュと出会ったの」


 今でも覚えている。セルジュが“僕のお城の案内してあげる”と引っ込み思案だった私の手を引いて城の中を色々と巡った事を。それからも王都に滞在している間、二人で一緒になってよく遊んだ事を。


 時にはイタズラが過ぎてお父様たちに酷く叱られたりもしたけれど、それでも私にとっては凄く大切な思い出だった。


 だけど、国境近くで仲の悪い隣国の兵士がうろついているという報告が入ったので、国境付近を治めているお父様が領地に戻る事になり、それに従って私はセルジュと別れてしまった。


 それからは何年も両国の緊張が続いた事もあって、私はセルジュに会う事が出来なかったけれど。陛下の地道な尽力が功を奏して講和が成り、私は久々にセルジュに会うために王都に向かった。


 でも再会したセルジュは、私が知っているセルジュとはまるで別人のようだった。あれほど純朴で心優しいセルジュが、まるで人を信用せず、それでいて常に何かに怯えているような、そんな瞳をしていた。


「もちろん私はセルジュに何が有ったのかを何度も聞いたわ。まともな返事は一度も返ってこなかったけれど。でもだからこそ私は、セルジュを変えてしまうような余程の事が彼を襲ったのだと確信したの」


 お父様が昔おっしゃった“力を持つ者はそれ故に必ず苦難に晒される”と、王太子という強大すぎる力が課したその苦難に、純朴で心優しい、だがそれゆえに傷つき易くもあったセルジュの心が打ち勝つ事が出来なかったのだろうと思う。


「確かにセルジュは王だの王太子だのに相応しくなかったのかもしれない。だけど王家に生まれた()()が、身を滅ぼすほどの権力を与えられた事が、彼自身の罪として糾弾されるべきことかしら」


 セルジュは王家になど生まれるべきではなかったのだ。そうすれば昔の、自分の知っている本当のセルジュのままでいられただろう。少なくともアリシアはそう信じていた。


「……私の身に過ぎた事を言ったわ。けれどこれが私の紛れも無い本心よ」

 

「アリシア様……いえ、貴方がお信じになられるならば、自分もそれを信じましょう」


「ありがとう、グレン……」


 アリシアはグレンの瞳を見つめながら、ふと思った。もしも私も侯爵家に生まれていなければどう生きていただろうか……、だがそこから先は彼女自身が固く鍵を掛けた為に、ついに終生誰にも語られる事はなかった。

 

「……そうだわ、私のお遣いをしてくれたグレンの為に、今日はご馳走してあげる」


「え、アリシア様の手料理で御座いますか」


「そうよ、寒くなって来たし今日はシチューを作ろうと思うの」


「さ、さようで御座いますか、いや、しかし、自分は今日はちょっと用事が……」


 アリシアの言う通り、人々が肌寒さを感じ始める今日この頃であったが、グレンの額にはそれに相応しくない大粒の汗が浮かび上がっていた。


「そう……じゃあ明日グレンが来た時の為に取っておくから」


 どうあってもアリシアのシチューからは逃げられそうもない事を悟ったグレンは、どうせ腹を壊す事になるだろうからと、騎士らしく腹をくくってみせた。


「いえ、ならば用事のほうを明日に致しましょう。アリシア様のお料理、是非頂きたいとおもいます」


「そう? じゃあ腕によりを掛けて作るから、楽しみにして待っていてね」


 キッチンへと向かう嬉しそうなアリシアを、やや苦笑いで見送るグレンだった。

最期まで読んでいただきありがとうございます、今後もテンプレものを中心に書いて少しずつ上達していければなと思います、応援よろしくお願いします


2021/12/19 少し加筆と、見直して蛇足であった部分をカットしました


2021/11/11 19:42 ご報告頂いた誤字等を修正致しました、ありがとうございました

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 雑な味付けになりがちなテンプレ婚約破棄ざまあを際立った筆致で丁寧に描写してシナリオに説得力を生み出した作者殿の筆力に感服しました。 特に「なんでこんな事したの?」「お花畑だからです!」で書き…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