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前編

 同じ派遣会社で働く年上の彼に誘われ、初めての遠出をした帰り道。県を一つまたいだ長距離の運転にもかかわらず、彼はとても静かに車を走らせている。

 入社した時期が近かったこともあって、岡田さんがわたしの一番近しい男性になった。女の先輩連中には目をつけられぬようにと、できるだけ岡田さんとは距離を置くつもりでいたのだけど、他の女など目に入らないよ、と彼は社内の人間関係などお構いなしにわたしにだけ、あからさまなアプローチをしてきた。

 先輩連中の数人は、おそらく岡田さん目当てだったらしく、古くから居る先輩方に目もくれず、後から来たわたしにだけ、その積極性を向ける彼を妬みの矛先にはせずに、女性特有の、同棲に向かう嫉妬心から、少しずつわたしの陰口が聞かれるようになっていた。

 親切心からわたしにうわさばなしを聞かせ、気をつけなさいと忠告めいたことを言ってくれる先輩もいたけど、わたしはもう岡田さんの、まるでイタリアの伊達男ばりの色香にまいってしまっていたので、周りの陰口なんかは耳の奥がつまったみたいに、わたしのこころにまでは届いてはこなかった。

 ベッドの中でも岡田さんの伊達男ぶりは、まだわたしの体の芯を火照らしつづけ、助手席に座るわたしはまだ緊張と昂奮から冷め切らず、岡田さんの優しいタッチでわたしの体のすみずみを撫で回し、その眩惑からは逃れられなくなったほど、その行為は素敵なものになった。

 あの、手取り足取りわたしを人形のように扱いながらも、女性としての自尊心にも配慮した彼は、女の扱いに手馴れていることが容易に想像できた。彼に抱かれた他の女性達もきっとそれだけは今も大切な思い出にしていることだろう。

 深夜の国道は粗い運転が目立ち、バイクも乗用車もすき放題スピードを上げては車線変更も、ウインカーもおかまいなしで、右へ左へと車線を移し、何に急かされているのか、しきりに少しでも前へ前へと進もうと必死になっていた。

 信号待ちが一つでもあれば、岡田さんの車はすぐに彼らに追いつき、また岡田さんから逃げるように立ち上がりにエンジンを噴かせ走り去っていく車達にわたしは不快感を覚えてしまう。

 わたしは運転のマナーの悪い人が嫌いだった。特に後ろから煽ってくるドライバーは軽蔑の対象としていた。それだけに、岡田さんの模範的な運転には全幅の信頼を寄せることができていた。

 彼なら、不注意の事故なんて起こしはしないだろうから、わたしがこのまま助手席で眠りについてとしても、彼はわたしに気づかないくらいに優しくブレーキを踏み、停止していたことすら気づかせない運転技術に長けているのだと思った。現に他人の運転では酔いやすいわたしが、ここまでこれだけの安心を得られていたことが驚きだった。

「今日はいろいろ行ったら疲れたでしょ。いいよ寝ていても、着いたら起こしてあげるから」

「でも、それじゃあ岡田さんが退屈で眠くなったりしない? わたしはまだ眠くはないから気を使わなくてもいいわよ」

「それじゃあ、ぼくが眠くならないように、何か話してよ。未久ちゃんのことを」

 その時のわたしは顔を真っ赤にさせていたように思う。でも車内の薄暗さがわたしの表情を岡田さんに読み取らせないでくれたから、そういう会話は慣れてますよ、と気勢を張り、わたしは少ない恋愛経験の、浅はかだった頃のことを話し出した。

 岡田さんは前方に視線をやったまま、わたしの断片的に思いつくままのおしゃべりにひとつひとつあいづちをうってくれ、ツーストロークの会話でわたしより口数が増えた彼に余計気を使わせてしまった自分を咎める思いも有りはしたけど、わたしの下手な思い出話の言い終わりを見事に捕まえ、その断片を彼独特の感性から紡がれる二段構えの『返し』が楽しい会話へと広げてくれる。

