裏切りの黒
「俺がお前を裏切ったのは、明白なことだろう?」
ニコラスは笑った。彼は遅れて兜を身につける。これで表情はうかがえなくなった。
オズウェルはいまだ剣を抜かなかった。言葉を投げかけるためだ。
「ですから、なぜ、と聞いているのです」
「お前が王になられては困るからだ」
「赤竜王国の騎士としてですか。それとも、貴方個人としてですか?」
「さてな。俺のことを考えている場合か? 自分の心配をしろ」
核心は決して言うつもりはない、ということだろう。
そういう男だったな、とオズウェルは自らも剣を抜こうとするも、相手を眺めて、やめる。
降参しているように見えたのだろうか、相手の騎士たちは失笑を漏らした。
「観念したか?」
「まさか。諦めが悪いのは君もよく知っているだろう?」
オズウェルはそう言って、馬を転身させる。
首を森の中へと向けた。
バートラムもまた、オズウェルに従って森の中へと入る。
射かけられた矢を振り返ることなく避けて、森の中の木々を突破した。
「自覚があったのか、馬鹿野郎!」
そんな叫びが聞こえた。口が悪い彼を見て、やはり騎士には向いてないとオズウェルはぼんやりと思った。
森の中で走る相手に、馬上から矢を当てることは難しい。それを可能とする者はそうそういない。あのニコラスの配下であるから油断はできないが、この判断は最良であるとオズウェルは信じていた。
木々を飛び越えて、オズウェルは後ろを振り返った。
「オズウェル様、こちらです!」
バートラムの声に従って、馬を走らせる。
そこは元は川だったのだろうか。干上がっていてひときわ窪んだ場所だった。
馬たちを少しでも休ませる必要があるし、なによりもオズウェルとバートラムにも整理するための時間が必要だった。
「どこへ行った?」
「探せ、そう遠くは行ってないはずだ!」
声が聞こえる。馬の蹄の音は遠くへと離れていったのを確認して、二人は馬から降りた。
兜を脱ぎ捨てると、嫌な汗でくぐもっていた空気から解放される。
吐き出した息は疲労の色に染まっていた。
「ニコラス様が、どうしてこんなことを!」
拳を地面に振り下ろしたバートラムは、そう叫んだ。
「静かに。声で見つかるなんてのは間抜けだから、やめてほしいな」
「そうは言いますが……オズウェル様、どうしてそんなに落ち着いているのですか? 親友とさえ呼んでいた彼が裏切ったのですよ?」
バートラムがオズウェルを見上げた。
彼は目を合わせずに答える。
「まずは生き残ることが大切ですから。彼について考えるのは、その後にしましょう」
「それはそうですが、ですが!」
「確かに悔しいですけどね。最後までともに歩めると思っていましたから」
それだけ言って、それでも、と。
「僕は立ち止まってはいけないんです」
ごくり、とバートラムは唾を飲み込んだ。
彼は知っている。主人たるこの男はいつも飄々としているが、胸に抱くものがいかほどのものかを。
ふう、とバートラムは息を吐いた。
「……そうですね。貴方はここで立ち止まってはいけない人だ」
そう言って、バートラムは立ち上がる。
オズウェルが持っていた兜を奪うと、自身の頭にかぶってみせた。
胸にある徽章も剥いで、地面に捨てる。
「バートラム、なにを?」
「ニコラス様もおっしゃってましたが、オズウェル様、わかっていることをあえて聞くのは貴方の欠点です」
そう言うと、馬に跨った。オズウェルの愛馬ドゥエインに。
オズウェルが制止しようとしたが、それよりも前に彼は言った。
「追いかけてきたら怒ります! 絶対に怒りますから!」
馬を駆って行ったバートラムは、大きな声で叫ぶ。
「我こそはオズウェル! 死にたい者から来い!」
鎧をほとんど同じくし、兜をオズウェルのものとする彼がそう叫べば、誰もがオズウェルだと間違えるだろう。従騎士の証である銀の拍車を身につけていても、薄暗い森の中では気づけないはずだ。
そして、バートラムの実力は並の騎士とは比較にならないが、ニコラスには及ぶべくもなく、その配下数人を相手にすればただでは済まないだろう。
オズウェルは、自身はバートラムの馬に跨る。そして一気に、バートラムの向かった方とは正反対へと駆け出した。
もはやその方角が正しいかもわからなかった。道を沿っていってしまえば、ニコラスの配下にすぐに見つかってしまうだろう。
陰ってきた。じきに日が沈むだろう。そうなれば、オズウェルが魔獣たちのことを察知する術はなくなる。
二つの敵がオズウェルを追い詰めていた。
目の前に現れずとも、迫ってくる恐怖心は体を蝕んだ。
誰にも見せない震えが、一人になると途端に顔をみせる。
馬の手綱を放さずにいることで精一杯だった。
「……何が起こっているんだ。赤竜王国はどうなる?」
ニコラスが裏切った。それはオズウェルの思考をより大きなものへと向けさせる。
彼は豪胆なようで慎重な男だった。オズウェルはその逆であって、戦場においてよく真逆の戦い方をしていた。
なんの当てもなく、裏切ったわけではあるまい。少なくとも国の半数近くはオズウェルが王になることに賛同しているのだから、それを敵に回してもなお、勝ち目があると踏んでいるはずなのだ。
それが内部のものか、あるいは他国のものか。
いずれにせよ、放置しておいていい事柄ではない。
「誰かを頼るか、あるいはこのまま……向かうか」
オズウェルがつぶやいたそのとき、違う馬の足音が聞こえた。
ニコラスの配下か、あるいは魔獣か。
剣を抜くかこのまま走り抜けるか。
一瞬だけ迷った。あるいは、疲れと緊迫感が彼の思考を鈍らせたのかもしれない。戦いの場において、致命的な隙だった。
何が出てくるのか。冷や汗が流れる。
その予想は裏切られることになった。
現れたのは大きな黒馬だった。
それがオズウェルの頭より高くまで跳んでいた。
馬上にいる騎士の鎧までもが漆黒であった。手には大きな剣を持っている。
咄嗟に馬首をあげた。オズウェルが躱すことはできたが、馬の首には深々と刃が食い込んでいた。
力を失って倒れ行く馬からオズウェルは投げ出された。
だが、ただでは倒れるつもりはない。
渾身の力でオズウェルはその腕をつかんで、馬上から引きずりおろした。
「ぐうっ!?」
うめき声はどちらのものだったか。
森の湿った地面を転がるオズウェルであったが、立ち上がろうとすると、短剣が首筋に突き立てられた。
その武装を見て、いま相手にしている人物について見当がついた。
「大剣に短剣の二刀、漆黒の鎧。アナスタシア卿ですか!?」
「その通りだ、オズウェル卿。汝の首、もらい受けに来た」
笑うように女騎士、アナスタシア卿は言った。