6話 愛(上)
キーンコーン――7時間目のチャイムが鳴り響く。
「これで今日の授業を終わります」
先生はそう言ったあと、俺が教科書を閉じる前に教材を抱えて速やかに教室から立ち去った。その早さに目を取られているうちに、パチンと俺の隣で鞄の磁石が閉まる音が鳴る。
「春、じゃあな」
晃久が鞄を持って立ち上がり、俺に軽く笑顔で手を挙げてから教室を出て行った。
俺はそれからやっと教科書を鞄にしまって、わいわいと皆が話しながら帰る準備をする中、机の上にぐーっと腕を伸ばした。そのまま腕を枕のように寝転んで、顔だけ横に向けて窓の外を眺める。今日の俺は掃除当番だ。
夕日を見ながらクラスメイト全員が帰るのを待った。
「春、じゃあな!」
「おう」
最後の生徒が出ていったので体を起こす。
「やるかー」
誰もいないので、自分の席で両手を大きく伸ばして体のこりをほぐしてから腕をパタンと下ろした。そこから立ち上がって、教室の中の見回りをする。
床に落ちていたタッチペンやらハンカチやらの小物を、近くの机の上に置いて、大きく列からずれている机を、前後左右が等間隔になるように整頓させた。
最後は教卓に立って教室全体を見渡す。
「よし、これでいいだろう」
帰ろう。自分の席に置いていた鞄を右手に持って教室の扉に向かうと、扉が人を検知して自動で開いた。開いた扉のその向こう――通路に並んでいる掃除ロボットに声をかける。
「1-Dいいぞ」
「了解、しました」
俺の声に反応して、一番手前にあった掃除ロボットが動き始めた。教室を出た俺と入れ違いになるように、ロボットは教室に入っていった。
「寒い」
雪は降っていないが、風が身に堪える。マフラーをぎゅっと締めてから、寒さから身を隠すように体を小さくして歩き始めた。
校門を出て――そして今日も当たり前のように迎えは来ていなかったので、いつも通り自動運転車が待っているであろう1キロ先まで歩く。もう日が沈んでいるので、街中をぽつぽつと街灯が照らしていた。エンジン車が完全になくなって、昔より澄んでいるらしい冬の空気を吸い込みながら、知っている星を探すために空を見上げた。
慣れた帰り道。何も考えずとも足は目的地まで向かう。ふと視線に何かが引っかかって顔をそちらに向けると、ショッピングモールの大きなクリスマスツリーが今日は点灯しているのが見えた。
いつもはもっと帰りが早いので、点灯しているのを見るのは今年で初めてだ。
寄ってみるかと足をそちらに向けて、何人か俺と同じように通りかかったらしい見ず知らずの人たちと、青、紫、赤、白のライトで輝く大きなツリーを見上げた。寒空の中、目に染みるほど輝くそれは確かに綺麗だけど――綺麗なそれを見上げながら頭の中に思い出すのは、ルーと飾りを手作りした小さな小さなクリスマスツリーだ。
俺の担当はメタルカラーの紙で作る小さな箱。大きさはばらばらだったけど、金の紐で飾るとそれっぽく見えて、ルーに出来映え自慢しながら俺は一つ一つぶら下げていった。
COMNを通じて自宅サーバにアクセスして、『ツリー』で検索する。
2074年12月9日のアルバム――周りの人に見られないように携帯端末に展開して見えたのは、飾りつけのバランスの悪いクリスマスツリーの前で笑顔でポーズを取る俺と、俺の横でしゃがんでいつもの顔で笑っているルーだ。
その記録をじっと見て、他人事のように苦笑してから、端末をポケットにしまった。
今年は、久しぶりに飾ってみるか。そう考えながら目の前の豪華なクリスマスツリーから少し下がって、頂上で輝く星のオーナメントを見上げた。
「そろそろ帰ろう」
少しほどけていたマフラーをぎゅっと締め直して、俺はショッピングモールを離れた。
5分くらい歩くと、いつもの場所にちょうどタイミングよく自動運転車が止まるのが見えた。中から人が降りてきたけど、あれがたぶんルーが手配してくれた俺の迎えだろう。少し離れた場所で手を温めながら待つ。
中にいた人が順に降りて、それ以降誰も出てこないのを確認してから、車に近づいてドアを開いた。
中に見えたのは年配の男性――
「す、すみません」
寒かったから早まってしまったと、俺が頭を下げながら身を引いたとき、車内から俺に向かってなぜか腕が伸びた。
その腕を反射的に避けようとした俺の耳に
「バチン」
何かが弾けるような大きな音が聞こえたとき――俺の意識はすでに消えていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
人の気配がして目が覚める。
