魔獣と戦う者
赤竜王国がその頂点に赤竜を戴いているように、この世界〈ノズアーク〉は魔獣こそが国であり最初にして最後の国土である。
そうして国、あるいは都市や村を守護し統べる魔獣は、聖獣と呼ばれるようになる。
世界を見ても番となる存在もなく、繁殖もしない彼らは絶対的な存在として、人々の前に君臨している。
人に味方をするもの、敵対するもの、どちらだっている。だが、どちらをも人々は畏怖していた。
目の前の銀色の獅子は、魔獣であった。
この森に現れるものは得てして、自分の国土を持つものではない。
己こそが国土であり、個として生きるものであった。
オズウェルはゆっくりと立ち上がる。
右手だけで剣を構えた。
王国式の直剣は、馬上において片手で、地上においては両手で使うものである。
馬を失い、片手の自由も利かない今では、満足に戦えやしないだろう。
ニコラスの裏切り、バートラムの献身、アナスタシアの襲撃に続いて、魔獣の出現とは。
運がないのか、何者かの意思に翻弄されているのだろうか。
ため息をつきながらも、オズウェルは気を緩めなかった。
「ですが、立ち止まってはいけないのです」
その構えは、王国の剣術ではない。
対魔獣戦闘というものがある。
都市の外を蔓延るものだけではない。
国同士の戦い、すなわち戦争になったとき。最後に戦う相手こそが敵国の聖獣である。
本城に乗り込んだ最後に、国の柱であり崇敬を集める存在と戦わなければならない。その戦いを経て、ようやく勝ったと言えるのだ。
つまるところ、名だたる戦士や精鋭である騎士と呼ばれる存在は魔獣と戦う術を持っている。
それは集団での戦術から、個人での戦法にまで及ぶ。
構えは奇怪なものだ。
剣を肩に担ぐようにし、左肩を前へと突き出す。
刃の切っ先を獣は恐れない。人であれば怯み、様子を伺うような場面で、獣はその切っ先の意味を理解することがない。
なにせ、自分より小さきものの技など、恐るるに値しないのだ。
彼らが脅威として感じるのは数の差と相手の大きさなのだ。
発される呼吸と、臭いや音なのだ。
であるから、剣先を相手に向けるようなことはしない。オズウェルの知っている騎士剣術の上位に位置する対魔獣戦闘法では、そういった方法がとられる。
本来ならば両手で行うべき技を、片手で行ってみせる。
それはほとんどの騎士が恐れることだ。十全でない状態で魔獣の前に立つなんてことはあってはならない。
大いなる脅威に満足に戦えないなど、自殺行為だ。
だが、この程度の無茶無謀を越えずして何が王か。
試練である、という事実をオズウェルは噛みしめる。
「さあ、来なさい。僕は負けません」
オズウェルが言った。人と同等かそれ以上の知能を持つ魔獣は、その言葉を理解してくれただろうか。
銀色の獅子と睨み合いが続いた。
先にしびれを切らしたのは、オズウェルだった。
手から垂れる血を滴らせて疾駆する。
だが、それとほとんど同時に銀色の獅子も駆け出した。
『止まれ、オズ!』
声が聞こえた。
オズウェルはとっさに急制動をかける。地面を擦って、獅子とすれ違った。
大きく跳んだ獅子の爪が肩に引っかかった。鎧に深い傷がつき、衝撃が体にまで伝わって転がる。
右手を軸にして獅子の方を見やるが、銀色の獅子はすでにオズウェルに興味を失っているようであった。
ぼろぼろのオズウェルを見下ろすと、ゆったりと歩いて去っていく。
その後ろ姿を見て、膝をついた。
息が切れて、全身から汗が一気に吹き出た。
左手の手首を抑えて、はあと息を大きく吐く。
「ヴィヴィ、なぜ止めたのです」
オズウェルは自身を象徴する髪の花へと語りかけた。
