2話 『どうして』
小学校6年生で初めて受けた性教育で、子どもは卵子と精子がくっついてできると学んだ。そして、それをする方法と、それを防止するための方法を学んだ。
大人たちがこれまで私たちに隠してきたことを、やっと教えてもらえたのだと、その日、クラスの皆の顔は高揚していた。
私はもちろんそのことをその前から知っていた。自分がその方法で生まれてきたわけではないことも知っていた。けれども、不妊治療などで私と同じように生まれてきた子どもも、この中にはきっといるはずだ。私だけが特別ではないと思っていた。
だけど、クラスの皆は、この日初めて知った。
なぜ私が、町の大人たちから特別扱い――いや、嫌悪されてしまうのか。
その理由を。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
中学までは、学校では私は『家庭環境が複雑で、変わった子』――その程度の扱いだった。隅の方でひっそりと生きる子たちに紛れていれば、私がクラスの中心グループの人たちに、目を付けられるようなことはなかった。
親友かと言われれば頷くのはためらわれるけれど、毎日学校で話しをする友だちもいた。そして家に帰ってネットに繋がれば、現実では会ったことはないけれど、Fチルや趣味の大切な友人たちがいた。ネットに繋がりさえすれば、距離なんてものはあってなくなる。私は、家に帰ってネット世界に潜るそのときだけは、この町に住んでいることを忘れられた。
早く大人になりたい。
大人になったらカザネと、カザネのことをあんな目で見る大人がいない町に行こう。毎日そう願っているうちに、私は高校生になった。
何がきっかけだったのか、始めはまったくわからなかったけれど、思えば5月頃に男の子に告白されたあの件ではないかと思う。これまでひっそりと暮らしていた私は、そのときに少し目立ってしまった。
私は、もちろん断った。私は大人しそうな外見をしているとよく言われるけど、中身は別にその通りじゃない。私に告白してきた彼は、大人しくて従順そうな子と付き合いたかったのだと思う。だから私は、
「ごめんなさい」
とただそう言って断った。
その彼が私に意地悪をするなんてことはなかったけれど、私の行動はクラスの中心グループの女の子たちの癇にさわったらしい。「何様だ」と、私に聞こえるように女の子たちが非難しているのを何度か聞いた。だけど、仮に付き合っていたとしても、「立場をわきまえろ」などということを言われていたはずだ。私は自分への悪口を、あまり気にしないようにしていた。
それから一月ぐらい経って、私がやっと目立たなくなってきたころ、クラスの友人に頼み事をされた。
「今日、用事があるから掃除当番を代わってくれない?」
私は友人の頼みを聞いた。
友人は、悪気があってあのとき頼んだのではないと思う。だけど、それから私は毎日、クラスの女の子たちから掃除当番を代わってくれと頼まれるようになった。
3日も連続で別の子から頼まれれば、さすがに偶然じゃないことは分かる。
私は嫌だと、はじめは断った。だけど、私に頼む女の子たちは私が断るなんてことを認めないように「じゃ、佐々木さんあとはよろしくね」とあっさり帰ってしまった。
私は無視して帰るべきだった。今だったらそう思えるけれど、あの子たちに本当に用事がないとは限らないし、15分くらいで終わるのだから、頑張ろうと私は掃除当番を引き受けてしまった。
それから私は毎日放課後、学校の掃除をすることになった。
始めは私に押しつけるのをためらう女の子もいた。だけど、クラスの雰囲気から、むしろそれが当然かのように意識できるようになったのか、皆が当たり前のような顔で帰るようになってしまった。
一日のたかが15分だ。すぐに終わる。
だけど、一人でトイレの床をデッキブラシで黙々と磨いていると、本当に悔しくて泣きたくなる。
どうして。
どうして私は掃除をしているのだろう。どうして、クラスの皆は、このことを当たり前のように認識できるのだろう。
どうして――どうして私は、Fチルなのだろうか。
床にこぼれ落ちたものを、私はホースで洗い流した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私がFチルだから。そのために人々のお金を使って生まれてきたのだから、私は人々の手伝いを自主的に行わなくてはならないらしい。あの日スーパーで、この町で偉い皆川さんにそう言われた。
きっと、それは事実なんだろう。
だけど、私はFチルの友人にそんなことは相談できなかった。同じFチルやカザネに、相談できるわけがなかった。
楽しい夏休みが終わって、私はとうとう教室に行けなくなった。
