1話 死に行く町で(1)
2083年7月
かつては田んぼだったはずの雑草が生い茂る平地に、2階建てのアパートが廃墟のようにひっそりと佇んでいる。アパートまでの道のりはかろうじてまだ雑草の侵食に耐えられているが、あと10年もすれば道があることさえ分からなくなるだろう。道にわずかに残る前回の私の足跡を、今日もそっくりなぞるように進んでから、雨に濡れた落ち葉が踏み固められて土のように広がるアパートの階段に足をかけた。
私が階段に両足を乗せた瞬間、キィと金属の悲鳴のような音が鳴り響いた。ヒューマノイドである私の体重は、一般の成人男性よりも重い。3ヶ月前に強度計算をした際には、私の体重ではこの階段は99.99%崩れることがないという解は得たけれども――ところどころ崩れたコンクリートの断面が目に入る度に、100%ではない確率に備えて足取りが慎重になる。
一歩一歩足を動かして、やっと階段を登り切った。そして現れた2階の、一番奥にある目的の部屋に向かう。
塗装の大きく剥げた玄関の扉。その横に設置してあるインターホンはすでにその役割を終えていることは知っているので、手で扉を2回ノックしてから大きな声を出した。
「柳瀬さん。いらっしゃいますか?」
2回同じことを繰り返すと、部屋の中から「うるせえ」と男性の怒鳴り声があがった。そのまま待っても、私に向かって扉が開かれることはないので、「柳瀬さん、入りますよ」と声を掛けながら勝手に玄関の扉を開く。
扉を開いた瞬間、人の健康の害となるレベルの異臭を鼻のセンサが取得した。刺激臭を発する目の前に山積みになっているゴミ袋を掴んで、一度玄関からすべて外に出す。
ゴミ袋を外に出して玄関の扉を閉めても、臭いはほんのわずか低減されただけだ。背負っていたリュックの中から新しいゴミ袋とぞうきんを取り出して、目に見える範囲のゴミを一通り拭ってから、ぞうきんごとゴミ袋に入れてきゅっと口を締めた。
玄関周りの掃除が終わってから、一部屋しかないアパートの室内に入ると、今年で73歳の柳瀬さんが、今日も寝転びながら壁に投影した30年前のテレビ映像をぼんやりと眺めていた。
2週間前に来たときとまったく同じ構図――まるで時が進んでいないかのように見える。
「柳瀬さん。体調はどうですか?」
「まだ死んどらん。ロボットが、帰れ」
柳瀬さんご自身には今日も帰れと言われるが、帰ることはできない。柳瀬さんの周囲のゴミを拾いながら、この家に設置した機械から、柳瀬さんのここ2週間の生体データを受信する。
真夏の暑さのせいか食事量が少し減っている。柳瀬さんは肝臓の疾患があり、そのほかの数値も良くはないが、柳瀬さんは自分が所有するこのアパートを離れようとはしない。
今週中に、先生を連れてもう一度訪れよう。そう決めてから、いつものように2週間分の部屋の片付けを始めた。それも終われば、一度アパートの前に止めていた車に戻って、2週間分の食事が入った段ボールを抱えて、再び階段を慎重に上り柳瀬さんの部屋に置く。
「柳瀬さん。坂井先生を連れて、今週中にもう一度来ます」
柳瀬さんから返事はないけれど、玄関を出て、扉を閉めた。
部屋の扉の前に置いていたゴミ袋を抱えて階段を降り、明日来るはずのゴミ収集車が回収しやすい道路に面した位置にゴミ袋を置いた。
「これでおしまい。あとは……」
近くの電柱に近づき、電柱に取り付けられた監視装置と接続する。そこから、ここ2週間の水道管などのインフラ設備のデータを受け取り、データの解析に入った。
すぐに見つかる無数の警告。その中で一番今後の影響範囲の大きい水漏箇所を自動メンテナンスロボに修復するように命令する。
「帰りましょう」
自分の車に乗って、柳瀬さんただ一人の王国に背を向けて走り出した。
2000年から2020年ごろ、地方自治体の人口誘致政策に、相続税対策や低金利を活用した投資が結びつき、農地に大量のアパートが虫食いのように次々と建設された。柳瀬さんの住むこのアパートも、そのころに建てられたうちの一棟だ。
需要をあまり考慮されずに建てられたこれらのアパートは、建設直後から空き部屋が目立ったが、2050年以降、日本の人口が大きく減少するにつれて致命的な問題を引き起こした。誰も住む人が居なくなり相続放棄されたアパートは、自治体が取り壊さなければならない。そして、一人でも住人がいるアパートは、水道、電気、ガスなどのインフラを、たとえそれが自治体の負担でしかなかったとしても、維持しなければならない。
柳瀬さんの住むアパートの12部屋のうち、使われているのは柳瀬さんの住む一部屋だけだ。そしてこのアパートから半径300メートルには、他に誰も住んでいない。
柳瀬さんただ一人のために、水漏れのある水道管の配管ごと替えるなんていうことをする財政の余裕は、今の自治体にはない。だからメンテナンスロボが、開いた穴をただパテで塞ぐだけだ。
どれほど非効率であったとしても、法律上、自治体は所有者である柳瀬さんをこのアパートから追い出すことはできない。
柳瀬さんが言うように、自治体は柳瀬さんが死んでこのアパートが無人になるのを――
待っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
町の中心に向かって、車を走らせるにつれて、徐々に無線通信を受信するようになった。私のようなヒューマノイドにとってネットワークから遮断されている状況は、人間で言えば服を着ていないようで、ひどく落ち着かない。ネットワークから遮断されていたここ2時間の情報を整理しながら、急いで帰るために、日の沈んだ道路を最大速度で車を走らせた。
