二話、人材派遣
翌日、定時に出社した。タイムカードは、ない。かといって、残業代がちょろまかされているというわけでもなかった。
社長の貝塚は、そういう男だった。
オフィスは、池袋にある。くたびれた集合ビルの三階を借りている。社員は、八人。五年前に社員が興した、小さな会社だ。
広告代理店。業種でいえば、そういうところだった。
俺は、自分のデスクに座った。隣には、香苗が座っている。一応、各々のデスクはボードで仕切られてはいるが、あまり、意味はない。香苗は、椅子を回転させて、暇そうに俺に声をかけてきた。実際、今の時期、仕事らしい仕事は、なかった。オフィスには、まだ香苗しか出勤していない。
「部長、今日も早いんですね」
「普通だろう」
「だって、今、暇なのに」
「暇だから、遅く来ていいという理由はない」
「でも、社長だって、どうせ昼過ぎまで来ないじゃないですか。タイムカードもないんだし、私だって今日の鍵開けの当番じゃなきゃこんな早く来てませんよ」
苦笑するしかなかった。香苗は、去年、入ってきた。俺より四つ下の二十四だが、いまだに仕事らしい仕事をしているところを、見た事がない。
社長の愛人だ、という噂がある。どうでもよかった。ただ、香苗の入れる茶は美味い。会社にいる理由は、それだけで充分だった。
「そういえば、さっき、部長宛てに電話かかってきましたよ。ビリオンバードの、山田って人から」
予想以上に、早かった。今日のところは。山田の声が、耳元で響いたような気がした。
今日のところは。明日、また。
「何か、言っていたか」
「神立さんはいらっしゃいますか。まだ出社しておりません。また電話します、ガチャ」
香苗が大袈裟に肩を竦めるジェスチャーをした。
「これ、仕事の電話ですか?」
「さぁ、な」
そういうと、香苗は興味を失ったように、パソコンをいじくり出した。趣味はネットサーフィン。そんな事を、新人歓迎会で言っていた。
俺も、パソコンを立ち上げた。メールは届いていない。インターネットで、ビリオンバードを検索した。四件、引っかかった。
一件目は、ビリオンバードのホームページだった。クリックして、業種をチェックする。
人材派遣会社だった。百億の未知の可能性を秘めた小鳥達を、あなたの会社で試してみませんか? 社名の由来は、そういう事らしい。
人材派遣は、うちの会社もよく利用する。特に、クライアントからサンプリング、つまりはビラ配りの依頼があった時などは、付き合いのある派遣会社に依頼し、アルバイトを雇用して実行する。
求人広告のページにアクセスした。営業部、人材マネジメント部、広報部。実行部という項目は見つからない。
所在地は新宿の百人町。年商は五億。そこそこの会社だった。今のところ、きな臭い部分は見つからない。
やはり、社長に尋ねるしかないようだった。
正午まで、雑務をこなしながら、過ごした。昼飯に行こう。そう思った時に、社長がやってきた。
恰幅のいい、男だった。他愛もない言い方をすれば、肥えている。年は四十だったが、頭髪だけではなく、顎髭まで白くなっている。
文字通り、重い腰を社長が降ろした。俺は立ち上がり、窓際の社長のデスクに向かった。
「よぉ、神立。儲かってるか」
儲かってるか、は、貝塚の挨拶だった。
「あんまり、ですね。社長にいうのも、何ですが」
声を上げて、貝塚は笑った。四十を過ぎても、貝塚には、どこか少年じみたところがあった。
良くいえば、親しみやすい。悪くいえば、幼い。
「で、どうした。遅刻の説教なら聞かんぜ。ガキの頃から、遅刻は俺の専売特許だったんだ」
俺は微笑んだふりをしながら、デスクに両手をついて、貝塚の耳元で、囁いた。
「ビリオンバードの、山田という男を知っていますね」
貝塚が、笑うのをやめた。目つきが変わる。親しみやすい社長の顔は消え、本来の、貝塚という男の鋭い目つきになっていた。
「野郎、お前にもちょっかい出してきやがったか」
同じ音量で、貝塚が答えた。
「俺にも?」
「酒に、付き合えや、神立。明日は休みだろう。少し、長い話になるぜ」
貝塚の話は、長い。断らずとも、決まって長い話をされてきた。
その貝塚が、長いと、いう。事は、思っている以上に、重大だった。
夜、貝塚と共に、銀座の料亭で、酒を酌み交わした。
座敷。テーブルを挟んで、貝塚がビールジョッキを片手に、この店いち押しの、懐石料理に箸を伸ばす。俺は手酌で、熱燗を一号、空けていた。
「田口、ここ三日、休んでるだろ」
玉子焼きを噛み締めながら、貝塚がいう。田口孝太郎。うちの会社の創立メンバーの一人だった。つまり、俺と同期にあたる。
田口は、風邪をこじらせて休んでいると聞いている。
「風邪じゃない、そういう事ですか」
