その三
いつもは頼みもしないのに、昼休みにはいるとぼくの机に弁当箱を広げ始めるくせに、しかし今日は四時限目終了のチャイムが鳴っても顔を突っ伏したまま身じろぎひとつしなかった。
「おい、河野」
後ろから河野の脇腹のぜい肉をつまむ。
「いつまで寝てんだよ。もう昼休みだぞ」
お前くらいなんだよ、うちの親父がつくるパン食べるやつ。
頼むから、起きてくれよ……。
「…………。」
しかし、河野は顔をあげなかった。
すこし腹が立って、河野が座る椅子の足をガンと蹴るも、やはり反応が返ってこない。
「河野……?」
すこし、心配になってきた。
「おい、起きろよ。何かあったのか」
「京子りんが……、」
「なに、京子りん……? 聞こえないよ。もっと大きな声で話せよ」
すると、河野は俺の耳を鷲掴みにし、こう怒鳴った。
「俺の愛しの京子りんがぁ────!
ジャニーズの優男とラブホに行っていたのだぁ────────!」
キーン、
と耳鳴りがした。
ちなみに、京子りんとは、河野が敬愛する地下アイドルグループの推しメンの女の子である。
「……お、お前、ぼくの鼓膜をなんだと思ってるんだ。この発汗デブ」
「鼓膜は破れても再生する! たった三週間で再生する! しかし、俺のこころはもう二度となおらない! あの快活な京子りんが! 性に奥手で、実は内気で、イケメンを大の苦手とするあの京子りんが! 母の日に、岐阜で暮らすお母さんへ向けて、必ず花束とメッセージカードを贈るあの京子りんが! あんな……、あんな、どこの馬の骨とも知れないヤリチン風情に身体を許すなど!」
「それ、全部いわゆるキャラ設定ってやつじゃあ……、」
「おらあ!」
重い右ストレートがぼくのみぞおちにめりこんだ。
ぼくは河野の正気をうたがった。
「漆原よく聞いてくれ! 俺は、もう三次元の女はほとほと見下げ果てた。現実の女というのは毒だよきみ! 彼女たちは自分の美しさを知っている。それが武器になることを生得的に知っているんだ! そして期待をもたせたあげく、軽く手のひらを反しては我々をどん底へと叩き落すのだ! だがいいかい、よく聞けよ、話はこれで終わりじゃない。女の真に恐ろしいところと言えばだね、俺たちの苦悩が大きければ大きいほど、女はかえって自分のした仕事に満足感を覚えるというところなんだ。ゆえに、俺はここに宣言する! 今日をもって俺は、アイドルオタクを引退することを、ここに宣言する!」
くの字になって倒れこむぼくを気にも留めず、河野はひとり勝手に盛り上がっている。
「だが、俺は無論ただで倒れるつもりはない。生きる価値が失われたなら、また新たな価値を創造すればいいだけのこと、そう思わないか漆原?」
「……思う。思うよ。思うし、いいこといってる気がする。でも、新たな価値を創造する前にまずお前は、友人に暴力を働いたことに対し誠意ある謝罪をするべきなんじゃないか……」
「友人の頼みだ。聞いてやろう。すまなかった」
「素直なところ、お前の長所だと思う」
ぼくは立ち上がると、河野へ包みを手渡す。
「あとこれも、食ってくれ」
「これは?」
「納豆キムチ酢だこパン。親父の新作だ」
中身を確認した河野は、どこか涼やかに笑った。
「なるほど、今回の相手もなかなかの強敵のようだ」
「放課後暇なら、うちのパン屋にもきてくれ。全部買い占めてくれないと、今日のぼくの晩飯にそいつが並ぶことになる」
「OK。男と男の約束だ」
河野はうなずき、握りこぶしで胸を叩く。
「そうだ。いつももらってばかりだと心苦しいからな──、」
言って、河野はリュックサックから弁当箱ほどの厚さのプラスチックケースを取り出す。
「昨日、わざわざ秋葉原のソフマップに足を運び手に入れたものだ。共に同じ道を歩む覚悟があるなら、これをお前に授けよう」
ぼくは、手渡されたプラスチックケースを見つめる。
「これは──、」
表紙には猫のように大きな目をしたアニメの女の子がプリントされており、胸部を強調する扇情的なポーズで、こちらを誘惑しているではないか。
「アニメかなんかか?」
しかし、河野は首を横にふる。
そして、プラスチックの背表紙を二度指さした。
そこには、銀色のやけにテカテカとしたシールが貼られていた。
「十八歳未満お断り?」
「ああ、いわゆる成人ゲーム。もっと身近な言葉でいえばエロゲーだ」