マンションに着いて駐車場に車を停めたあと、2台あるマンションのエレベータのうち、あらかじめ遠隔操作で待機させておいた一台に乗り込んだ。
今の時刻はもう19時を過ぎている。私の『主人』はお腹を空かしていることだろう。
無限に感じられる時間のあとエレベータから降りて、廊下を小走りに進んで現れた扉を開いた。
「ただいま!」
「お帰りー」
リビングの向こうから、いつものように私の『主人』――詩織の声が返ってきた。
2060年、日本の人口減少に歯止めがかからないことが分かると、日本政府は将来予測される労働力の不足を補うために、子どもを人工授精と人工母体により、人為的に産み育てることを決めた。私は今から16年前に、その子どもの世話をするために、政府によって作り出された存在だ。
そんな私が世話をする私の主人の詩織は、現在15歳の高校1年生。私たち世話役のヒューマノイドにとって、主人の命は自分よりも優先度が上に設定されているから当たり前なのかもしれないけれど、他の世話役と同じように、私は詩織ことをこの世界で一番大切に思っている。
詩織のような政府によって作られた子どもたちは、世間からは『Filling Children』、略してFチルと呼ばれていた。
詩織の生体データを受信して、今日も元気であることを確認してから、急いで靴を脱いで手を洗う。リビングの扉を開けると、部屋着でソファーに寝転がって携帯端末を見ていた詩織が顔を上げた。
「今日は遅かったね。お腹空いたよ。ご飯何?」
「詩織、ごめんなさい。急いで作りますね。今日は、豚の生姜焼きです!」
私の言葉に詩織が嬉しそうに口に笑みを作ってから、携帯端末に目線を戻した。
メインディッシュである豚の生姜焼きの下ごしらえは、日中にハウスロボットを自分で操作してやっておいたので、あとは焼くだけだ。栄養バランスを考えて選び抜いた副菜を作るために、私はエプロンを着けてから、まな板と包丁を取り出した。
「いただきます」
詩織がピンクの箸を持って手を合わせてから、私の作った夕食に手を伸ばした。私はそれを、台所で後片付けをしながら見守る。
詩織は小さい頃は好き嫌いが多く、バランス良く食べてもらうのにすごく苦労した。幼い詩織には「イヤだ」と言われて、けれどもヒューマノイドの上司には栄養バランスを考慮して食べさせろと言われて――私は板挟みになってずいぶんと悩んだものだ。
詩織のために、お茶を持ってテーブルに行くと詩織が顔を上げた。本当は詩織の食べる姿を真正面に座って見守りたいのだけれど、詩織は食べる姿をじっと見られるのを好まないので、何か別のことをしていろと怒られてしまう。
お茶の入った湯飲みをテーブルの上に置いた。
「カザネ。ありがとう」
「おいしいですか?」
「うん、おいしいよ。あ、そうだ。カザネの医師資格が取れるのって来週だよね」
「はい」
実は、わたくしヒューマノイドのカザネは医者の卵だ。ちなみにカザネというのは通称で、本当の名前はK-04735というシリアル番号だったりする。
私たちの最優先の仕事は主人の世話だけれども、世話役のヒューマノイドをそのことだけに使うのはもったいないとのことで、私たちは各自何らかの仕事を政府から与えられていた。
今の日本で一番人手が足りないのが、医療や介護の分野だ。けれども、私たちロボットに触られるのが嫌だという人は特に高齢者の中に多いし、ロボットが人に触れてもいいのか、特に医療行為を行ってもいいのかという倫理的な問題もある。そのため、医療従事者は必要とされているのにもかかわらず、そのような仕事に就いているヒューマノイドはまだあまり多くはなかった。
現在、ヒューマノイドが医療行為を行う場合は、最低10年、人に付いて学ばなければならないという決まりがある。私はこの町で、これまでベテラン医師の坂井先生の下で修行を積んできた。
医師試験をヒューマノイドである私が落ちることはないので、試験は免除だ。あと5日で10年目となり、晴れて私に医師試験の受験資格が与えられ、自動的に私は医者になる。
来週、私が医師資格が取れた日のために、詩織が何かプレゼントを用意してくれているのを知っている。
偶然私はそのことを知ってしまったけれど、私は詩織が送ってくれるプレゼントが何かまでは知らない。プレゼントの中身も偶然知ってしまって、知ったことまで含め自分の記憶データを消した可能性もあるけれど、それは今の私には分からない。
その私の何よりも大切な優しい詩織は、今、茶碗についたご飯粒を丁寧に箸でとって食べていた。
詩織の肉体面での健康は、医者の卵である私から見ても問題はない。けれども最近詩織がふと見せる沈んだ表情と、私に学校の話をしてくれなくなったことを、私は凄く不安に思っている。
この町は、町の規模から通信網が都会と比べて元から脆弱な上、詩織の学校が町の中心から少し離れていることもあって、私は日中の詩織の様子を知ることができない。
私は来週、医者になる。でも、私たちヒューマノイドはどれほど頑張っても、『精神科医』にはなれない。私たちヒューマノイドの脳は、人間の巨大な脳のネットワークを電子部品によりニューロン単位で模擬しているけれども、それは模擬であって、イコールではない。
私たちヒューマノイドは、人が『心』と呼ぶものを、本当に正しく理解することはできない。