頬が異常なほど冷たい。この感触はコンクリートだろうかとぼんやりと考えて――なんで俺はコンクリートの上で寝ているんだと、我に返って慌てて起きようとするけれど、腕と脚が動かない。
「え?」
どういうことだと半ばパニックになりながら、腕を必死に動かす。
しばらく格闘してから、どうやら何かで手首の付け根が縛られているらしいと、手首の感覚から判断して――そこでやっと顔を下に向けた。ロープのようなもので縛られた俺の手首が見えた。
「起きたかしら?」
突如頭上から聞こえた女性の声に、そちらを見ようとするが体が横を向いているので上手く見上げられない。縛られた体を振るように仰向けになって、俺の視界に部屋の電球を遮って俺を見下ろす女性のシルエットが見えた。
こちらに伸びている女性の手。そこに届かせようと腕を上げると女性が俺の手を握ってくれた。それを支えに、腹筋だけで何とか起き上がる。
「すみません。ありがとうございます」
女性に礼を言ってから、下を向いて一息ついた。
顔を上げると、年齢がばらばらの4人の男性と1人の女性が俺を囲んでいた。そして全員が興味津々といった様子で俺の顔を覗いている。
その視線の強さに、思わず逃げてしまった俺の目に入ったのは、俺の知らない異常に殺風景な部屋だ。ここはどこだ? 俺はなぜここにいるんだろう。と言うか、俺は何で腕と脚が縛られているんだ。
手首を縛ったローブを見ながら、取ろうとするが固く縛られていて、俺の腕力だけだとほどけそうにない。色々と訳が分からないが、まずはこのロープをほどいて貰おうと、顔を上げたとき、いつもよりも首元がすっきりしていることに気がついた。
今日はマフラーを付けていたはずだが、それがなぜかなくなっている。そしてマフラーのさらにその下、いつも首に付けているCOMNの感触がなくて、一気に血の気が引いた。
「すみません。俺が首に付けていたCOMNは」
慌てて周囲の人たちに聞くと、俺を囲んでいた全員がひどく驚いた顔をした。
しばらくお互いに顔を見合わせたあと、その中の50代後半くらいの男性が、なぜか悲しそうな表情で俺に話しかけた。
「君のCOMNは壊したよ」
「はっ?」
男性の発言に、考えるより先に言葉が漏れる。
壊れたじゃなくて、壊した? どうして? しばらく混乱したあと、COMNが壊れたという事実だけが、すっと体の中に入ってきた。寒気のするような嫌な感覚がする。
首輪型のCOMNは高い。俺からすれば、ものすごく高い。俺が普段大切に使っているものは、国からFチル用に貸し出しされているものだ。これまでも壊さないように、体育の授業や、寝るときなど、首が大きく動いて少しでも壊れる可能性がある場合は外していた。
俺が何年真面目に働いたら弁償できるのだろうかと、平均年収から真面目に計算して、まともに絶望する。
不慮の事故であればさすがに国も――弁償だけは勘弁してはくれないだろうか。
「大丈夫。君にはもう必要ないんだよ」
その声に顔を上げると、先ほど俺に『壊した』と言っていた男性が、親切そうな顔で俺の顔をのぞき込んでいた。
COMNのことで動揺して全然頭が回っていなかったが、『壊した』――その言葉に対する怒りでやっとまともに頭が動き出す。
「どうして俺はここにいるんですか? これを外してもらえませんか?」
反応がない。そんな周囲の人たちに、俺の縛られた腕と脚を持ち上げて見せた。
「すみません。動けないのでこれを外してください」
もう一度言うと、俺を囲む人たちはやっと悩むように俺から少し距離を取って、こそこそと内輪で話を始めた。遠目に一人だけ何かを反対しているように見える女性が、しびれを切らしたようにこちらにやってきて俺を見下ろす。
「あなたはACSRを知っている?」
ACSR!―― 『ロボットが支配する現代社会を解放しよう』とか謳っている連中だ。
ただ大人しく、デモという行為で主張するだけなら全く問題はないが、最近は幼いFチルを何人か『解放』と称して誘拐している。
だけど、ターゲットは乳幼児からせいぜい7歳くらいまでだった。俺はルーに「気をつけてくださいね」と何度も念押しされつつも、自分は大丈夫だと、関係ないと思っていた。
自分の現在の状況を段々と理解してきて顔色が悪いだろう俺に、女性が微笑んだ。
「さすがに知っているわね。単刀直入に言うと、あなたを『解放』するつもりです」
「いや、待ってください! ACSRは小さい子ども限定じゃないんですか!? 何で俺なんか――」
俺の言葉に、慣れているかのようにACSRの人たちが一斉にため息をついた。そして一番始めに話しかけてきた50代の男性が、仲間に何かを伝えるように頷いてからこちらを向いた。
