◆三・ガーネット
そこは、世にも不思議な世界だった。
いや、そんなことを言ってしまえば、このダークフォルトの世界を表現する言葉を新たに探すことに苦労してしまうだろうが。
空と地上がさかさまになって見えた。いや、実際、足元で星はきらめいていた。
上半身を起こすと、一見テントにも見える無数の砂の子山が足元の星空に浮かんでいた。頭上には砂の質感を想像させる砂漠が広がっていた。注意深く眺めていると、ところどころで砂時計のようにサラサラと砂が流れていた。
右腕の傷は、キレイに塞がっていた。左手でさすってみると、ラメのようなものが付着した。少しだけ舐めてみると、ややしょっぱさがあった。
「ここは治癒の泉です。地図にはない場所なのです。ガゼリの血で、あらかじめ解毒剤を体内に流し込んでおいたとは言え、相手はそれなりの魔力を誇る王。まぁ、ひとまずここでムウランの毒も取り除かれて、良かった良かった」
「え? 俺、毒におかされてたの?」
「ええええ! それ、本気で言うてはりますかァ? あんさん、相変わらず暢気で、羨ましいほどですなァ、ほんまにィ。って、なんや、この喋り方は! いやはや、誰があの槍の先に毒が塗られていると考えたか。やーでも、あそこでルビーが破裂してしまったのは、もったいないもったいない。むしろ、あれが一番光り輝いていたような気がする。いや、偽物ほどでかい面をするもんだぁ。きっとあのルビーは……」
ゲーシュタイナーは、俺の足元でブツブツと自問自答していた。
「てかおまえ、あそこで死ななかったんだな? 念のため聞くけど、ここって、天国じゃないよな?」
そう言って俺は、大袈裟にゲーシュタイナーの肩や背中に触れた。
「分身の術ですよ。森の中で生活することも多かったですからね、実に様々な動物たちの動きを学びましたよと、言いたいところですが、ムウランの身軽な動きを真似てちょっと試してみただけです。でも、決して簡単ではなかったです。同じことはもうできないでしょうなァ。つまりは、マグレですよ、マグレ」
謙遜しているのか、それとも本当に単なる偶然だったのか。もしかすると、ゲーシュタイナーはいざという時に運が味方をする、とんでもない強運の持ち主なのかもしれないと思った。
「ところでさ、トルマリナはどこ?」
その質問に、ゲーシュタイナーはさっと表情を硬くした。
「彼女は多くの宝石を所持している状態です。いや、ただの宝石じゃないのは、ムウランもご存じでしょう? つまり、多くの心を持ち運んでいるワケで……。そのせいで情緒がかなり不安定になっております。おそらく、この治癒の泉を出るまでには完治するかと……」
ゲーシュタイナーの補足によれば、この治癒の泉は最長で三日までしか滞在できないらしい。それは、たとえ身体に良く作用する薬であっても、必要以上に摂取し続けると身体にとってマイナスになることと同じだと言う。
知りたがりの俺は、長居することで、実際どれほどのダメージを受けるのか訊いてみた。
「端的に言えば、負傷した時よりも十倍の痛みになって返ってきてしまうのであります」
「え、つまり、薄らハゲてた髪をここでフサフサにしても、四日目にはつるパゲになるってことか?」
「その発想、ある意味で尊敬しますよ、ムウラン……」
そんなふうに冗談を言い合っていると、足元で白い魚が弧を描くように飛び跳ねた。
俺は慌てて片足を上げて、白い魚を避けた。
「おいおい、いま、魚が跳ねたよ! ここ、どうなってんだぁ?」
「焼き鳥の方が好物ですけど、今夜は焼き魚にしませう」
すでに口元に涎を垂れ流しながら、ゲーシュタイナーは声を弾ませて言った。
「あ、俺、魚はちょっと苦手なんだ……」
「それは困りましたなァ。ならば、ボートなら食べれますかなァ?」
「ボート? あの、移動するボート?」
俺は素っ頓狂な声で訊き返した。