「酒の席で、かしこまるなよ、弘樹。話がな、余計に重くなる」
二人きりの時、貝塚は俺を性では呼ばない。そういう事に、こだわる男だ。
「そういう間柄じゃねぇだろうよ」
兄弟。初めて、貝塚と会ったあの時、この男は、俺にいった。
今日から、弟になれ。俺とお前は兄弟になる。兄弟で、天下をとる。
「わかったよ、話を続けてくれ」
「田口は、山田にやられた」
それは、わかってる。強行なくして、成功なし。田口は、強行された。山田ではなく、恐らく、あのチンピラに。
「あんたと、知り合いだと、あの男はいったぜ」
「弘樹よ、お前は無事みてぇだが、手ぇ出されなかったのか」
俺は熱燗をもう一号頼み、呑みながら、昨日の出来事について話した。
「……お前らしいな、弘樹」
「別に、はなから叩きのめすつもりはなかったさ。ただ、そうせざるを得なかった」
兄ちゃんは、百獣の王なのさ。
「叩きのめされた方が、よかったかもしれねぇな」
三分の一ほど残っていたビールを、貝塚は一息で呑み干した。
「山田は、お前の事を気に入ったぜ、間違いなく」
今日のところは。明日、また。
「何者なんだ。山田ってのは」
「俺にもう一つの顔があるのは、知ってるだろう」
貝塚の顔が、赤らんできた。酔っているわけじゃない。酔おうとしている。素面で喋るのが、はばかられる話のようだった。
「具体的には、知らない。臭いを、嗅ぎとる事は出来る」
「何の臭いを?」
「獣さ。それも、血に飢えた獣だ」
貝塚は声を上げて笑った。
「牙はもう、抜けたつもりだったがな。弘樹、今、俺と殴り合ったら、どっちが勝つ?」
貝塚の悪い癖だった。話が、逸れる。意図的に逸らしているのかもしれないが。
「俺が、勝つさ。酔っ払いのあんたには、負けない」
貝塚と、殴り合った事は、ある。一度だけだ。それが、出会いでもあった。俺は、貝塚に叩きのめされた。
貝塚は鼻で笑った。
「いうようになったじゃねぇか。小僧」
「話を続けろよ。あんたにもう一つの顔があって、それでどうした?」
「山田も、俺のもう一つの顔を知ってる。山田とは、そっちの顔で付き合っていた」
恋人のようだった。
「そっちの、世界の住人か。じゃあ、ビリオンバードも」
貝塚はゆっくり頷いた。
「ビリオンバードは人材派遣会社だよ」
「それはもう、調べた」
「それは、表の顔だろう。あいつらが本当に派遣するのは、日に当たる世界の住人じゃない」
貝塚は、胡座をかいている脚を組み直した。肘をテーブルに付き、身を乗り出すようにして、囁く。
「プロフェッショナルさ。殺しのな」
吹き出しそうになる。殺し屋。そういう種類の職業に就いている輩が、いないとは思わない。だが、そういう職業の輩を、派遣する会社があるというのは、どこか、絵空事に聞こえた。
「信じてねぇって、そういう顔、してるぜ」
「無理、ないだろう」
「でもよ、事実だ。事実は小説より奇なりという言葉もある」
「言葉が、あるだけさ」
「田口は、殺されかけた」
「あのチンピラが、殺し屋だっていうのか? 馬鹿げてるぜ」
筋肉は、あった。動きも、悪くはなかった。だが、あのチンピラが殺し屋というなら、殺し屋というのは、素人の俺にすら勝てない、雑魚に過ぎないという事になる。
「そいつは違うよ。予備軍さ。ビリオンバードに、今、殺し屋はいない。大方、テストだったんだ」
「なんのテストだ」
「お前の力量を、計る為の」
「山田は俺を引き抜くといった。それと関係が、あるのか」
今度は、さらに深く、貝塚が頷いた。
「俺と山田は、古い付き合いでな。ここ数年は、疎遠だった。だが、一月前、急に、連絡があって、酒を呑んだ」
貝塚と山田は、敵対関係にあるわけではない。それは、今までの会話で、伝わっていた。
「ビリオンバードが、ヤバいと、そういう相談を受けたんだ。殺し屋がいない。このままじゃ、潰れるってな」
「殺しの人材派遣に、何で殺し屋がいないんだ」
「全盛期は、十人以上いた。でもな、この一年で、みんな殺されちまったんだとよ」
震えた。手が、脚が、心臓が、震えた。一瞬だったが、確かに、震えた。
「誰に、殺された」
「別の殺し屋さ。業界じゃちょっとした著名人だ。ライオンっていう、奴がいる。現役の殺し屋じゃ、間違いなくトップの腕を持ってる」
ライオンという名の殺し屋。馬鹿げてる。何もかも、貝塚の話は、馬鹿げてる。しかし、手は、脚は、体は、心臓は、震える。一瞬だが、間隔を置いて、震える。
「山田は、というか、ビリオンバードは、ライオンを殺そうとしてる。ライオンを殺せる、殺し屋を創ろうとしてるんだ」
それに、兄ちゃんは選ばれたのさ。なんせ、兄ちゃんは百獣の王なんだから。
「悪い冗談は、やめろよ」
呟く。不思議そうに、貝塚が俺を眺める。