岡田さんは会話の読みが抜群にうまくて、傍にまわり、他人として見れば、わたし達の会話が如何に弾んで映ってみえることだろう。

 でも、岡田さんからは本当に恋人同士になった今でも、どうしても壁一枚隔てた精神の防壁が、彼の内側の者になってから、よりありありと感じられていた。どことなく、これといった根拠もなかったが、ありていにいうと、女の直感の類がわたしに、その人は安全ではないと告げているようだった。

 また後方にライトが見え、ミラー越しに眩しいブルーの前照灯が、運転者の自己顕示欲をまんま表すようにしてわたし達の背に当ててくる。

だんだんと、後方の軽自動車との距離が詰まってきて、岡田さんとの車間距離の安全圏も越え、ほとんど煽りの体勢に入り、ぴたりと後部に張りつき、急かすように距離を空けようはしなかった。

 わたしは腹立つ思いで後方の車を意識していたけど、岡田さんはウインカーを左にだし、ゆっくりと速度を落とし歩道に移行していく。

 後方の高級車に乗っていたのが、すれ違いざまにガラの悪そうな、いかにもな若者だと分かると、わたしの怒りはさらにおさまりがきかなくなる。

 よく冷静に譲ることができるものだなと、岡田さんの大人な態度が頼りがいのある年上の男性を強調するかのようで、わたしのお熱は益々岡田さん一筋にならざるを得なくなってきた。

「ひどいですね、あの車。わざわざあんなに煽らなくてもいいのに」

「運転中は腹の立つことはよくあるからね。しかたないよ。人の意思はそれぞれなんだから。煽られたからといって、こちらまでスピードをあげちゃったら、ぼくらまで危険な目に遭う確率が上がっちゃうでしょ。だからあくまで、そういった他人の思惑には流されず、ぼくらの立ち位置は変えることなく、あくまで安全運転で行こうよ。早く帰りついたら、未久ちゃんとこうしてドライブしている時間がそれだけ短くなるんだから、ぼくとしてはそんなに急ぎたくはないんだ。今日の楽しかった余韻を感じながら、君を助手席に置いて少しでも一緒に居たいんだ」

 よくそんな恥ずかしい言葉を堂々と言えるものね。そう内心冷やかしながらも、わたしは照れ笑いでなんとかやりすごす。

もちろん、悪い気がするどころか彼への想いはより強固なものへとなっていくばかりで、わたしのお熱は上限を未だ知らず上昇しっぱなしだった。

わたしのことを、恋愛ドラマのヒロインに押し上げてくれる岡田さんの演技性の言動は女性の感性の劇場型であるところをよく理解していた。

 そうやっていままでの女性達も口説きおとし、彼に自ら心酔させるよう岡田さんは、わたしのような恋愛経験の浅い女性を手玉にとってきたのだろう。

 さきほどから後方車の列が増えてきていた。もう深夜にさしかかろうとする時間帯に不釣合いな車の列が確認できると、さすがにいちいち道を譲っていては帰りが明け方になりかねないわね、ここらへんで、岡田さんの模範的なドライバー像も一旦崩してはどうかしら。 

そうわたしは考えていたが、思惑に反し岡田さんは先を急ぐ車には寛容で、左へウインカーを出し、その度に一時停止を繰り返す。

 わたしはいい加減じれてきていたけど、岡田さんの決して自分のルールを破ろうとしない断固な信念は男らしさとも見間違えることもできるのは、わたしの理想に在る男性像が岡田さんそっくりだからだった。

