第29話 あの場所へ
「ライリさん、旦那様は大丈夫なのですか?」
急に苦しみながら倒れた愛しい婚約者を心配そうに見つめるユナ。
「ええ、息はしています。 でも…… 何か様子がおかしかったのは確かです。 とにかく今は旦那様が目覚めるのを待つしかありませんね」
苦しみながら床に倒れた彼をベッドに移すと、その横に座りながらライリは眠りに就く主人の髪を優しく撫ぜていた。
「アンナさんも…… 今夜はおやすみ下さい。 旦那様は私達が見ていますから」
先程まで泣き崩れていたアンナも今は少し落ち着きを取り戻していた。
今は少し虚ろな目でライリ達を眺めている。
ライリから寝るように促されると無言で頷き、隣のベッドに横になって眠りに就く。
ライリはユナにも寝て貰うつもりだったが、本人が意地を張って寝ないでライリに付き添うと言い出したため彼女の好きにさせていたが、暫くすると流石に限界だったようでベッドに倒れ込むように寝てしまっていた。
「旦那様…… 一体どうしたのですか?」
その問い掛けには答えず、眠り続ける愛しい主人を眺めるライリは胸に湧き上がる言い知れぬ不安にただ堪えるだけだった。
「んっ、う〜ん…… あ、ライリ! ……ここは? 僕は一体どうしてたの?」
ライリは目を覚ました主人の様子がおかしい事に気付く。
目を擦りながら身体を起こすと側で寝ているユナの姿を認め、露骨に嫌そうな顔をする。
それは昔の彼と同じ反応だった。
我が儘で自分に嫌がらせをする彼女が苦手な彼が何度かライリへ泣き言を口にしていたからだ。
更にアンナの姿を目にしてホッと安堵の表情を浮かべている。
「だ、旦那様! もしかして元に戻ってしまわれたのですか?」
明らかに様子がおかしい。
今の彼からは自信に満ち溢れていた雰囲気は欠けらも感じられないからだ。
「旦那様? 元って何の事? 変なライリ。 何でだろ…… 長い夢をずっと見ていた気がするんだ。 僕はおかしくなっちゃったのかな?」
「いいえ、大丈夫です。 きっとお疲れなのですよ。 今夜はゆっくりとお休み下さいませ…… 坊ちゃん」
ライリは旦那様はもういないのだと理解する。
ここにいるのは以前の坊ちゃんなのだと。
「うん。 お休み、ライリ」
すぐに安らかな寝息が聞こえ始めたのを確認するとライリは部屋を出る。
悲しくて涙が止まらなかった。
死んだ筈の最愛の人が蘇ると言う、今でも信じられない奇跡が終わってしまった事を知ってしまったからだ。
その理由は分からない。
旦那様が蘇らなければ良かったと口にした直後の異変だったのには間違いない。
自分達と一緒にいる事に堪えられなくなってしまったのだろうか?
どんな姿でも戻って来てくれた事が嬉しかったのに、前のように皆を幸せにしようと無理をしているのにはライリも気付いていた。
それが今回の奇行に繋がったのだと思う。
「そう言えば…… 旦那様が王都の旧ジーニアス邸で気になる事を口にしていた筈……」
ライリの記憶では、あの場所が呼んでいる気がすると聞いた筈だ。
(あの場所に行ってみよう。 何か分かるかも知れない……)
ライリはすぐに紙とペンを用意すると一人で王都へと向かう事をそこへと書き記す。
ユナにはヘンリエッタを借りて行く事も詫びておいた。
そして宿の者に声をかけると馬房からヘンリエッタを連れ出して貰うと手綱を握り締める。
可能性は低いがライリには彼がそこにいるような気がしていた。
だから自分はその場に駆けつけなければならないと思うのだ。
「疲れているのにごめんね、ヘンリエッタ。 でも今は私に力を貸して!」
ライリの言葉に反応したかのように疾走するヘンリエッタ。
月明かりを頼りに王都へと続く街道を往くライリの心は重い。
「……狡いですわ! 勝手に一人で行ってしまうなんて」
朝起きてライリの姿が消えていた事にユナとアンナは驚いていた。
ライリからの手紙には、まだベッドで寝ているのはアンナの息子としての記憶しか持たない彼だと記されている。
「ライリちゃん…… あの場所に行くのね。 辛い思い出しかないのに」
更に行く先は王都にある旧ジーニアス邸だと言うのだ。
何が起こるか分からないため、子供の彼を連れて行くには危険な気がするとも書かれていた。
「それでどうしますの? ライリさんを追うのですか?」
ユナはアンナに詰め寄る。
「ううん。 私はこの子と家に戻ってライリちゃんを待つわ。 だって…… 私はこの子の母親だもの」
優しげな笑みを浮かべながら我が子の頬にそっと手で触れるアンナ。
「分かりましたわ! 王都へは私一人で参りますの!」
右手をグッと握り締めて固く決意したユナだったが、その思いは一瞬にして砕かれる。
「いいえ、貴女も家に帰るのですよ……」
背後から聞こえて来た、その冷たい声にビクッとするユナ。
聞き間違える筈のない母の声。
「母上! 来てしまわれたのですか?」
まさか母まで夜通し馬車を走らせ追いかけて来るとは思っていなかったのだ。
「私は貴女の母親ですもの。 どんな無理だってするのですよ」
「それは僕だって同じさ、君の父親なんだから。 ユナ、一緒に帰ろう」
ヴィッチの背後から夫のコルツも現れる。
冒険者ギルドを訪れたその足で二人はユナを追いかけて来たのだ。
親としてユナはかけがえのない存在なのだから。
「嫌ですわ! 私も旦那様のために……」
ユナの言葉が言い終わらない内にコルツがユナの頬を叩く。
それはユナにとっては初めての出来事だった。
何も出来ない情けない男だと半ば馬鹿にしていた父親だった。
「ユナが僕を嫌ってるのは知っているさ。 こんな情けない父親だからね。 でも妻を泣かせる娘を怒る事くらいは出来るんだよ」
コルツ言葉を聞いたユナがハッとして母を見れば涙を浮かべていた。
「はい…… 父上。 ごめんなさい……」
もうこれ以上は迷惑をかけられないと悟ったユナは頭を下げて涙を流す。
やっぱり自分はライリには勝てないのだと思うと悔しくて仕方が無かった。
「ユナちゃん、どうして泣いているの? どこか痛いの?」
目を覚ました少年が心配そうに自分を見ている。
彼だって愛しい旦那様なのには間違いないのだと自分に言い聞かせる。
「いいえ、大好きだった方が遠くに行ってしまい悲しくなっただけですの。 ユナを慰めてくださいますか?」
以前と違い自分に優しいユナに違和感を覚えながらも、泣いている小さな女の子を放ってはおけない性格の彼は大きく頷く。
「うん、ユナちゃん。 僕で良かったら、いっぱいお話しようね」
そんな子供達を眺めながら二人の母親は安らかな気持ちを感じていた。
そして…… この子達の幸せのために生きて行こうと心に誓うのだった。