ヴィヴィと呼ばれたそれは、呆れたように言う。
『馬鹿者、我を忘れて突っ込んでいくお前を止めてやったのだ。お前は王となる者なのだぞ? ここで止まるわけにはいかないだ? 命あってのことだろう。それを粗末にして、何が人の規範たる者か』
騎士とは逃げぬ者だ。己の身命を理想に捧げる者だ。
それを諌めて、いまのお前は王であると、ヴィヴィは言ったのだった。
そのことを理解できないオズウェルではない。
「……感謝するよ」
『存分に礼を言うといい』
ふふん、と、体があれば胸を張ってそうな言いぶりに、オズウェルは力なく笑った。
この調子のいい友人とオズウェルは、騎士になる前からの付き合いであった。
花の妖精だ、とヴィヴィは自分のことを言う。それが真実かどうかはわからないが、言葉を話す花など、そうでもなければ信じることはできないだろう。
左手が痛んだ。血のあふれるその手は、確実にオズウェルの体力を奪っていく。
「それにしてもあの魔獣、奇妙でしたね。何か知っていますか?」
『ふん、お前ともあろう者が。私の言葉なしで推測できないほど愚かだったか? それとも死地でありながら、あのアナスタシアなる女に見惚れるような色ぼけた頭では何も考えられないか?』
返ってきたのは辛辣な言葉だった。
その言葉の意図を飲み込めず、力なくオズウェルは笑う。
銀色の獅子。忘れていた。
自身の異名のひとつ、〈銀獅子〉アルセルム。かつて生きた巨人の英雄の名だ。
川の流れを変えるほどの剣技、姫を助け出す誇り高き意思、そして獅子を連れた戦士だったという。
「まさか、あの獅子は……そういうことですか、ヴィヴィ?」
『少なくとも私はそう思っている。だが、私の知っているやつとはいささか様子が違っている』
「さすがは妖精、伝説が生きている頃を知っているのですね」
『ふん。伝説なものか。私にとってはそこにあった現実だ。そして、お前とてやがてはその伝説の一部となるのだぞ。きっとな』
歴史か、伝説か。さほどの差はない。
どちらも過去のものであり、人が光景を見たのか、それとも夢を見たのかの違いである。
そんな風にヴィヴィは言う。
やがてオズウェルも伝説の一部になるだろう、とも。
「では、やっぱり生きなくては」
『血の匂いは私が消しておいてやろう。あの獅子以外の魔獣がお前を見つけることは難しいだろう。その間に考えろ。これからのこととか、いろいろとな』
「いえ、やるべきことは決めてます」
『ほう』
今度は満足そうな声をヴィヴィは出した。
初めて立ち上がった赤子を見るような、そんな声だ。
オズウェルは左手の籠手を外して、清潔な布で巻いた。すぐに血で染まるが、ひとまず止血はこれでいいだろう。
「急いで廃工城カーペンタリアへと向かいましょう。聖剣を返還します」
赤竜王国の西にある廃工城カーペンタリア。かつて巨人が様々な魔法の品を生み出したという遺跡、遺産だった。
いまではそれを制御できる者は誰もいないため、放置され、すっかり廃れている。歴史書では工城カーペンタリアと呼ばれていたが、再発見された際の姿から「廃れた」を意味する言葉を頭に冠することになったのだ。
そこにある、あらゆるものを溶かす炉へと向かう。そして聖剣を溶かし、この世から葬る。
オズウェルに課された試練であった。
『伝説を紐解いても、歴史をたどっても、聖剣を自ら還す者はいなかった』
ヴィヴィが言った。そうだろうな、と思う。
聖剣はその国で暮らす者の心の支えであった。聖剣がある国だ、という誇りこそが、ときに人々を動かした。
それを捨てろと、赤竜が言った。
そして捨てるのは、次代の王である。
真意はわからずとも、大きな意味があるはずだった。