(8)
「あんたは……」
なんだか最近やたらと関わるようになった気がするのは、たぶん間違っていないだろう。
ただ、よく考えるとわたしはこいつの名前を知らない。
同じクラスなのに、と思うかもしれないけど、それは別にこいつに限ったことじゃないし。むしろ、わたしが知っている人のほうが少ないくらいだ。
まあ、その中でも彼の影がとくに薄いことは否定しないけど。
逆にわたしの名前を知っていたことについては、不思議でもなんでもない。自分の悪名はわかっているつもりだ。
「ごめん、同じクラスなのは知ってるけど、名前覚えてない」
「あ、ぼ、僕のほうこそ、いきなりごめんなさい……。よ、芳沢……芳沢聡、です」
ふーん、芳沢聡ね。
あらためて記憶を探ってみたけど、やっぱりというべきか、ほとんど引っかからなかった。普段からあまり目立たないタイプなのだろう。だいたいわかっていたことではあるけれど。
「で、何か用? ていうか、なんでここに?」
そんな彼が、わたしのような人間に声をかけるのは、とても勇気がいることだったろう。
誰もがそうしていたように、見ないふりをして歩き去ったとしてもよかったはずだ。
彼――芳沢は、まっすぐ見返したわたしに合わせることなく、あちこちへと視線を散らしていた。
「え、ええと……僕は塾の帰りで……その、さ、笹岡さんが……なんだか困ってるように、見えたので……」
途切れ途切れなうえにぼそぼそとした声は小さく、とても聞き取りにくかった。
でも、その内容はほとんどそうだと断定しているようで、なんというか……正直意外だった。
そう、思わず、くすりと笑ってしまうくらいには。
「……まあ、たしかに困ってるよ」
わたしが困っていたとして、芳沢には何も関係のないことだろうに。
「そ、そうですか……」
「うん」
自分でも不思議だった。
わたしは、なんでこいつと普通に話しているんだろう。
「……あの」
「ん?」
「笹岡さんさえよければ、その、理由を訊いても……」
「その前にさ、同級生なんだし敬語やめない? 名前も呼び捨てでいいし」
「そっ、……む、無理ですっ」
ほとんど予想通りの答えだったけど。
慌てたようにのけぞる彼の姿が面白くて、わたしはまた吹き出してしまった。
「ふふっ、あ、ごめん。でも、ほんとに気にしなくていいのに」
「ご、ごめんなさい……」
目を合わせない。全身から発するおどおどした様子。必要以上に卑屈な態度。
こういう人間を見ると、苛立ったりする人もいるのだろう。
わたしは別に気にしないけどね。こういうタイプは今までの相手の中にも何人かいたし、慣れてるから。
「ま、いいや。んじゃ、ちょっとこっちきて」
ベンチに座ったまま、芳沢に向けて軽く手招きをする。
ごくりと息を呑み、おそるおそるといった様子で近付いてくる。
なんとなく微笑ましく思いながら、手を伸ばせば触れる距離まできた彼に向けて、スカートを捲り上げた。
「っ!? ちょっ、何を……」
一瞬であとずさり、身体ごと反対側を向いた芳沢。髪の隙間から、みるみるうちにその耳が真っ赤になっていくのがわかった。
わたしの中にからかうつもりがあったのは確かだけれど、その動きがあまりにも俊敏で、笑うよりも先にあっけにとられてしまった。
「……そ、そういうことは、あまり外でやらないほうが……」
「……いや、ごめん。困ってる理由を見せようとしたんだけど」
「え?」
まるでぎぎぎ、と音を立てるような動きで芳沢が振り返る。
わたしは相変わらず、際どいところまでスカートを捲り上げたままで待っていた。
彼の首が勢いよく戻っていく。
「うわぁ!」
「だから落ち着きなって。ほら、ここ……痣になってるの、わかる? これが結構痛くてさ、歩くのきついからどうしようかな、って考えてたとこ」
「……え、あ、そ、そうですか……それなら、そう言ってくれれば……」
「だって、見たほうが早いでしょ」
「それは、でも……」
芳沢が唸りながらも痣を確認したことを見届けると、スカートから手を離す。
その瞳は前髪に隠されてあまり見えなかったけれど、少しは残念に思っていてくれればいいな――無意識のうちにそう考えていた自分に愕然とした。
どうしてわたしはこんな……、
「……笹岡、さん?」
「……ん、なんでもない」
動揺を押し殺し、わたしは立ち上がる。
「っ」
立ち上がろうと、した。
「笹岡さんっ!」
ずきり、と痛んだ太腿から力が抜け、踏ん張りがきかないまま前のめりになる。
そんなわたしを、芳沢が受け止めて支え――
「うわわっ」
「ちょっ」
きれずに、二人でもつれるように倒れ込む。
なんとも格好のつかないことだけど、ある意味でそれが芳沢らしいな、と思い、すぐに打ち消した。わたしが、いったい彼の何を知っているというのか。
幸いにして、二人とも頭は打たずに済んだみたい。
閉じていた目を開けると、同じようにしていたのだろう、芳沢と視線が合った。
わたしが下で、芳沢が上。お互いの瞳の中に、自分が映っていることがわかるほどの距離で見つめ合う。
そのまま、数秒が経って。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
長いような短いような沈黙のあと、我に返った芳沢が飛び退くように身体を起こした。
「……ううん、わたしこそごめん。あと、ありがとう」
震えながらも差し出された彼の手に掴まり、わたしも立ち上がる。
「い、いえ、結局、助けられませんでしたし……」
「それでも、さ。こんなわたしを助けようとしてくれた。それだけで嬉しいよ」
正直な気持ちだった。
ここ最近、いや、もしかしたらもうずっと長く。
こんなにも穏やかで、柔らかな気持ちになったことはなかったかもしれない。
「それは……笹岡さんも、僕を、助けてくれたから……」
「わたしが?」
そんな記憶は……まさか、プリントを拾った時のこと?
「その、昇降口で……」
「あれは……ただ拾っただけじゃん」
しかも、結果的にそうなっただけで、ただの気まぐれなのに。
「それでも、僕は嬉しかったんです。……いつだって一人でした。あのときだって、僕はただ笹岡さんを怖がるばかりで……、きっと、無視して行ってしまうだろうって」
同じ、だ。
わたしはその道を、自分で選んだという違いはあるけれど。
「だから、笹岡さんが拾って差し出してくれたときはびっくりしすぎて、お礼も言えなかったけど……今あらためて言います」
ようやく見えた、まっすぐな瞳。
「ありがとうございました、笹岡さん」
それは、わたしから言葉を奪うのに十分すぎて。
そこから彼に支えられて歩き、家の近くの交差点で別れるまで、わたしは絞り出すようなありがとうの一言しか、向けることはできなかった。




