後編
わたしの熱っぽさを配慮してか、岡田さんは、コンビニの駐車場へハンドルを切り、飲み物を買っていくことを提案し、わたしの返事もまだのうちから、喉が渇いているものだと決めつけた。
休憩中の長距離トラックや、わたし達のように遊び帰りの恋人、やんちゃな男の子達、さまざまに人々の大小形もそれぞれ異なる車を休ませている。
車のおりしなに、もう一度岡田さんの求めるままに口の中に彼の舌が這い回り、わたしは胸襟を開かされたままの恥ずかしさを抱えたまま、彼が手をとって導くままに店内の、他のお客さん達の好奇の目に晒され、それでもどこか嬉しさの隠し切れない、優越感めいたものも感受していた。
わたしがカフェオレを手にすると、
「カフェオレとカフェラテの違いって分かる、未久? 」
ぼくは水がいい、口の中に味が残る感覚が嫌いなんだよ。そういってわたしがまだ答えないうちから、カフェオレはフランス語で、コーヒー・ミルクって言ったらいいのかな、ラテのほうがイタリアで、エスプレッソにスチームドミルクを加えて作るものなんだよ、と講釈をしてくれた。
それを聞いていたドリンクコーナーの背にあたる、食品とパンの並ぶコーナーでうるさくさわぎ物色をしていた、二十歳そこそこくらいに見える男の子達が、わたし達の方を振り返り、そのうちの一人が、「うわ、きもちわりぃ、気どりすぎだろ、おっさん」
岡田さんは、彼らの方を見ようともせず、わたしの手からカフェオレを掴み、自分のペットボトルを両手に持って、会計へ向かう。
わたしはその態度は、その手の連中の感情を逆なでする行為だと、岡田さんが、男の子達になにか乱暴でもされやしないか不安になり、早く会計を済ませさっさと岡田さんのパールホワイトの普通車にある、わたしだけの助手席に乗り込んでしまいたかった。
わたしの心配は徒労に終わり、無事会計を済ませ、再び深夜の車内へと戻り、岡田さんのパールホワイトの車体が煌々と輝きを放ち走り出した。
「父が言ってたんですけど、パールホワイトって、水垢が目立って、縦に線が入ったようになることが多いんでしょう? 」
「未久ちゃんは鋭いな。確かにそうなんだけど、車の汚れは雨水が乾燥して線になるから、雨天の走行後は軽くタオルで拭いてやるだけでもずいぶんと汚れの目立ちが違ってくるんだよ」
「タオルでガラス面を拭いちゃったら傷になりはしないかしら」
岡田さんは少しいらついたらしく、しばらく車内に沈黙があり、
「未久ちゃん、疲れただろう。シートを倒して休みなよ」と命令するような男の肉声で、わたしに目をつむるよう促す。
その声には、抜き身の真剣みたいな、ぎらりと光る寒々とした近寄りがたさがあって、きっと逆らったらわたしは彼に言葉の論理で大上段から切り殺されてしまうのだと思い、岡田さんはできればそうしたくないから、わたしにあえて厳しい言い方をしたのだと、それさえも彼の思いやりから生まれたものに決め、言われるままシートを倒し閉じた瞼に力を入れ、無理矢理にでも眠りにつこうと努めた。
静音性の高い車内でも、風を切る音や、エンジン音、タイヤのロードノイズ、いくらでもわたしの眠りを妨げるものは存在するが、そんな雑音よりも彼の言葉の恐ろしいまでの響きの方が、よっぽどわたしの脳内を駆け回り、落ち着かせてはくれなかったので、わたしは寝たふりを決め込み、ただ車体にぶつかる風の音が、人の声を真似ているみたいに、時々叫び声や呻く声に聞き違えて伝わってくるのが、それも岡田さんのしわざなのではないかという邪推さえしてしまう。
風を切る音に混在し、別の呟きが聴こえてくる。岡田さんがなにか言っていた。
舌打ちして、ぶつぶつ呟き、ハンドルに指先を小刻みで苛立ちのリズムをとっていた。
わたしは岡田さんに気づかれないように、薄く瞼を開き、バックミラー越しにあの男の子達の乗っていた国産の高級車が、岡田さんの車を煽っているのだと知れ、このまま岡田さんの言いつけを破り、目を開けていいものか迷っていた。わたしが起きたところでなにか手助けが出来るわけでもなく、岡田さんのことだから、また何でもないように道を譲ってあげるものだと考え、もうしばらくは寝たふりを続けることにした。
アクセルを急に踏み込んだ時の、エンジンのうなりで、彼が加速したことが分かった。
意外なことに岡田さんは、道を譲ることをせず後から迫り来る男の子達と張り合うつもりのようだった。
スピードがぐんと上がり、風のぶつかる音が激しさを増していた。薄目でサイドミラーを除くと男の子達も加速し、彼と競い合う構えらしく、わたしは怖くってただ薄目を止めず、視線の先を岡田さんへ移した。
彼の横顔がさっきまでとは違い、明らかに血の気の多くなっていることにわたしは思わず声を上げ叫びそうになった。