「ちゃいまっせちゃいまっせ。エビの一種ですわ。少し離れたところにボートの巣があったのですよ。巣の中心に、えらいベッピンさんでもいますのぉ?ってくらい、みーんな中心に集まっていて、ちょっとオモローな光景でしたわ。しかししかし、どの子も成長期を迎えていないのか、とても小さいのです。そのため、あまり歯ごたえはないかもしれませんけどな。ただ、好き嫌いはイカンです。魚は栄養素が」
スイッチが入ると、誰にも止められないゲーシュタイナーだったが、自分でも驚くほど腹の虫が豪快に鳴った。
「さて、食事にしますか」
無数に並ぶ小山のひとつは、見た目通りテントのような作りになっていた。それほど広くはなかったが、その中で寝食をするには申し分のないスペースだった。 食のことになると、ゲーシュタイナーは仕事が早かった。白い魚を慣れた手つきで捌いていく姿は、一種のショーを見物しているようにも思えた。
さすが、人生の大半、サバイバルな生活を送ってきただけはある。
「なぁ、訊いても良いか?」
「身長以外ならば、なんでもお答えしますよォ」
串に刺した白い魚を炎で焙りながら、ゲーシュタイナーは明るい口調で言った。
「罪人であってもさ、良いヤツもきっといるんだよな?」
あまりに想定外の話題の振られたことに驚いたのだろうか、ゲーシュタイナーは俺を見て目を丸くした。しかし、すぐにまた白い魚に視線を落とした。
「大なり小なり、罪を犯してしまえば、罪を犯す前とは同じ空気を吸うことはできないと私は思っています。それは、迷惑をかけた人が表面的に許してくれたとしてもです。ただ、人は多くの顔を持っています」
「多くの顔、確かにそうかもしれない」
ゲーシュタイナーの言葉を噛みしめながら、何度かうなずいた。
「えーあまり自覚がないようですから、ひとつだけ私が教えてあげましょう。あなたと話していると、心が少しだけ落ち着きます。天性の才能でしょう。大事にしてくださいませ」
俺は右手で顔を隠すように膝上で頬杖をついて照れ隠しをした。
しばらくの間、不思議な色の調味料に、いったいどこで調達したのか、香りの強いオイルで混ぜてボートを美味しく調理するその様を茫然と眺めていた。
食事の後、激しい眠気が襲ってきた。
次に目を開けると、テントには自分ひとりだけになっていた。ここへ来てどれほどの時間が経過しているのか、またトルマリナの容体はどうなっているのか気になった。
ひとまずテントを出てゲーシュタイナーを探そうと思ったその時、俺は目を見張った。
足元で白い魚がまた跳ねた。いや、ただの白い魚ではない。紫色の光を帯びた物体を口に咥えているではないか。
ぐっと腰を落として、右に左に跳ねるその白い魚を間近で注視した。
十二面体と十四面体でできている紫色の石。
俺は右手でその白い魚を掴もうとした。
しかし、ゲーシュタイナーのようにスムーズに捕まえることができない。両の 手が使えないせいもあったが、素早く水の奥へと潜り込んでしまったのだ。俺は躍起になり、初めのうちはがむしゃらにその後を追いかけていた。やがて、目的の白い魚は大群ができている場所まで先ほどの三倍の速さで泳いでいき、俺の目を眩ませた。紫色の石を咥えていたあの魚には、他の魚とは違って知能があるのかもしれない。そう思わせる逃げ方だった。
気づくと俺は、治癒の泉の果てまで来てしまったようだった。そう、この世界には、一目瞭然の「果て」が存在していた。
白い壁があった。
そこは、滝のようになっていて、一歩でも足を踏み込めば、底のない闇へとまっさかさまに落ちていくのだろう。時空にも見えたし、地獄の入口にも見えた。
当然ながら、それまで等間隔に並んでいた砂の小山も、その先には一つも見当たらなかった。その白い壁まで、俺は無我夢中で一匹の白い魚を追ってきてしまったようだ。