「別に我々は幼児だけを狙っている訳ではないよ。でも、やはり大きい子どもは扱いが大変だろうし、より問題が深刻だろうから我々も経験を積むまでは辞めておこうと考えていたんだ」
子どもに話しかけるようなその口調。
「だけど、一人目は君だと思って。君は政府の報道に出ていただろう?」
俺は『選ばれた』のだと――まるでそれが喜ばしいことだと言いたいようなその顔に、笑うことなんてできなくて、俺の顔は引きつった。
去年、俺は政府が主催したFチルの報道番組に、代表として出たことがある。ルーが「断ってくれてもいいのですが……」と珍しく俺に頼み事をしてきたのもそうだけど、何もかもを税金から出してもらっている俺に断れる訳がない。
「出たけど……」
まさかあんなことでACSRなんかに目を付けられるとは思っていなかった。俺だって正直言うと嫌だったのを、しぶしぶ出たのにあんまりだ。
後悔で泣きそうになった俺に気がついたのか、女性が優しく俺の顔をのぞき込んだ。女性の年齢はよくわからないが40代ぐらいだろうか。子どもがいそうな普通の女性にしか見えない。
「大丈夫。手荒に扱ったりはしないわ。これまでの子供たちも、幸せに海外で生活しているのよ?」
ほっそりとしたその女性は優しそうな笑顔と声で――そう、俺に死刑宣告を告げた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
冷たいコンクリートの上に座ったままだった俺を椅子に座らせて、ACSRの5人は罪人を囲む査問官といった様子で俺を取り囲むように椅子を配置して座った。
「番組を見て思ったのだけれど、あなたはヒューマノイドに大きく依存しているわね。ここに来てまず探したのもCOMNだったし」
女性の言葉に、COMNを付けていないときの方が稀な首元を意識する。
「COMNを探したのは高いからです。あれは税金です」
「きみは自分の頭の中を覗かれて、気持ち悪くはないのか?」
突然俺に質問してきたのはこれまで黙っていた、40代前半くらいの神経質そうな眼鏡をかけた男性だ。
特に年配の人に多いが、COMNを使ってヒューマノイドと会話するとかそれ以前に、突き詰めればロボットであるヒューマノイドとの会話自体を嫌う人たちがいる。そんな人たちにとって、COMNを介して頭の中でヒューマノイドと会話する俺たちは、頭がおかしい人らしい。
でも、この人たちは『言葉を発するのが面倒だ。テレパシーで伝われ』と思うときはないのだろうか。ルーと幼い頃『言葉にして話す』練習までしたことがある俺は、COMN便利なのになぁと思いながら質問に答える。
「ヒューマノイドが読み取れるのは、はっきりと、こちらから発した思考だけです。深層意識まで読み取れるわけではありません」
俺だってルーに隠し事がないわけではないが、仮にそれをルーに知られたとして、一体何になると言うのだろうか。
ただそこまでは言わずに、事実だけを述べると、俺に質問してきた男性は俺のありきたりの言葉に不満そうな顔をしていた。
また何か来るのかと警戒していると、反対側から尋問が来た。
「『いっしき』君。きみはさ、Fチルのことをどう認識しているの?」
ここにいるACSRのメンバーの中で一番若い男性だ。先ほどの尋問の中で、俺の名字がやけに強調されていたので、質問の裏に含んでいることの意味が伝わった。
Fチルの名字は、戸籍上では全員ひらがなだ。俺たちには家系なんてものはないから、本来は名字はいらない。
だけど、日本人として――いや人類としては、名字があるのが当たり前だ。だから俺たちにも、名字が貰える権利が与えられることになったらしい。
だけど、既存の名字を適当に割り当てるのは、本来の名字の機能である『家系』がわからなくなるという反対意見から直ちに却下された。また、存在しない名字を新しく作って割り当てるのも、名字からFチルだと言うことが推測できるため、差別につながるのではないかという理由で取り下げられた。
結局、既存の名字をルーレットで選んで、それをひらがなで書き表したものをFチルの戸籍上の名字とし、日常生活では漢字の方を使用してもいいですよという中間案のようなものが採用された。
そんなこともあって、Fチルは普段あまり名字を名乗らないが、俺は学校では『一色 春義』、戸籍では『いっしき 春義』となっている。
Fチル成立当時のことを調べると、よくもまぁそんな細かい内容で揉めるものだと言いたくなることがたくさんある。