目を力強く見開き、黒目の輝きが尋常ではなく、狂気の中に艶っぽさを孕んで、わたしはその恐怖に身が縮む思いを感じつつ、その艶っぽさに魅せられてしまった。
長い直線に入り、一気に岡田さんはアクセルを踏み込んだ。遅れて後ろの車も加速する。
岡田さんは本性を抑えきれなくなり、口元をひくひくさせ、口角でこれから起こることに対する嬉しさを漏らして、
「未久ちゃん、見ててよ。起きてるんだろ」
はっと目を開け、岡田さんを見つめ、メーターにも目を配らせる。100キロを越えていた。直線の半分を過ぎたあたりで、左にウインカーを出す。速度はそのままだ。
左にハンドルを切り、車線から外れ、後ろの男の子達の車は、さらに加速をつけ岡田さんの車を抜き去った。横切る際に助手席の男の子が馬鹿にした笑い顔をしていたように見え、わたしは悔しさからどうして急に勝負を降りてしまったのか問い詰めてやりたくなったが、岡田さんはますます黒目を大きくさせ、前方の車を指し、「今からあいつら事故るからよく見てて」
次の瞬間、直線が終わり、左へのカーブでわたし達の視界から消えていったはずの車体が、サイコロを乱暴に転がしたような角ばった回転で、大きく跳ね上がり、ついで深夜の静寂をぶち破る怒号のブレーキ音とアスファルトを転がる車の重たい衝突音がわたしの鼓膜を破りそうなくらい近くに聴こえてきた。
車道から、歩道に移り速度を今はさっきの半分以下で徐行していた岡田さんは、
「あそこの先のカーブに一軒家があってね、よく、特に週末とおわりにかけて、おそらく知人でも訪ねて泊まっているんだろうけど、歩道ぎりぎりにバンを停めてるんだよ」
わたしの体内に冷めた血が流れているようで、めまいが起こり運転席の岡田さんは、わたしから精気を奪ったかのように目を輝かせ、早く転がった車を拝見したそうに、でも速度を規定の範囲内におさめカーブの手前の民家の脇に車を停めた。
すでに民家には明かりがついていて、住人が五、六人でてきていた。岡田さんは臆面もなく住人に近づいていって、「事故ですか? すごい音がしましたね、車の運転者はどうなったんですか? 」
住人の、おそらく家主だろう不精髭を生やした男が、お酒で赤らめた顔で、自分達もなにがどうなったのかわからない、おおきな音がしたから飛び起きてきただけだと言い放った。
岡田さんは落ち着いて、まず救急車と警察に電話をしてください。ぼくは負傷者を見て来ますから、いいですか、電話番号は分かりますか? そうです。こんな時だからこそ慌てちゃだめですからね、と現場をしきる警官のような口ぶりで、家主に命令し、家主のそばでおろおろと落ち着かない足取りで家と歩道に停めてあるバンとの間をいったりきたりしている背の高い、しかしおどおどとした物腰の男を見つけ、岡田さんは彼のもとへ小走りにかけていった。わたしも後について走り出した。なにか岡田さんの近くにいなければいけないような気がしていたし、いつわたしにも命令が下るか分からないから彼の助手みたいにいようと考えた。
「大丈夫ですよ。あなたのせいじゃないですよ」唐突に背の高い男に話しかけ、このバンはあなたのものでしょう、と訊ねた。男は猫背をさらに曲げ、すいませんとなぜか岡田さんに謝っていた。
「ぼくらは後ろから見ていたんですけど、あの車は、そうですね、こっちの車をあっという間に追い越していきましたから、相当スピードがでていましたね。普通じゃなかったですよ。それでこの急カーブを曲がり切れなくて横転したのでしょう。おそらく若いドライバーにありがちな過信ですよ。もし警察の人に尋ねられたらぼくはそう答えるつもりです。でも、あなたの車をこのままにしておくと都合の悪いことも起こるでしょうから、どうですか、今のうちに車をそこの車庫ぎりぎりに入れては。ぼくの見た限り車庫の中の車をもっと奥にやれば、なんとかあなたの車も入り込めそうですから」
迷いの思考に落ち込み、自らでは決断のつかないその男に突如現れた救世主のような岡田さんの一声で、驚くことに男は迷いを断ち切った人の、清々しい表情になり、ありがとうございますと、耳を疑うようなことまで言い、さっそく車の移動にとりかかる。
その間、わたしは岡田さんの後につき、反対車線に横転している国産高級車のもったいないほどひどい損傷具合に、さきほどの怒りを忘れ、救いの手を差し伸べてあげたい気持ちになっていた。
怖くって車には近づけないわたしを岡田さんは少し離れて待っているようにと指示し、自分は壊れたドアを覗き込み、大丈夫かと声をかけ生存の確認をする。
痛ましいうめき声の応答に、岡田さんは三人のうちの運転席側の負傷者を引っ張り出し、歩道に寝かせる。暗がりでも額からおびただしい出血が分かった。後部座席の男も同じように車外へ出してあげ、しっかりしろと声をかけている。