さすがに魚の方も、体力を使い果たしたと見え、壁の近くで動かなくなった。すぐに水面に浮かんできた。俺は、その白い魚を右手で優しく掬いあげた。とうに紫の石は咥えていなかったが、直後、白い魚が俺から逃げていたワケではなく、「案内」をしてくれていたことを知る。
白い魚を掬いあげた場所の真下に、なんと、宝箱があったのだ。自分のブーツと同じくらいのサイズで、藍色を帯びていた。
俺は白い魚をもう一度、静かに水面へと戻した。
藍色の箱を持ち上げると、実際は凹凸感があり、それこそ魚の鱗のような模様になっていると分かる。それほど重くはなかった。
開けていいものか躊躇したが、そっと箱のフタを開けようとした。が、箱のフタは開かない。宝箱を右の掌で転がしながら、俺は鍵穴の場所を探した。珍しくその鱗の箱の鍵穴は、箱の裏に存在した。
俺は、左手のキーハンドにぶら下がっている二つのミニサイズのキーのうちから一つを選び、それを差し込んだ。長い経験により、一瞬でも鍵穴のサイズを見れば、目利きでどのサイズの鍵が当てはまるのか判別できた。
右に反回転するように差し込むと、宝箱のフタが勢いよく開いた。
そこには、暗赤色の光彩を放つひとつの宝石が眠っていた。名前は分からなかったが、探し求めている宝石のひとつだと確信した。ぷかぷかと腹部を見せて浮いていた白い魚を再び右手で救うと、宝箱の中に入れてやった。
なぜ、宝石の場所まで俺を導いてくれたのだろうか?
いま思うと、この左のキーハンドと共鳴するかのように、紫色の石は光を放っていた。
もしや、俺にこの宝石を託せると見込んだと言うことか?
―――曽祖父が、俺の子には、世界を救う運命にあると予言した
ふと、父の言葉が反芻される。
親父だけでなく、俺の先祖、それも男に限り超能力者であったらしい。その能力の高さに、個人差はあったらしいが。一方、祖母は少し特殊で、「自然」と対話ができる能力を持っていたと言う。実際、いくつかのエピソードが残っている。
三年後にライトフィリップの象徴でもある湖が突然、枯渇すると予言し、見事的中したのだ。その時点では、科学的、統計的に分析してみても、三年はおろか、十年後であっても枯渇する可能性はゼロであったらしい。
当時、多くの取材陣がつめかけ、一躍、祖父は時の人となった。
また、絶滅危惧種のライオン(飛んだ姿を目撃したものはいないが、翼を生やしたライオン)が北方四キロ先の飴色の岩穴近くで怯えていると予言し、その命を救ったこともあった。
まぁ一方では、それらの功績を不意にするほどの女ったらしなエピソードもなくはないらしいのだが……。
それにしても、そのような血族の男として生まれたにも関わらず、自分に超能力が芽生える兆候は見られなかった。
幼い頃から俺は、父の修行に連れまわされていたので、一つの土地に長く暮らしたことがなかった。そのため、心を許せる友達はルインしかいなかった。ルインは、ほかのクラスメイトとは違い、最初から心の壁をぶち破ってくれた。
生まれた時から俺には、誰もが当たり前のように持っている“左手”がなく、鍵の形をした義手を身につけていた。そのせいで、好奇な目にさらされたり、避けられたりすることも多々あった。
しかし、ルインだけは他のヤツらとは違っていた。
「なぁ、おまえのその鍵で、女子更衣室のコインロッカーって開けられるか?」
「俺の鍵は、そんなちゃっちぃ欲望を満たすためのものじゃないっつーの」
これが、ルインと交わした最初の言葉だった。
基本的には、口を開けばクラスメイトの異性のことばかり話すは、「町長が、人を石に変える悪魔がこの街に襲ってくる悪夢に悩まされているらしい」だの、「包帯を体中に巻いた男が夜の学校に現れる」だの、平気でホラを吹いて周囲を怖がらせたりするのが好きと言う悪趣味な面もあったが、実は家族、仲間思いで性根の良いヤツだった。