 また、岡田さんの後ろで車間距離を無理に詰めてくる車があった。彼は涼しい顔で、問題ないとばかりに車線を譲る。

「そんなに他のドライバーに気を使わなくったって、岡田さんの車だったらもっとスピードだせるでしょうに」

 岡田さんは前を向いたまま、にこりと微笑み、「車の価値を本当に決定付けるのはドライバーなんだよ。どんなに高級車に乗っていたって、窓から、たばこの灰を落としたり、強引な割り込みをしてきたり、また必要以上に速度を上げたり、速度メーターは限界まで上げていいですよ、といっているんじゃない。どんなに最高速度の出るスポーツカーに乗っていたって、一般車道で最高速度を出すのは車の品位や誇りを汚すことになるんだよ。車の価値を決めるのはぼくらドライバーなんだから、これは負け惜しみではなくてね、実際にぼくだってBMWのオーナーになれるだけの個人資産はあるんだよ。でもぼくにとって、国産の高級車や、ベンツなんかはとても下品な車なんだ。日本人の場合、特に成金がすぐに手をだすありきたりなサクセスストーリーのインテリアには興味がないんだ。それにぼくはこの車が気に入っているから。みてよこれだけの居住空間を維持する日本車を生産できる技術者の高度な能力は感動の域だよ。1500ccの排気量でさらに排出ガスをおさえる技術。日本人は技術者を軽く見すぎだと思うんだ。あ、こんな話つまんないよね」

 得意分野になると饒舌になる男の人の、自らの持てる限りの知識を女性の前で披露したがる、男性としての顕示欲は、好きな人であればときめきの対象となるものなのだと、改めて恋は盲目という格言めいた旧い文句の鮮やかだった頃の心覚えがあった過去を思い返した。

 岡田さんの迷いを捨てた思想にすっかり引き込まれ、彼の言葉を鵜呑みにしても、たとえそれで不幸に遭おうが、きっと幸せな気分で地獄へも落ちていかれる、狂気の見込みは消えず、わたしは体も許したその人に、文字通り身も心も与え、破滅的な快楽への道案内を彼に求めたいと思った。

「未久ちゃん、今変なこと思い出してなかった? ぼくの話聴いてくれてたのかな」

 わたしは問いかけに答える余裕などなかった。本性を見透かされた戸惑いと、岡田さんにはもうわたしの心まで明け渡していたことを、わたし自身が気づいていなかった至らなさや、全てを預けてはいなかったはずの、わたしの深部に彼はいつの間にか堂々と上がり込んで来ていたことの驚きに感心しきっていた。

彼にはわたしの恥ずかしいところを何もかも見せてしまったつもりだったのに、岡田さんは裸にしたわたしをもっと辱めるように心まで裸にひんむいて、それに気づきもしないわたしの愚かさに感じていたに違いない。

 数時間前の、岡田さんのわたしを弄ぶ行為の手馴れた具合から、この人ならそれくらいのイジワルはやりそうだと窺い知れていた。

 わたしは彼の焦らし作戦にまんまと嵌り、いやらしい女の本性が、剥がれ落ちていく様をわたしに鏡面をつきつける、非道徳的なやりかたで、わたしに翻弄されることの快感を教え込む企みらしい。

 なんて色気違いな人。わたしのなんでも知っていたいのかしら。そうしてわたしの良いところも悪いところも全て引き出して、人間である一番の証をわたしに捨てさせ、本能の限りに色情狂を育てようとしているのね。

 わたしは岡田さんに着いて行く覚悟を決めていたから、たとえ初めての相手というハンデがわたしの正しい判断を鈍らせていたとしても、むちゃくちゃにしてほしかった。

 あの快感をいつでも彼がくれるというのなら、そんな破局でも受け入れられる気がしていた。

 真面目で御堅い女性像で塗り固められた思春期に巣食い始めていたものが、今はっきりとしだいにその姿を現していくのを身の内に疼きとなり体感し、おへその下あたりがきゅんきゅんざわめき振動となり、わたしが不道徳な女であることを伝えてくる。

 今の時代に貞淑なんて無用だわ。ちょっと裕福な家庭に生まれたせいで、わたしは人並みに恋愛もさせてもらえず、つねに嘘の淑女を演じてきた。だからこそわたしも打算があって岡田さんと対決してやろうという気になったのだ。

