(3)
「……ただいま」
小さな声に返事がないことはわかっていた。
家に人気はない。そもそも、ここは玄関ではなく、わたしの部屋なのだから。
ぱたん、と軽く音を立てて扉が閉まる。
すぐ左にあるだろうスイッチを手探りで押すと、眩しいくらいの光が部屋を照らした。少しの間目を細めていると、ようやく慣れてきたのか、視界がはっきりとしていく。
年頃の女の子らしくない……それどころか、五畳ほどの狭い空間にベッドや机、クローゼットなど必要最低限の物しか置かれていない。色合いも暗く、シンプルに統一されていて、正直な話、わたしの外見とはミスマッチもいいところだろう。
とはいえ、わたし自身はこの部屋を気に入っていた。
長年見慣れた光景にようやく人心地ついて、わたしは足元に鞄を落とすと、ゆっくりとベッドに歩み寄った。ポケットに入れていた携帯も、適当に放り投げる。
そのまま倒れ込もうとして、慌てて思いとどまる。
せめて、先にシャワーを浴びないと。
ここはわたしの部屋。わたしだけの領域だ。そこに、余計なものは持ち込みたくなかった。
今まではなんとか無視していたけれど、意識してしまえば、どうにも鼻についてしょうがない。
何かに急かされるように、手早く制服を脱ぎ捨てる。衣擦れの音に合わせて身体を見下ろし、思わず眉をひそめた。布と肌に染みついた煙草の匂い。それは同時に、先ほどまで一緒だった男の存在を嫌でも思い出させる。
唇と、そして舌に残る苦さは、何度口をゆすいでも残っている気がした。ねっとりと、まるであの男そのもののように。
――わたしを、縛り付けるように。
頭を振って想像を払う。
一刻も早く洗い流したくて、適当に着替えの服を選び、脱いだ制服を乱暴にまとめると、わたしは早足で浴室へと向かった。
その途中、誰かとすれ違うことはなかった。
いくらかさっぱりとした気分で戻ってくると、ベッドの上に投げ出されていた携帯がメールの着信を知らせていた。
とりあえず放置してドライヤーを取り出す。
あらかじめタオルで優しくたたくようにしてある程度の水分はとっているけれど、濡れたことでしっとりと下ろされた髪を傷まないようにゆっくりと乾燥させながら、わたしはほう、と息をついた。
この髪、というか容姿はいわばわたしの商売道具だ。
手を抜くことはできないし、磨き上げることは直接成功につながる。
とはいえ、本気で稼ぎにいくのなら、もっと清楚でおしとやかな方向を売りにしたほうがいいのだろう。
黒髪で、いかにも清純。穢れを知らない無垢な瞳。それでいて、ちょっぴりエッチなことに興味がある。
援助交際をするような男のほとんどが求めているのは、そういった女の子だ。
そんなものが幻想だと、同性であるわたしはよく知っていた。探せばいないこともないだろうけど、たいていは腹が黒い養殖モノ。天然で真っ白なそういった存在は、確実に絶滅危惧種だ。というか、そもそもそういう子たちは援助交際なんてしない。
けれど、それを食べる男たちには、つくりがどうだろうと、味が一緒なら関係ないのだ。
話がそれたけど、もちろんわたしのような――誤解を承知であえてわかりやすくいえば、ギャル系の容姿をした女にも、需要はそれなりにある。
見た目的に遊び慣れているだろうし、自分からそういったアピールをしてくるあたり、性にも奔放なのだろう。
そんなレッテルの下、つまりは偏見に満ちた常識において、彼らは判断する。
この女は、金さえ払えばどんなことでもやってくれる、と。
わかっていても、わたしがあえてこの容姿を選んだ理由。
それは――、
思考と一緒にドライヤーのスイッチを切ると、ゆるやかに吹き出していた温風がやんだ。ふと、無意識に息を止めていたことに気付いて、苦笑した。
何度か呼吸を繰り返しながら、髪には仕上げの櫛を通す。一度だけ痛みとともに引っかかり、数本が抜けてしまった。なるべく何も考えずにそれを捨て、最後にヘアゴムで簡単にまとめた。飾り気も色気もない、本当にただそれだけのためのものだ。
わたしだって、いつでも戦闘態勢なわけじゃない。気を抜くときは抜かないと、折れてしまう。こんな生活を続けているのなら、なおさらに。
鏡で問題がないことを確認すると、後ろ向きにベッドにダイブ。
寝転んで天井を見上げていると、一気に眠気が押し寄せてきた。
今日はとても疲れた。肉体的にも、精神的にも、だ。
そのまま目を閉じようとして、ようやく着信のことを思い出したわたしは、手探りで携帯を引き寄せると、ぼんやりとした視界で画面を見る。
差出人は……ユウイチ。
その名前を見た途端、身体中をあの男の手が這い回っているような感覚に包まれる。見なければよかった。せっかくさっぱりとしたはずなのに、台無しだ。
急降下していく気分に合わせて、瞼も下がっていく。
文面自体はとても短く、読むまでもなかった。誤解のしようもない、端的な言葉。
おぼろげな手つきで削除しながら、わたしは抗えない眠りに身を任せていった。
『また会おうね、サユちゃん』
手首に残った赤い痕が、うっすらと痛んだ、気がした。