どういった話の流れだったかまでは覚えていなかったが、ある学校の帰り道に、次のようなことを言われたことがあった。
「俺は、どんなことがあってもおまえの味方だ」
喧嘩だけは誰にも負けないルインだけあって、自分よりもずっと逞しい二の腕を首に回して来ながら言った。
「どんなことも? そんな、軽々しいことを口にするからホラ吹きって言われちまうんだぞ?」
ぴしゃっと窘めたが、むしろルインは白い歯を見せて呵呵と笑った。
「おまえの好きな女を好きになってもか?」
「らしくないこと言うな、おまえ。ああ、そんなちいせーことでイチイチ苛立ったりはしないね」
「じゃあ、おまえの大切な家族を、俺が傷つけたとしてもか?」
その問いに答えてくれるまでは、少し時間がかかった。
妹が作ってくれたものだと、ことあるごとに自慢していた派手な色合いのターバンを、忙しなく手でいじりながら、ようやくぼそっと呟いた。
「理由があんだろ」
「え?」
「理由がなきゃ、おまえはそんな非道なことしねぇ」
結局、許すとも許さないとも明言はしなかったが、ルインらしい答えだなと思った。
ある日、そんなルインが珍しく学校を欠席した。
どうせズル休みだろうと思い、一発ケリでも見舞いに入れに行こうと彼の家に行くと、玄関前でルインが両膝をついて身体を震わせていた。
どうしたのかと尋ねると、「妹が殺された」と耳を疑ってしまう言葉が返ってきた。
「今日は、俺が悪夢を見たんだ。妹が殺される夢を。だから、だから俺は、妹から目を離さなようにしようって。それなのに。それなのに」
ルインがようやく詳細を語り始めたのは、それから一時間後だった。
「あいつらは、人間じゃねぇ。魔術を扱いやがる。俺たちも、遅かれ早かれ石にされちまう」
街中で警報が鳴り響いていた。
ショートカットしながら帰宅し、いち早く父の姿を探した。
すると、この日が来たかと言わんばかりの改まった声で、親父はとつとつと語り始めた。
「気が遠くなるほどの年月、混乱を招くことを避けるため、上層部は真実を隠し続けていたんだ」
「じゃあ、親父は知ってたの?」
親父は深くアゴを引いた。
「もっともっと、遥か前から、ダークフォルトは存在していたんだよ。ムウランも耳にしたことはないかい? はじめのうちは、ダークフォルトの名前ばかりが一人歩きしてしまい、ゾンビが襲撃してきただの、宝石の窃盗団が隣の星からやってきただの、人を石に変えてしまう夢を見るものが続出しているだの、根も葉もない噂ばかりが横行していたんだが……」
その時、ルインのホラは単なるホラではなかったのだと証明される。
「時間がないから、単刀直入に言う。よく聞くんだよ、我が息子よ。曽祖父が、俺の子には、世界を救う運命にあると予言した。誰も、運命には逆らえない。そして、自分にしかない能力を最大限に生かすのだ」
父は、俺の両肩を力強く抱いた。別れの時が近いことを認めざるを得なかった。
「絶対に忘れるな。315360000数えたら、315360000だぞ? 目を開けるんだ。それまでに、俺はムウランに必要な物を用意しておく」
「どこで、どこで数を数えるの? その間、ご飯は? 学校は?」
突然、無理難題を押しつけられて、俺は理解に苦しんだ。
完全に面を食らった俺に、父はかつてないほどの柔和な笑みを浮かべた。
「安心しろ。とにかく、精神力を鍛えるんだ。目を閉じている間は、食事をとらなくても大丈夫だ。我が息子には、特殊なカプセルの中で眠ってもらうことになるが、常に命の安全は保障される。もし、危険が忍びよれば、父さんの超能力で感知して助けを送る。良いか。この街はもちろん、おまえが歩いたことのある場所は、直視できないほど変わり果てるだろう。それは防ぎようがない。ただし、我が息子の生き方次第で、新たな未来も仲間をも導くことができるだろう」