 それなのに、彼はわたしなどが到底及ばないくらいの役者ぶりで、会社で見せていたあの誠実な男性を演じ、まわりに本物だと信じ込ませていた。

 現存する名役者と謳われる者達を分け入って、突如踊り出てきた希代の名俳優よろしく、ミーハーなファンのわたしをあっという間に虜にしてしまった。彼こそ役者だと推し量り、わたしのは単なるまねごとでしかないのだと痛感させられた。彼は生まれつきの女たらしだ。きっと本人は演技している自分にすら無関心なのだろう。彼は女を良いようにつくりかえるのが趣味な、変態的資質の持ち主で、彼にとってはわたしもその嗜好を充たすためのお人形さん程度なのだ。

 こんなひどい男を思いっきり嘲笑って捨てることができたら、わたしは男たらしになれる素質のあることが分かるはずだ。女の敵である彼なんてわたしが退治してやらなければ、ほかの女性が被害に遭わぬ様一生わたしの手もとにおいて、彼が他の女性達を傷つけることがないよう監視しておかなければ。わたしは世の女性の為に自らの心身を投げ出し、悪魔のような彼の生け贄に名乗り出た、儚くもいじらしい少女を演じよう。わたしは、わたしの命を賭け、この誓いを貫いて生きていこう。

 彼の、横顔の輪郭がとても鋭角的で、本当にイタリアの伊達男じみてきた。一重の切れ長の眼も、筋の通った鼻から下にあるへの字型の唇も、全てがわたしを魅了する対象であるかのようで、彼がたとえ一瞬の気の緩みで顔を崩したとしても、それさえも愛へと変換されそうで、わたしは惹かれていく自分を止めることができなくて怖くてしょうがない。

でも逆らえない。彼が殺人者であったとしたら、わたしは喜んで共犯者になってあげたい。でもそんなことはさせない。わたしが全力で彼に尽くしてやり、彼の欲情を全て充たしてあげ色情魔にとりつかれた彼を救い出してみせる。わたしの心も体も彼の果てしない情欲の受け皿となってあげよう。

 

「最近対向車のライトがまぶしくって困るよ。ハロゲンの倍もあるっていうやつ、なんて言うんだったかな…」

 岡田さんは対向車のある度に、顔をしかめ、視界を保とうとしていた。

「眩惑したら危ないからね、一人なら事故起こして死んだって構わないんだけど、未久ちゃんを乗せてるからそうもいかない」

「わたし、岡田さんとなら心中したって後悔しません」

 幼子を見つめる大人の優しさの、岡田さんの眼差しがわたしに安らぎを与えてくれる。

「だれも心中なんて求めてないよ。せっかく未久ちゃんと愛しあえたんだから、生きていきたいよ。ずっと」

「わたし、精一杯岡田さんの理想に近づきますから――」

「そのままの君が、たくさんの女性の中で、ぼくの心をただひとり釘付けにしたんだよ。

手ほどきならぼくがしてあげるから、未久はぼくに身を任せてくれればいいよ。精神的な安らぎとかは、本人のその時の感情にも左右されるから、絶対の、とは言い切れないけど、経済的な安定なら君にあげられるよ。今は派遣でやってるけど、ぼくにとっては場つなぎ程度で、今度ちゃんとしたところに就職するつもりだから、その当てもあるんだ。大学時代の友人が口を利いてくれる手筈もすでにできてるんだ。精神の安定って大抵は経済力で何とかなるもんだから、お金があるってことは精神的にも楽になれることが多くなるんだよ。ぼくはいい加減で、適当なことは言いたくないんだ。だから、こんな頼りない言葉でしか気持ちを伝えられないんだ。だって、心の底から愛してる人に嘘なんかつきたくないから……」

 運転中の岡田さんが申し訳なさそうに語尾を濁した。そうじゃないんです。わたしはあなたに安定なんて求めてはいないんです。わたしはあなたの尋常を超えた言動に心奪われているのだから、そんな心配いりません。あなたは不逞の限りを尽くしてくれたらいいんです。

 信号待ちで、岡田さんが唇を求めてきた。わたしはされるがままに、口内に舌を挿し込まれ、信号待ちの短い時間では物足りないと次の信号が赤で、願わくばできるだけ長く足止めをしてほしいと、彼の舌を思慕してやまなかった。


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