「Fチルがどうって、俺はその制度がなければ生まれていないから、どうもこうもありません」
Fチルをどう思うか――なぜか周囲の大人たちは、俺たちにそのこと深く考えるべきだと強要するように、よくそんな質問をしてくるが、俺は生まれたときからFチルだ。俺が男であることを深く意識しないように、Fチルであること自体にはどうもこうもない。
「あぁそうだったね。じゃあさ、政府の方針には賛同しているってこと?」
無邪気に思えるような気軽さで、そんなことを聞いてくる男性に少しむっとする。この男性も俺に『政府のことを恨んでいる』と、そう言ってほしいのだろうか。
「労働力として生み出されたことに、俺だって何も思わないわけではありません。でも、目的があるから生み出されるのは普通の人も同じだと思う。俺たちだけが特別ってわけじゃない」
何度かFチルのことについて自分で勉強して、自分で考えて得られた答えを初めてはっきりと人に対して口に出した。
「君は愛を全否定するんだね」
男性は、両手を広げて、あきれたように俺に言葉を返した。
愛を否定? なぜいきなりそんな話になるのかすぐにはピンとこなくて、しばらく考えてからやっと意味がわかった。
「俺たちは――」
「ねぇ、私はカウンセラーをしているの」
女性が突然会話に割り込んできた。
「春義くん。これまでの子たちと違って、あなたはもう大きいから、時間がかかるかもしれないけど、新しい家族と一緒にゆっくり学びましょう?」
聞き分けのない子どもを心配するように、ゆっくりと真摯な目でこちらを見て言われたその言葉に、俺はあっけに取られた。
学ぶって何を?
話の流れからすると『愛』を、とでも言ってくれるのだろうか。
「いえ、いいです。俺は帰ります」
この人たちは、俺が何を言っても本気で聞きはしない。この人たちはきっと、この人たちが望んだ答えしか受け取ってくれない。短い時間だけどそれがわかった。
「サポートする体制はできているわ。残念ながら、住むのは日本ではないけれど、お金のことは心配しなくていいのよ?」
明らかに本人は『善意』だと思って言っている言葉に、ぞっとする。
「すみません、帰らせてください。俺がここで見たことや、あなたたちに会ったことは誰にも言わないのでお願いします」
とにかく解放してほしくて、俺は頭を下げた。俺が家にも帰らず、COMNもつながらないこんな状況では、ルーが俺を心配して暴走していてもおかしくはない。お願いしますと、惨めに見えてもいい――とにかく必死に頭を下げた。
「帰るって、あなたヒューマノイドしかいないでしょう?」
『一体どこに帰るのか』と本当に疑問に思って俺に問いかけたような声に、小さく息を飲んだ後、だんだんと頭に血が上ってくるのがわかった。
「あんたたち……Fチルのためとか言って、Fチルの意見を聞いているのかよ……」
頭の冷めた部分では、こいつらを怒らせるのは得策ではないとわかっていたが、俺は止まらなかった。
「あんたたちは俺がヒューマノイドと暮らしているのをかわいそうだと思っているんだろうけど、俺はヒューマノイドとの暮らしに満足している!」
『行ってきます』、『行ってらっしゃい』。
『お帰りなさい』、『ただいま』。
俺がそんなやりとりをするのは、生まれたときから、ルーだけだ。
「俺は普通の人間の生活なんて知らない。俺はルーとしか暮らしたことがないんだから、そんなものわかるわけがないだろう! あんたたちに、俺とルーの、何がわかるって言うんだ!」
俺はそう叫びながら、無性に泣きたくなって――ルーの作ったチャーシュー入りオムライスが食べたくなった。
俺の急な行動にあっけにとられたACSRの連中の間抜けな顔を前に、頭に血が上ったまま文句を続ける。
「なのに、あんたらはなん――」
「春。ストップです」
急にささやくように俺の耳に入ってきたのは、ルーの声。
「春。私の声が聞こえていると、周りの人にはばれないように行動してください」
どうやらルーの声は俺にしか聞こえていないらしい。どこから聞こえてくるのかはわからないが、ルーの声に安心して涙が出そうになった。
既に十分挙動不審であったけれど、ルーの指令通りにごまかそうとして「もう何なんだよ……」とはき捨てて、下を向いて椅子に深く座り込んだ。
「ごめんなさい、疲れているのね。一旦休憩にしましょう」
女性が下を向いた俺に優しく告げた。
俺が怒ったのは、俺が疲れているから。
この女性の頭の中ではさっきの出来事がそう処理されたのかと、そのことに虚しさ感じながら、俺はゆっくりと目を閉じた。