車の反対側に周り助手席の男を抱え、三人を川の字に寝かせたころには岡田さんの額には薄暗がりのなかでも認められるほど多分に汗を滲ませていた。
わたしは岡田さんの車に戻り、バックの中から小さいタオルを手にし、さっきとはうって変わった献身的な態度になった彼の汗を拭いてあげようと急いで戻ってきた。
岡田さんはわたしのタオルを受け取り、感謝の言葉の代わりに、わたしの額に軽くキスをし、顔を滴る汗を拭いながら、「この車高いんだよな。まず新車なわけはないから、中古としてもこいつらじゃどうせローンだろ。むりして高いやつ買ったのにこれじゃもう廃車にするしかないだろうな」
三人の口元に顔を近づけ、岡田さんは花の匂いを嗅ぐ時の手つきで彼らの息を確かめだした。
「酒気帯びじゃあないらしい。それだったらもっとよかったのに……」
岡田さんは心底楽しそうな顔つきで、この大変な状況を喜ばしく受け入れているようだった。どういったらいいのかわたしは頭の中がぐるぐる廻り、彼は確かにこの状況を望み直線で加速し、今は、苦しそうに呼吸をする男の子達を惨事へと巧く誘導することに成功し満足しているようだった。
岡田さんの底知れぬ計略の精妙さに、きっと犯罪者に出くわした時は今のわたしのような、芯まで伝わる寒気を覚えるに違いない。そう畏怖の心境に至り、彼の全身が刃物で出来ているようなきわどさと冷血さに、まるで対向車の前照灯に直撃を受けた眼球のような眩惑に、思考が完全に停止し、何も見えなくなった人のような頼りなさに、過剰な不安感が襲い掛かってきた。
三人のうち比較的損傷の少なく見える、流血のわずかな男の子が、喉を人差し指と親指で摘むしぐさをしてみせた。とたんに岡田さんが堪えきれないとばかりに大声で笑いだした。
「見てよ、こいつあんな無謀な運転してたくせにこんなことは知ってるのな。お笑いだね。『窒息のサイン』をするなんて。じゃあ、ぼくは『腹部突き上げ法』でもやってあげればいいのかな」
彼の饒舌は増し、目下に横たわる血まみれの負傷者に聴こえるほど大きな声で笑うのを止めない。
事故に遭い、気道が詰まり息ができなくなった際の世界共通のサインなんだと教えてくれ、その際に気道を確保するための一般的な方法が、腹部突き上げ法なのだとも、負傷者を使い実演してくれた。片手の拳を握りそれをみぞおちの下にあて、もう片方の手で、拳を握った方の手首を掴み背後から上へ突き上げるように持ち上げる。数回繰り返すうちに男の子の口から嘔吐物が吐き出された。
それが済むと今度はタイヤのブレーキ痕に興味が湧いたらしく、まだ警察も来ないうちから、ひとり現場検証を行うよう、アスファルトについたそれをかがみ込んで、「これはどのくらいのスピードでつくれるものなのだろうか……」と呟いた。
まず救急車が駆けつけてきて、救急隊員の人が岡田さんの応急処置の見事さを褒め、謙遜し彼は、ますます救助隊の好感を得ていた。
つづいてパトカーが到着し、派出所の警官が現れると、岡田さんはすぐに近づいていって、ぼくが事故の目撃者です、と名乗り出た。警官は岡田さんの的確で、分かりやすい、でも彼らの職務に口を挟むことは言わず、ただ状況だけを客観的に話して聞かせていた。
彼の誠実さに警官は感銘を受け、民家の住人もいるのに、岡田さんだけに事情聴取の時間を割いて、警官はまるっきり彼の言葉を信用しきっているようで、いちいち彼の言うことにうん、うん、免許取り立ての若い連中にはよくあることだと、負傷者を非難することまで言い出す始末だった。
警官に雄弁に語る彼の眼光はもう恍惚さを隠しきれないほど輝きの最高潮にあって、演技性の彼の本領を発揮させ、教祖様の言葉にこころ奪われ、だらしなくひたすらに、頷くばかりで、いったいどちらが警官なのだろかと見間違えるほど、岡田さんの方が堂々とした態度で警官と対峙していた。
思い出したように、彼は、彼の背にしっかりとくっついて離れようとしないわたしに、
「未久ちゃんは車の中で休んでなさい。警察の人には事故を目撃したショックで疲れきっているっていっておいたからね」
彼が汗ばんだ手で車の鍵を渡し、
「暑かったらエアコンかけてもいいから、横になって今度こそちゃんと休むんだよ」
それだけ言って、また警官の聴取を一手に引き受けている。岡田さんの目つきは狂人の時々放つ、異常をきたした人そのもので、常人には決して漂わせることができない恐怖を越えた妖艶な甘美の鋭く人を射すくめる、狂人達の頂点に立つ資格のある、絶対者のごとくわたしは彼が誇らしげに警官に詳細を語る、その後姿に、決してわたしはこの人からは逃れることはできそうもないほど恋着している自分の心理が、彼と同様に平常をはるかに逸脱し異常をきたしているのを感じずにはいられなかった。