正直、地下に用意されたカプセルに入る前に、ルインには会っておきたかった。あのままでは、何をしでかすか分かったものではない。
最期に俺は、ルインの安全を確保して欲しいと親父に頼んだ。
「ああ、分かったよ。努力してみよう」
親父は、そう快諾してくれた。
単純な俺だってその言葉を百パーセント信じたわけではなかった。しかし、その言葉を信じる以外、当時に俺にはルインに何もしてやれなかった。
睡眠薬で眠らされたのか、腹に蹴りでも入れられて運ばれたのか。その会話の後の記憶を、俺はまったく覚えていない。
気づけば、高さも広さも暖かさも寒さも感じられない暗闇の中で、俺は数字だけをカウントしていた。
2035、2036、2037、……………100032、100033、……。
いつの間にか、白い魚と暗赤色の宝石を入れた箱を抱きしめたまま水に流されてしまっていた。薄々気づいていたが、鍵を使うと、必ずと言って良いほど睡魔が襲ってくる。ダークフォルトへワープしてきた時も、ただ単に世界を超えてきたというよりは、ゲーシュタイナーがやってきた部屋でいくらか眠ってから目覚めた感覚があった。
それにしても、どれくらい水中で眠っていたのだろうか。
おもむろに立ちあがり、辺りを見渡した。空は相変わらず薄紅色をしており、砂がさらさらと流れていた。ここは、陽が落ちて暗くなったり、全ての生命を目覚めさせるような日の出の瞬間もなかった。そう、あからさまに一日の流れを知らせてくれるものが何ひとつないのだ。
それでも、水流は明らかに速くなっていた。足元にあたって跳ね返る水の高さに変化を見た。
「ゲーシュタイナー! トルマリナ!」
大声で叫んでみたものの、誰からの反応もなかった。
いや、これは絶好の機会かもしれない。
本当に超能力者の血を引いているならば、ふたりに自分の声くらい届くはずだ。
ところが、その前向きな気持ちも、水位が高くなってゆく恐怖には勝てなかった。こう言う時、どうするのが正しいのか。そうだ、水を吸ってしまえば服はどんどん重荷になる。しかもいまじゃ、腰の布袋に宝箱もしまっているのだ。
とっさの判断で服を脱ぐことにしたものの、こんな時に限ってキーハンドが邪魔したり、足からブーツがスムーズに離れない。焦れば焦るほど体力がみるみると奪われてゆく。
あっという間に足のつま先が地面に着かないまで水かさが増していた。更には、まるで誰かに水中で引っ張られているのかと思うほど自由が利かなくなっていく。
俺は反射的に目を閉じた。あの地下のカプセルで眠っていた時の感覚を思い出し、できるだけ虚無の状態に近づけようと精神を統一させてみた。
しかし、父が信じて止まなかった超能力は、この時も芽生えることはなかった。
その代わり、危機一髪のところで、ある物体が、遠くでもぞもぞと揺れ始めていることに気がついた。赤い物体の正体は、扉だった。その中央には、不自然なほど大きな鍵穴がついている。そして、ものすごいスピードで扉はこちらまで流れてきた。
このチャンスを逃せば、もう助からないだろう。その一身で、俺は左手を高く挙げ、キーハンドに念をためた。
うまく鍵穴にキーハンドを差し込むことができた時は、どれほど嬉しかったことか。
そのままキーを回して、三つ数を数えたくらいで、懐かしい声が俺を出迎えてくれた。
「ムウラン、ムウラン、ムウラン、どこですかぁぁ! 私は泳げないであります」
「ゲボク、あんた犬でしょ? 犬掻きくらいできないの?」
「私は犬じゃあああああない! むろん、ゲボクでもなぁぁぁぁい!」
「それより、このままじゃ溺れちゃうじゃないのよ。どうにかしなさいよ。って、あの赤毛くんはどこ行っちゃったのよ。あの恩知らず! うん百万、請求してやるわ!」
「よくこの状況でそんなこと言っていられますね、トルマリナ……というか、そっちこそ魔法使いなのに、魔法でなんとかならないんですか?」
