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比良坂の猫  作者: yamainu
5/6

5、

 5、


 ……思い出した記憶は、そこで途切れている。

 その後の記憶は、つながらない。気づけば、俺はあの坂道にいた。俺は、どこに行こうとしていたのだろう。俺が目指していた坂の下には、何があったのだろう。


 だが確かに、俺はあのときの手の感触を思い出した。男の首を押しつぶす感触。男の屋敷で、口から血があふれて意識が遠のくのを感じながら、それでも俺は最後まで男の首を絞めていた。

 今、俺の手は切り離されて床に転がっている。

 男は床に転がった俺の首を見下ろし、にやにやと笑っている。

 ということは、俺はこの男を殺し損ねたのか。

 俺の娘を殺した男を、殺し損ねたのか。

 それで俺たちは、今ここにいるのか。

 ああ、

 殺してやる。何度でも、殺してやる。


 憎悪の炎が、また俺の中で燃え上がった。


「へへへ、だからそうにらむなって。

 どうせもう助からねえんだ。おとなしくオレの玩具になっててくれよ」

 にやにや笑いながら、男が近づいてきた。

 憎い。

 憎い。

 憎い。

 唯一どうにか動かせた眼球で、俺は手段を探した。脳が、燃えるように熱かった。黒い憎悪の炎で焦げ付くようだ。目は、おそらく血走っていただろう。視界が赤く染まっている気がした。

 俺は、

 床に散らばっているものを見た。

 今の今まで童女の体につながっていた猫の首。

 こちらを見つめて惨めな鳴き声をあげた猫の首。

 それから、

 胴を輪切りにされ、首と手を切り離された童女の体。

 床に倒れて動かない童女の体。

 そして、

 少し前まで俺のものだった両手。

 男の首を絞める感触を思い出した俺の両手。

 ……目の前の猫の首が再び、にゃあと鳴いた。

 悲しみと、恨みの込められた声。

 同じ恨みを持っていることを俺は感じた。

 黒い炎が燃える。燃える。燃える。

 炎が、ついに俺の中に収まらず、脳から外へと勢いよくこぼれ落ちたのを感じた。それは目には見えない炎だったが、まるで導火線を伝うように燃え走り、目の前の猫の首へとつながったようだった。

 さらに、

 バラバラにされた彼女の体と、

 そして、

 少し前まで俺のものだった両手に。

 

 最初に動いたのは、俺の両手だった。黒い炎を通じて、その感覚があった。

 ずずずっと糸で引きずられるようにして、俺の両手が童女の上半身の肩口へと移動した。切り離された肩口に。

 そして、つながった。

 童女の上半身が肩を回すと床から離れ、俺の両手は童女の上半身につながったまま男の首へとつかみかかった。

 続いて、それを追うように猫の首が跳ねた。切り離されたはずの上半身の上に再び戻ってつながり、恨みの炎を目に宿して歯をむいた猫の顔が男を見た。続いて、下半身が上半身につながった。


 男は驚愕し、のけぞって倒れながら、首に伸ばされた俺の両手をどうにか防ごうとした。

「な、なんだと!

 てめえ、聞いてねえぞ! なんでてめえも、そんな力を持ってんだ!

 オレだけじゃなかったのかよ! くそっ、理不尽だ! 不公平だ!」

 男の考える公平とは男にとって有利であることらしい。


 仰向けに倒れた男の上に乗しかかり、猫顔の童女が俺の腕を男の首に伸ばしていた。

 男が抵抗し、もがきながら猫顔の童女をにらんだ。不思議な力が再び童女をバラバラにしようとした。童女の肩に亀裂が走った。それを、俺はつないだ。童女の猫の顔に縦に亀裂が走った。それを、俺はつないだ。

 男がバラバラにしようとするたびに、俺はつないだ。

 数秒、俺と男の異能は拮抗していた。バランスはどちらにも倒れきることなく、童女は亀裂と修復を繰り返しながら俺の手で男の首を狙い、男はそれを必死でつかんで阻止していた。

 だが、

 童女の首に再び亀裂が走ったとき。

 童女は、ぐわっと口を開け、半分ちぎれた首を傾けて男の手に噛みついた。

 男が怯んだ。

 つかみかかる俺の手を阻止していた男の手が、ゆるんだ。

 その手を振り払い、俺の両手が男の首を絞めた。

 そう、この感触だ。

「ぐえっ」

 と、男が目を見開いて無様な声を発した。

 喜悦に歪んだのは、俺の顔か、それとも猫の顔か。

 ただ、思った。もうこの手をゆるめはしない。

 絞める。

 絞め続ける。

 絞め続ける。

 頭の中を憎悪の炎が焦がし尽くすのを感じながら、俺はそれだけを考え続けた。


 やがて。


 男の抵抗が、ばたりと止んだ。動かなくなった。

 男は目を見開いて鬱血した顔で、死んでいた。

 しばらく、俺と童女はそれを眺めていた。

 手の力をゆるめることなく。


 それから、ようやく。

 こわばった手の指を、一本一本、男の首から離した。くっきりと、男の首には痕が残っていた。

 それでもまだしばらく、俺と童女は男を眺めていた。もう動き出さないと、納得できるまで。

 黒い炎が、もう何も新しいものを燃やせないと理解するまで。

 そこまで納得して、ようやく。

 俺は、目を閉じた。


 すると、落ちるように、意識もまた沈んで形を失った。



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