一話、百獣の王
暇つぶしに、通勤途中や、通学途中にでも、目を通して頂ければ、幸いです。
帰宅途中の、山手線の中だった。
外は、暗い。街の光も、消えているような時間だった。席は空いていた。俺は手すりに頭をもたれながら、腰をかけている。
西日暮里で、二人組の男が、乗ってきた。一人は、赤いセーターに紺のスラックス。太い、金色のネックレスを首からさげたチンピラだった。年は、若い。
もう一人は、チンピラと対照的に、身なりを整えていた。ネクタイをきっちりと締めたその姿はサラリーマンのようにも見えるが、眼鏡の奥にひっそりと存在している、暗い光を携えた眼光は、堅気のそれではなかった。
二人の男は、無言で俺の対面に腰を落ち着けた。チンピラはしきりに、こちらを睨み付けてくる。
見覚えは、なかった。つまり、目の前の男を叩きのめした記憶がない、という事だ。すなわち、怨みをかった覚えも、ない。
田町で、降りた。二人の男が同時に席を立った。
階段を登り、改札へ向かう。酔っ払いがうずくまっていた。ゲロが、階段の縁から滴り落ちている。
改札を出て、眠りについたオフィス街へ足を運んだ。迷路のようなコンクリートジャングルを、右へ、左へ、でたらめに歩いた。ふと、細い路地を見つけた。覗くと、袋小路になっている。路地へ入り、足を止めた。
男二人の足音が、ついてきた。
「神立弘樹さん、ですね」
サラリーマン風の男が、俺の名をいった。懐から、何かを取り出している。暗くてよく見えないが、名刺入れのようだった。
名刺を一枚、差し出された。
「失礼、私、こういうものです」
名刺をみた。株式会社ビリオンバード。実行部主任、山田太郎とある。冗談で創られたような、名刺だった。実行部主任という肩書きが、気になるといえば、気になる。
「聞いた事がない」
俺は名刺をもみくちゃにして棄てた。
「うちの会社を?」
「あんたの会社も、実行部主任という、肩書きも」
「山田太郎という名前は?」
冗談を口にするタイプの男には見えなかったが、読み違いだったらしい。
「何かの例としては、よく聞いた」
「そうですか。私は生まれた時から、山田太郎という名前でしたよ」
偽名ではない、という事らしかった。いまいち、読めない。
「神立さんは、S社に勤めておいでですね。勤続五年。それで、すでに部長職に就いていらっしゃる。大したものです」
「小さな、会社だからだ。それに、若い。他に、人がいないだけだ」
「謙遜なさらないでも結構。貝塚さんは、あなたの事を高く評価していましたよ」
貝塚は、社長の名前だった。悪い男ではないが、口が軽い。
「社長の、知り合いか」
微かだが、男の口の端がつり上がったように見えた。
「知り合いと、言えばね。知り合いですよ」
回りくどかった。俺に何の用があるのか。それをはっきりさせなければならない。
「何か、用があるなら、言え。明日も、朝は早いんだ」
「失敬。単刀直入にいいましょう。引き抜きですよ。神立さんを、是非我が社へ迎えたい」
まっとうな種類の引き抜きのはずはなかった。まっとうなものには、手続きがある。真夜中の路地で行われる引き抜き。面白味はあるが、興味はなかった。
「断る」
「いいですね。決断も早い」
歩き出した。後ろから、チンピラに肩を掴まれた。
「待てよ、おい」
ドスを効かせているつもりか、ダミ声だった。脅せば、屈する男だと思われている。それは、癪に触る。
「何の、まねだ」
山田に、聞いた。
「うちの方針ですよ。強行なくして、成功なし」
頭の悪い、政治家のキャッチフレーズに聞こえた。
「そういう方法が好きなら、付け加えておいた方がいい。詳しい説明も、必要だってな」
「あなたがイエスと言ってくれれば、二十四時間体制で説明しますよ」
「やれやれ、としか、いえない」
チンピラの腕を、振り払った。それと同時に、気がつく。筋肉は、ある。ただのチンピラではなさそうだった。
「野郎!」
左の、正拳突きだった。俺の顔面を捉えようとしたそれを、右手でいなした。重心さえ見極めれば、難しい事ではない。
チンピラは意外そうに、山田は表情を変えずに俺を見ていた。
「目を、潰すぜ。坊主」
予告した。急な言葉に、チンピラは無意識に反応し、大股開きで顔面をガードした。
股間を、蹴り上げた。身悶えながら、チンピラが目を見開いて絶叫をあげる。左目に、人差し指を突っ込んだ。プリンのような感触がしたあと、チンピラは倒れた。
山田が、拍手をしていた。
「お見事ですよ。少々、汚かったですがね」
「まるで、あんたらが綺麗みたいな言い方だな」
山田は、何も言わなかった。
「あんた達が、どういう目的で、俺に接触したのかは知らない。興味もない。帰るぜ。文句はないな」
「今日のところは」
明日以降も、同じ事が続くかもしれない。山田は、しつこそうな男だった。
明日、社長に聞いてみようと思った。山田が何者で、何故俺を狙うのか。
兄ちゃんは、百獣の王なのさ。
ふと、雅樹の言葉が、頭に浮かんだ。
兄ちゃんは、百獣の王なのさ。だからさ、百獣から、王の座をいつでも狙われてるんだ。
悪い冗談はやめろ。俺は弟にその言葉を言われる度に、そう、答えてきた。
大通りに出て、タクシーを拾った。帰路に、ついた。
山田の言葉が、反芻している。今日のところは。今日のところは。今日のところは。
兄ちゃんは百獣の王なのさ。
悪い冗談はやめろ、と、口にだしそうになって、思いとどまる。