私は毎日、ただ掃除をやらされていただけだ。別に、勝手にものを捨てられたり、頭から水やゴミをかけられたり、毎日罵倒されたり、そんなひどいことをされていた訳じゃない。だけど、教室に向かおうとすると、どうしても足が動かなかった。
ベッドの上でカザネが見せてくれた都会のホログラム。キラキラと輝くその町で一番私の目に留まったのは、夕日の中、学校を黙々と掃除をする掃除ロボットの姿だ。
ちりとりとほうき、ブラシとバケツ――掃除ロボットは、そんなものを使って掃除をする私よりも、遙かに綺麗に掃除をしてくれるだろう。そしてそれが、彼女の仕事だ。
この高校に転校して、私に対する風当たりが今と何一つ変わらなくても、私が掃除をやらされることは絶対にない。
なら、大丈夫だ。
そう考えると、私はどうしてもこの高校に行きたかった。
この町の高校は誰でも行けることから、あまりレベルは高くない。だけど、この高校は人の多い都会でも有数の進学校だけあって、思っていたよりも遙かにハイレベルだった。過去問を真っ先に見せてもらってよかった。
学校には行かなくていいと言ってくれたから、私は家で必死になって勉強した。私が試験に落ちたとしても、カザネが引っ越しを止めるなんてことは言わないと思う。だけど、私はこの高校に行きたかった。
他に探せば、通える範囲で同じようにロボットが掃除をしている高校はあるかもしれない。でも自分が逃げないように、絶望しないように、私はそのことについて一切調べなかった。そして、生まれて初めて、私は自分のために必死に勉強した。
合格発表の当日。私は30分も前から、机に座ってCOMNを首に装着して合格通知メールを待ち構えていた。呼吸もままならないような緊張感でただ黙って椅子に座っていると、不意に横に座っていたカザネが私に抱きついた。
「詩織、おめでとうございます。合格です!」
ぽかんとして満面の笑顔のカザネを見る。時間を確認すると、あと通知まで17分もあった。どうやって調べたのかは分からないけれど、カザネが言うなら、間違いはないのだろう。
私は、今日も泣いてしまった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私は高校2年生に編入する。同じ学年にはFチルは2人いて、新入生の中には3人いるらしい。同じ学校に、私と同じ境遇の子が5人もいる。だけど私は、新しい町でFチルであることを隠すことに決めた。
「詩織、準備はいいですか?」
「う、うん」
今から私は、その中の一人と音声通信をする。隠し通すと言っても、同じFチルだったら調べる方法はいくらでもあるし、もし何かあった場合に一人くらいは私がFチルであることを知っておいてもらった方がいいだろうと、カザネと相談して決めた。
今から話すのは、これまで私たちの引っ越しを色々手伝ってくれたヒューマノイドの主人らしい。すごく緊張する。
「……もしもし」
「あ、初めまして詩織と言います」
「俺は、春義です」
Fチル同士は、自分の名字をめったに名乗らない。
「この度は、ルーミスティさんに大変お世話になりました。ありがとうございます」
姿は見えないけれど、私は頭を下げた。
「えっと、同じ学年だし固くならなくていいよ。なんかルーも、代わりに俺が病気になったときに、そっちのカザネさんに優先的に治療してもらうって約束したみたいだし、困ったときはお互い様だ」
カザネは、他のヒューマノイドとそんな約束をして働かせていたのか。カザネは聞いても、「大丈夫です」とだけ答えて、私には何も教えてくれなかった。
「俺たちの学校では、Fチルって隠さなくてもいいと思うけど、隠したいなら協力するよ。同じ学年のもう一人の奴には、余計なことをしないように、俺からきつく言っておく」
「春義さん。ありがとう」
「春でいいよ。何か他に、聞いておきたいことはある?」
学校のホームページには載っていない細々としたことを、この機会に聞いておく。
「クラスも別だし、Fチルって隠すからには俺たちと関わることもないと思うけど、何か困ったことがあれば相談に乗るよ」
「ありがとう」
「じゃあ、いつか学校で。おやすみ」
そう言って、音声通話は切られた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
搬送ロボットがてきぱきとトラックに荷物を積み込むところを、邪魔にならないように部屋の隅に座って見守る。空になった部屋をしばらく眺めてから、玄関の扉を押して、生まれ育った家を出た。
マンションの一階に降りて、自分たちの家があった位置を見上げる。
「さようなら」
家に別れを告げて、町は振り返らずに、カザネの待っている車の助手席に乗り込んだ。