「ここで魔法は使えないのよ! そんなことも知らないの? もう、ここで喧嘩してても、なにも始まらないじゃないのよ。このままじゃ、期限が過ぎちゃうわよ」
俺は両目をカッと見開いた。
先ほどとは世界が全く違って見えた。実際、通常の何倍も、いや、何十倍もの遠くの距離まで見通す超視力の能力が両目に宿った。
再びゲーシュタイナーとトルマリナの話声が聞こえてくると、目にも止まらぬ速さで俺は水上を飛んでいた。
砂の小山を何十、何百、何千と超える。
一分一秒でも早く、かけがえのない仲間を助けてやりたい、仲間に会いたいと言う一心で、俺は飛んでいた。少し前まで体力の限界の中、自分が溺れかけていたとは思えなかった。
視界に、黒の中折れハットを被っていたちいさなブルドッグと、金色の髪にグリーンの瞳を持つトルマリナが見えてきた。
「ふたりとも、お待たせ」
ほぼ同時にふたりは顔を上げ、ほっと胸を撫で下ろしたのが分かった。
俺は、右手でゲーシュタイナーの首根っこを掴み、左のキーハンドでトルマリナをエスコートした。どちらも素直に「ありがとう」とは口にせず、それどころか、小言ばかり吐いていた。
なにはともあれ、すぐそこまで迫っていた津波からふたりを救い出すことができて良かった。が、俺の右手はしばらくの間、小刻みに震えていた。あの時の情けない姿をふたりに見られなかっただけ、不幸中の幸いだったかもしれない。俺は、太い息を吐いた。
その後、無事にダークフォルトに戻っては来られたが、喜んでいられるのも束の間。俺たちは見知らぬ土地へとワープしてしまっていた。トルマリナの話によれば、場所を指定することはできなかったのだと言う。ブラックダイヤモンドが地上を照らしている以上、いまさらどこへ行っても晴れ晴れとした空を拝むことはできないが、それにしても辺りは薄暗かった。
仕方なく、宛てもなしに歩き進んで行くと、右手に石でできた円柱が何十本も一列に並ぶ光景が目に入ってきた。
「神殿よ」
「神殿?」
「まぁ、明日の計画にも繋がる話になるから、少し休んでからにしましょう。それより、治癒の泉でどうして姿をくらましてしまったの?」
「私もそれが知りたいですなァ。ったく、どれほど心配したことかァ……うううううう」
「泣くなよ、ゲーシュタイン」
「ナー! 正しくは、ゲーシュタイナー! ですからぁぁぁぁ! 何度、何度訂正させれば気が済むんですかァァァ」
もはや、何に対して泣いているのか分からなかった。
今夜の寝床に相応しい地形を三人で探し歩く間、俺は白い魚に導かれ、治癒の泉の壁まで行き、宝石を手にしたことを全て打ち明けた。
「これ、ガーネットじゃない! やるぅ~」
女とは思えないほどのバカ力で背中を激しく叩かれた。
「ガーネットは、もともと血を止める薬として使われていたこともあるのよ。治癒の泉のもとは、ガーネットなのかもしれないわね」
トルマリナは、グリーンの手袋をはめた手で暗赤色のガーネットを丹念に眺めながら説明してくれた。
「そうそう、ゲーシュタイナーにひとつお願いがあるんだ」
「なんでございましょう?」
「ガーネットまで導いてくれたこの白い魚を、美味しく焼いて欲しいんだ。俺が食べることで、ひとつ恩返しできるかなって」
その言葉に、ゲーシュタイナーはさらに感動したらしく、サングラスまで外して目元を抑える始末。なぜかその姿を見て、トルマリナは声を出して笑っていた。
こうして俺たちは、四つ目の宝石を手に入れた。
この治癒の泉は、ウユニ塩原の風景をモデルとしています。
私の稚拙な表現力では、その美しさの半分も伝えられていなかったとは思いますが、ぜひこちらでご覧になってみてくださいね。
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